優しさは誰のため04


 ゲンが裏切った。氷月の報告によって今までの妄信的だった空気に亀裂が入ったように見えた。
 なまえもまた、少なからず化学王国に魅力を感じていたようだ。母親の石像のこともあるから無理もないだろう。すっかりお馴染みとなった雑談の時間に、どちらが好ましいかと聞かれ羽京は返答に困っていた。
 争いは避けたい。復活者同士で命を奪い合うことだけは阻止したかった。そのために司の石像破壊も受け入れたのだ。石像のままなら人間ではないという理論武装までして。
 しかし、なまえの母だという石像を「モノ」と思うことはできなかった。その隣の石像も誰かの大切な人かもしれない。司が壊した石像だってそうだ。自分の考えが破綻していることに羽京は気付いていた。だからこそ、ゲンの裏切りと千空という人間の存在が重くのしかかる。
 ゲンの裏切りが発覚して数日、羽京はいっそう周りに気を配るようにしていた。他にも科学王国に寝返る人間がいたとしてもおかしくなかったからだ。そこで見てしまったのが、杠の極秘ミッションだった。
 杠は服を縫うために一人になることがある。集中したいからという理由で周りには大樹でさえも寄せ付けない。彼女が袋の中に大量の石の破片を隠しているのは音でわかった。後をつけてみると、石像の破片をつなぎ合わせて人の形に修復しているところだった。
 もしかしたらと思う。この世界でまだ、全人類を救おうとしている人間がいるのではないかと。

「――羽京さん?」
「あ……ごめん」
 気付けばなまえがに配そうな顔で覗き込まれていた。疲れかなと誤魔化せば、いっそう彼女は不安そうな表情をした。
「……えーと、何の話だったっけ」
「千空くんって人のところ、どう思いますかって。……あんまりそういうこと言わないほうがいいですかね」
「いや、実際そういう話はけっこう耳にするよ。僕も理想としてはいいんじゃないかなって思う」
「そうですよね~。やっぱり理想で終わっちゃうのかな」
 なまえは機会さえあれば千空側につくのだろう。石になった家族と再会するにはそれしかないからだ。他にも似たようなことを考えている人間がいてもおかしくはない。復活液を盗んだ彼だってそうだ。
 司のカリスマによる結束がバラバラになったとき、自分はどこにいるのだろう。誰かが命を落としてしまうことだけは避けたかった。
「もしゲンくんたちが攻めてきたら……争うのは、いやです」
「……うん」
 なまえがちらりと弓を見たのがわかった。人を傷つけるための道具に見られたのかもしれないと思うと、悲しくなってしまった。
「……すみません。羽京さんが内緒にしてくれるからって、変なこと言いすぎました」
「いや、僕は全然」
 なまえの視線が正面から突き刺さる。帽子があっても逃れられない。彼女の瞳は潤んでいた。ここまで真っ直ぐ見られては、羽京としても気付かないふりをすることはできなかった。
「……えーと、どうしたの?」
「羽京さんが、すごく苦しそうな顔してたから……すみません」
「僕が?」
 羽京は片手で口元を覆った。そこまで言われるほど顔に出ていただろうか。……わからない。しかし彼女が言うのならそうなのだろう。
「……ごめん、ちょっとリアルに想像しすぎちゃった」
 努めて明るく言ったつもりだ。なまえがどう受け止めたかはわからないが、彼女は眉を下げて困ったような笑みを浮かべていた。

 雪解けまであとわずかというときだった。夜中だというのに石を叩くような音がして、羽京は弓を取った。
 音が聞こえたのは石神千空の墓のある辺りだった。近づくにつれ、足音や話し声が鮮明に聞こえてくる。話し声の一人はゲンだった。つまり、敵が潜んでいるのだ。
 耳には自信がある。矢は絶対に当たらない場所に放った。そうやって茂みの中に追い詰めて、後は逃げ場がないと相手が気付いてくれればいいのだけれど。

 三人捕らえるのは無理だろうと思っていた。誰かに応援を頼めばそれもできたかもしれないが、現時点では司と科学王国、どちらにも勝機がある状態にしておきたい。決めるのは科学王国の目指すものを確かめてからだ。
 敵も一枚上手だったようで、一人が囮、あとの二人には逃げられてしまった。囮になったクロムという男は、司を前にしても怯むことなく「科学使い」と名乗った。
 クロムの言う科学は、炎色反応とか、義務教育で習う程度のレベルだった。羽京を含め誰もが「なんだその程度」と思う。しかし冷静に考えてみると、彼はおそらく教育を受けていない。そして司の目指しているのは、それ以下の世界だ。
 羽京としては、クロムからもう少し話を聞き出しておきたかった。一番気になっているのは、科学王国が本当に人類全員を救おうとしているのか、人を殺すつもりがないのかというところだ。
 杠の石像復元については、迂闊に口を滑らせると杠自身が危ない。そこで確認したいのが、氷月とともに千空を追って命を落としたという男たちについてだ。氷月の報告では千空たちに殺されたという話になっているが、どうにも信用ならない。しかし羽京の想像通りだとする。あのクロムの性格であれば、司や氷月の前でそれを暴露しかねない。本当は真っ先にそのことを確認する予定だったのが、クロムと話して計画が崩れてしまったのだ。
 味方についてもいいと打ち明けることも考えたが、これにはまだ早すぎる。ただ、クロムが一人で洞窟の近くにいたと嘘の報告を彼自身の前でしたことで「敵ではないかもしれない」ぐらいは思ってくれている可能性はある。
 司はクロムをエサにして千空をおびき寄せるつもりらしい。クロムをわざと外から見える位置に幽閉して、その周りに罠を張り巡らせている。このままでは千空の命が危ない。

 なまえはクロムのことが気になっているようだった。今のところ見張り以外の人間がクロムと接触した様子はない。さすがに彼女も迂闊に近づいたらいけないとわかってはいるようだが。
「お喋りなんてしようものなら疑われちゃうからね」
「……はい、わかってます。でもどんな人か気になって」
「威勢がよくて、素直そうな子かな? こっち側につくってことはなさそうだった」
「……クロムくん、どうなっちゃうんでしょうね」
「うーん……おとなしくしていれば悪いようにはしないと思うけど……」
「威勢がいい」と言ったばかりだ。まるで説得力がない。それに実際、クロムは脱獄を試みているようだった。用を足すため牢の外に出ているときに、服の中に草木や石ころを隠して持ち帰っている。ただ難航しているようだったから、彼の身体検査で没収した科学道具、おそらく電池を牢にこっそり差し入れしたのだ。
「……羽京さん」
「うん?」
「きっと大丈夫ですよ」
 気を遣わせてしまったかな、と思った。なまえは膝元でぎゅっと手を握りしめている。本来なら他人を慰める余裕なんてないはずなのに。

「火事」という単語が聞こえた。遠くで騒ぎが起こっている。数人の叫び声。羽京の頭に真っ先に思い浮かんだのは、クロムに差し入れたばかりの電池のことだった。
「……何か騒ぎがあったみたいだ」
「え……あ、羽京さん!」
 なまえに説明している時間がなかった。羽京は弓を手に駆け出した。できれば撃ちたくないと、願いながら。

 羽京が現場に到着したころには騒ぎは収まりかけていた。原始人が木の枝で火を起こしたということになっているらしい。どうやら電池だけは死守できたようだ。
 一度ボヤ騒ぎがあってもうダメかと思ったが、クロムは脱獄を成功させた。方法はわかっていないが、竹の牢を繋いでいた紐がほとんど溶けてしまっている。やはり彼を見くびっていた。司は千空一人を殺せばそれで済むと思っているのかもしれないが、クロムのような男がきっと黙ってはいないだろう。そうやって人類は文明を手に入れてきたのだ。