めざめのゆめ07

 気付いたら部屋の中だった。勉強机、ベッド……紛れもなく自分の部屋だ。充電器に繋がれたスマホを手に取ると、ロック画面には八月四日の文字。時刻は昼を過ぎたあたりだ。なまえはすぐに鏡を見た。
 ひどい有様だ。服はボロボロで、日に焼けた頬は涙で濡れている。こんなときに戻されて、どうしろと。千空はひとりで大丈夫だろうか。
 シャワーを浴びながら泣いた。皮の剥けたところにボディソープが沁みて痛い。髪を洗おうとしたら指に何かが引っかかる。引き抜こうとして、途中で手が止まった。千空が作ってくれた紐だ。外したくないと思ってしまった。
 あのときからずっと、千空に髪を結んでもらっていた。最初は文句を言われたが、途中からは紐を差し出すだけでお願いは伝わるようになった。紐は何度か切れてしまったけれど、そのたびに千空が作りなおしてくれるのだ。思い出しただけでいっそう泣けてきた。
 髪の束の半分ぐらいまで下りてきた紐は、自然にするりと抜け落ちてしまった。足元に落ちたそれを拾い上げ、腕に通す。
「千空くん……」
いくら莫大な科学知識があるといったって、まだ十五の少年である。そんな彼をあんな世界にひとり置き去りにしてしまうなんて。いつか帰りたいとは思っていたけど、なぜ今なのか。なまえはシャワーに打たれながらしゃくり声を上げた。
 着替えて部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。ちょうど視線の先にあった、七歳の千空が作った装置に手を伸ばす。
 押せそうなところは全部押した。けど、何も起きない。作りかけだから当たり前だ。なまえは装置を抱いたまま目を閉じた。

 起きたらツリーハウスだった、なんてこともなく。なまえは残っていた冷食のカルボナーラを食べた。すごくおいしい。なのに物足りない。おいしいねと言って、返事をしてくれる彼がいないと嫌だ。返事なんてなんでもいい。たんぱく質がどうとか、塩分濃度がどうとか、理解できない話のほうが多かったけどそれを聞くのが好きだった。

 それから四日も経てばひとりの時間も終わりだ。両親が帰ってきて、根拠はないけどもう千空には会えないような気がした。ふたりだけの秘密の時間みたいだった。千空も他の誰かに会えていたらいいのだけれど。
 なまえには日常が戻ってきたが、どこかやるせない日々だった。気付けば千空のことを考えてしまう。部屋に戻るたび、眠りにつくたびに、千空がひょっこり現れることを期待しているのだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。
 千空は今も困っているかもしれない。それを平和な世界でただ待っているだけなんて。石の世界で滅んでしまった文明がここにはある。あのときスマホで調べられたらな、と思ったことは何度もあったはずだ。
 知識を蓄えよう。千空に追いつくのは無理でも、頼りきりではなくなる。次にいつ会えるかわからないし、会えないかもしれないけれど、やるしかない。
 まずは古代の人の暮らしに絞って勉強することにした。現代的なものがなくとも、真似できる点が多くあると思ったからだ。その次は植物学、サバイバルの知恵など、学べることはたくさんある。途方もない量だが、調べて答えが出てくるだけまだ幸せだ。すげえじゃねえかと言ってもらえたら、それだけで嬉しい。


 なまえの日常が戻ってから、四年が経過した。なまえは大学に進学し、今は親元を離れてひとり暮らしをしている。部屋には生活必需品と勉強道具、それから千空が作った装置がある。
 作りかけだった装置はなまえが完成させてしまった。千空に頼まれた部品のメモと、途中経過の形状を合わせて、それがロケットに使われるエンジンの簡易版だということがわかったのだ。とても食費の七千円で作れる代物ではないが、千空は何を代替品として使うつもりだったのだろう。資金調達のバイトの期間もあわせて一年かけてそれは完成した。七歳の子供が一週間で作ろうとしていたものに一年だ。しかもやっとのことで完成したというのに、時空を超えることはできなかった。本来なら当たり前だ。ただのエンジンなのだから。それでもひとり暮らしの家まで持ってきてしまったのは、千空のことを片時も忘れたくなかったからかもしれない。
 夏休みになると、いつもに増してあの日々を思い出す。麦茶とお菓子を机に置いて、たしか宿題でもやっていたっけ。今はノートを広げるよりもパソコンで作業することが多くなって、少しは近づけただろうか。ねえ、
「千空くん……」
「なんだよ」
聞き間違いかと思った。ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのだ。けれど追い打ちのように「聞こえてんのか」と彼の声が言う。
 なまえは後ろを振り返る。しかし千空がどうとかより、ありえない物量の何かが部屋に収まっていることに驚いた。
 つるっとした質感の、アニメに出てきそうな宇宙船みたいだった。壁を突き抜けているように見えるけど、壊れてはいない。そのちょうど真ん中から白衣をたなびかせた千空が降りてきたのだ。
「よお」
「うん……」
「楽しい異世界旅行と行こうじゃ――「千空くん!」
泣きながらなまえは千空に飛びついた。わんわん泣き叫んでいると、ややあって肩を抱かれる。
「おい、最後まで言わせろ……」
「だって、だってだって!」
「おーおーわかったから落ち着け」
「……ごめん」
千空の胸元に頬をぐりぐりと押し付ける。もう離れ離れになってはたまらない。なまえはそのぐらい思っていたのに、
「……液体燃料エンジンじゃねえか!」
千空はなまえをべりっと引き剥がしてエンジンに近づいた。異世界旅行のできる装置を作った男が今さら何に興奮するというのだろう。なまえの涙は引っ込んでしまった。千空を追って、背中をべしべしと叩く。
「そんなの今はどうだっていいじゃない!」
「どうでもよくねえ! テメーが作ったのか?」
キラキラした目で問いかけてくる千空は、あのときと何も変わっていない。安心したのと成果を認められて嬉しいのとで、不満が塗りつぶされていく。
「……まあ、途中までは千空くんが作ったやつだけど」
「やるじゃねえか!」
「……完成したら、千空くんに会えるかなと思って」
「おう……」
千空は急に顔を背けた。腕を引いてみても、目を合わせてくれない。
「ねえ、あの船に乗ったら私も千空くんの世界に行けるの?」
「まあ、そういうこになるな」
「じゃ早く行こうよ!」
「おいおいちょっと待て」
がしりと腕を掴まれる。想像していたよりもずっと大きな手だ。自由の利くほうの手を上から重ねてみたけど、包み込むには全然足りなかった。
「大きくなったね、千空くん」
「十五のときに気付け。っつーかいつまで年上ぶってんだ」
「ん-……ずっとかなあ? なんかこう、守ってあげたくなっちゃうの。実際は全然っていうかむしろ逆なんだけどさ」
助けられてばかりで、一度だって千空の力になれたことがあっただろうか。ずっとそれが気になっていて、よりによって別れの直前に泣いてしまった。今も勉強して知識は蓄えたつもりだけど、千空が必要としてくれるかはわからない。
「……それじゃ困るんだよ」
「困る?」
もう片方の手も千空に掴まれてしまった。真正面から見る千空の顔はどの記憶よりも大人びていて、胸がどきっとした。
 しばらく目を合わせていて、ふと握られた力が強くなる。千空はいつになく苦しそうな顔をしていた。
「……こっちはテメーのせいで初恋こじらせてんだよ」
「は……つ、こい? ……私に?」
「だからそう言ってるだろ」
「……ちょっと、待って」
なまえは千空のことが好きだが、そういった目で見たことはなかった。あくまで親愛を向けていたつもりだったのだが、千空はそうでなかったということだろう。だが、気持ちを伝えられて嫌悪感もない。むしろ嬉しいと思ってしまった。意識して恋愛感情を抱かないようにしていたのか、それとも告白されて急に気持ちが変わったのか……わからない。こんなに混乱した状態で答えを出してしまったら千空に失礼な気がする。けれど、待たせすぎるのもいかがなものだろう。
「返事は急いじゃいねえよ」
「……でも、」
そのとき、船の中から笑い声が聞こえてきた。堪えていたものを吹き出してしまったような、男の人の声だった。
「な、なんだろう! 他にも誰かいるの?」
「チッ、あのクソメンタリスト……余計な気ィ回しやがって」
なまえと千空はうやむやの状態のまま船に向かった。中には白髪と黒髪が半分ずつの男の人いた。
 その人は可笑しくて可笑しくてしょうがないという感じだったのに、なまえを見た瞬間けろりとした顔で人のいい笑みを浮かべた。
「なまえちゃんごめんね~。盗み聞きしたかったわけじゃないんだけど、さすがにひとりで異世界旅行ってワケにもいかなくて」
「……千空くんのお友達ですか?」
「うーん……まあ、そんなとこ? ってかやっぱ俺のこと知らないんだ。ジーマーで異世界じゃん」
「おい、全女子大生がテメーのこと知ってるっつー自惚れもたいがいにしとけ」
「うわ~久々のドイヒー発言……」
そう言った彼は「あさぎりゲン」という名で芸能人をやっているそうだ。念のためスマホで調べてみたけど、一件もヒットしない。
「それでどうする? 異世界旅行だよなまえちゃん」
「おいそこ仕切るなー」
「行ってみたいです。……あ、自由に行き来できるんだよね、千空くん」
つい二つ返事で頷いてしまいそうになったが、一番気になっているところだ。千空に改めて確認すると、
「さすがにそうじゃねえとホイホイ来ねえわ」
当然だろうという顔で言われてしまった。ならば、躊躇する理由もない。
 ワクワク遠足気分で案内された席に座ると、千空の手が伸びてくる。何かと思えばシートベルト……のようなもの。わりと複雑な作りをしているようで、千空の手は何度もなまえの体の上を行き来した。
 一瞬どきっとしてしまった。さすがにさっきの今で意識しすぎである。
 発進してからは、ほとんどゲンが話していた。実は一度、なまえの実家に行ってしまったそうなのだ。そこで机の上に賃貸の契約書が置きっぱなしになっていたのを見つけて、ここまでたどり着いたと。
「あれ親御さんに見つかったら一発アウトだったよね。っていうかなまえちゃんの部屋に無断で入ったのも、ほんとごめんね?」
「いえ……私は全然」
「外に停めるわけにもいかねーし、まあ不可抗力だ」
「はいそこ開き直らない~」
ぐん、と引っ張られるような感覚があった。どれほどのスピードで動いているのか、そもそもどこをどう移動しているのかもわからない。しかしほんの数十秒で、その感覚もなくなる。
 千空は立ち上がってなまえを固定していたベルトを外した。
「もう立っていいぞ。しばらくしたらもう一回。で、到着だ」
「飛行機みたいな感じ?」
「そんなところだ。俺はエンジン見てくる」
「えっ」
千空はすたすた歩いて小さいハシゴのようなものを上って行ってしまった。
 なまえはちらりとゲンのほうを見る。普通、初対面のふたりを置いて行くか? と思ったけど、本当に点検が必要なら仕方がない。真相のほどはわからないけれど。
「……エンジン室があるんですか?」
「部屋っていうかギリひとり入れるかな~ってスペースがある感じ」
「そうなんですね……」
ゲンはにこりと笑った。なぜそういう顔をされるのかわからなくて、なまえはわずかに首をかしげる。
「千空ちゃんね、ああ見えて照れてんの」
「そう、なんですかね?」
「そうそう。だから許してあげて」
「……あの、」
なまえは身を乗り出した。本当なら友達にでも相談したいところだけど、今すぐ誰かに話を聞いてほしかった。それに一つ気になっていたこともあって、
「あさぎりさんってメンタリストなんですか?」
千空は「クソメンタリスト」と言っていたけど、ゲンはマジシャンだと名乗った。どちらも正解なら、メンタリストとしてのゲンと話がしたい。
「なになに、相談したいことでもある? 千空ちゃんならしばらく戻ってこないだろうし何でも言っちゃって?」
ごくりとなまえの喉が鳴る。
「……えっと、告白されてすぐ好きになるのって変ですか?」


*****


 打ち明けられたなんとも可愛らしい悩みにゲンはため息をつきたくなった。こんなことなら自分が手を貸さなくても上手く行くだろう。苦楽を共にした悪友が何年もあたためていた恋心に、ちょっと花を添えてやろうと思っていたのに。

 初めは本当に恋愛ごとに興味がないのだと思っていた。ただ、たまに誰かを思い出したように苦しそうな顔をするのを見てもしやと思ったのだ。
 もう一つのピースはツリーハウスにあった。壁に刻まれた、千空の筆跡とは違う誰かの文字。彼だか彼女だか知らないが、司に聞いても知らないという。杠も、嘘のつけない大樹も知らなかった。それで一つの仮説を立てたのだ。忘れられない誰かがいるんじゃないだろうかと。
 揺さぶるつもりがあっけなく千空は認めた。亡くなったと思っていたのが、とんでもない方向に話が飛んでしまったのは驚いたが。とにかく、そのときから決めていたのだ。実際に見てみないと異世界なんて信じられないと言ったのもそのためだった。
 ゲンの思惑通り、千空は異世界行きの同行者としてゲンを指名した。クロムも行きたそうにはしていたが、万一のサポートとして研究室に残れるのは彼のほうだ。あとは「彼女に上手く説明できなかったら俺がかわりに話してあげるよ」とそそのかした。しかし、予想に反して千空は潔く告白した。本当に意外だった。もっとうだうだ引き延ばすかと思っていたのに。恋愛脳は非合理的だとばかり言っていた男が、ずいぶん合理的に恋を進めているじゃあないか。確かに多少のアドバイスはしたが、ここまで活かしてくれるとは思っていなかった。まあ、エンジンを見に行くと行って逃げ出したのには、マイナス五点ぐらいはつけちゃうけど。

 顔を真っ赤にしたなまえは「やっぱりおかしいですか。尻軽っぽいですか」とあらぬ方向へ行こうとしていた。慌てて止めるも、彼女はいまいち納得していないようだ。
「普通の普通だよ。好きって言われたら誰だって意識しちゃうもん。でも、なまえちゃんの場合はちょっと違うかもね」
「私の場合、ですか?」
「初対面でなに言ってんのって思うかもしれないけどさ、なまえちゃんはもとから千空ちゃんのこと好きだったんじゃない?」
「それが……わかんなくなっちゃって、違うと思ってたんですけど、そうだったのかもって思ったりもして……」
なまえは両手で真っ赤な頬を包んだ。それそのまま言っちゃえばハッピーエンドだよ。軽いなんて誰も思わないって。これが千空相手だったらぴしゃりと言えたものだが、相手は如何せん初対面の女の子。ゲンはいつもの営業スマイルを貼り付けつつ、どうせなら楽しんでやろうとも思っていた。あとで千空をからかってやろう。今まで散々こき使われたのだから、これぐらいは許されるはずだ。
「千空ちゃんもそうだったと思うけど、なまえちゃんも自制してたんじゃない? ほら~石の世界っていう非常時だったんだし」
「はい……あさぎりさんと話してると、そうかも! ってなっちゃいますね」
「ありがと~。それめちゃくちゃ嬉しい誉め言葉。でも、騙されすぎないようにね」
ゲンはにこりと笑った。きょとんとした彼女に、たぶん真意は伝わっていない。
 しばらくすると千空は戻ってきて、なまえに安全ベルトを装着した。その間にも彼女は律義に頬を染めて、静かにうつむいている。いやもう一目瞭然じゃん。と叫びたくなってしまった。