七海龍水という男03
「三ヶ月も一緒に過ごせば情がわくものです」
フランソワさんはグラスを磨きながら言った。キュ、と心地よい音がする。
あの後、龍水くんにはみんなのところに戻ってもらった。主催なんだから私に付きっきりではまずいと思ったからだ。
フランソワさんは驚く様子もなく私の報告を聞いてくれた。そこに私を心配したクラスの子が来てくれて、恋人(仮)について話したらめちゃくちゃ笑われた。応援すると言ってくれたけど、絶対に面白がっている。三ヶ月後の結果が辛すぎることがほぼ決定しているので、学校ではこの話題に触れないようにお願いした。そんな後ろ向きでどうすんのって、仕方ないじゃないか。
プールでの失態が恥ずかしすぎて、私は残りのほとんどの時間を隠れるように過ごした。すれ違った知らない人にまで「大丈夫でしたか?」と聞かれて、それは本当にありがたいんだけど、恥ずかしいものは恥ずかしい。
ようやく船から降りたときにはもうクタクタだった。特に何かしたわけじゃないけど、精神的な消耗が激しい。
これからどうすればいいんだ。途方に暮れながら駅に向かおうとすると、後ろから「待て」と龍水くんの声が。
「貴様、正気か?」
「……正気じゃないかもしれない」
「俺の連絡先も聞かずに帰ってどうする」
「あ」
慌ててスマホを出したけど、何だかそれすらも情けない。
メッセージアプリに登録された龍水くんの名前を見てもまだ実感がわかなかった。こんなことになったぐらいだから、嫌われているわけじゃないと思うけど。いや、そもそも龍水くんに嫌いな人なんていないんじゃないか。考えていたら、メッセージを受信した。「次を楽しみにしている」って。
「今日はありがとう」と返した。全く会話がかみ合っていない。まだ龍水くんが目の前にいるというのに不思議だ。
「迎えを待つなら船の中に入っていてもいいぞ?」
「ううん。地下鉄だから、ありがとう」
「なら途中まで送ろう」
「えっ……そんな、いいよ」
嬉しい気持ちはあった。けど、申し訳ないし私としても今日は疲れている。やる気があるのかと言われてしまいそうな返答だったが、龍水くんは引いてくれた。ほっとした半面、今のはまずかったかなとも思う。龍水くんに背を向けて数歩、振り返ったら龍水くんはまだ私を見送っていてくれた。
「……やっぱり送って」
さっきのがマイナス十点だとしたら、今のはマイナス二十点はいくだろう。情緒不安定か、と突っ込んでくれたらどれだけよかったことか。「いいだろう」という龍水くんの返答は、珍しく私の予想通りだった。
龍水くんは駅まで送ってくれると言った。歩いて五分ぐらいの距離だ。これで一言も喋らなかったら馬鹿。そんな気持ちで私は歩いていた。
「龍水くんはどこか行きたいところとかあるの?」
「俺の場合は行きたいと思ったらすぐに行くからな」
「そう言われてみるとそうだ」
「その中でという意味でいいならいくつかピックアップしておこう。だが二人でとなるとあまり遠くへは行けないな。そういう貴様はどうなんだ?」
「普通かもしれないけど映画見たりカフェ入ったりとかかなあ」
あとは彼氏のいる友達に普段何してる? って聞いて考えたい。でもダメだ。そんなことしたら彼氏できたのって話になってしまう。さっきのクルージングで一緒だった子ならいいかもしれないけど、彼女も一応龍水くんを狙っていたのだ。相談したらしたで楽しいような気もするけど、もしかしたらを考えるとやめておいたほうがいいだろう。
「龍水くんは平日と土日だったらどっちのほうが都合がいい?」
「日によるな。来週の水曜なら空いているぞ」
水曜……あ、クレープ食べに行こうって言ってた日だ。なんて間が悪い。龍水くんがこれでもかというほどお膳立てしてくれているのに。もちろん友達の先約を断るなんてありえない。
「貴様はずいぶん顔に出るんだな。用があるなら遠慮せずに言え」
私がどんな顔をしてたって言うんだろう。正直、汗はヤバイ。頭も痛くなりそうだ。
「……ごめんなさい」
「自分の都合のいい日を言えばいいだろう」
「……むしろ水曜以外ならほぼ大丈夫といいますか」
「なら木曜だ。それでいいな?」
「龍水くんは大丈夫なの?」
「ああ。構わん」
「よかった……」
そうこう言っているうちに駅に着いてしまった。詳しい日程についてはまた後で連絡することにして、私は階段を下りる。
「気を付けて帰れよ」
「うん。龍水くんも。送ってくれてありがとう」
龍水くんは改札の前までついてきてくれた。……嬉しい。一度は断ろうとしていたというのに、私は勝手なやつだ。
地下鉄の中で私は龍水くんにもらったメッセージを読み返していた。これからどんな会話が続いていくんだろう。今でもちょっと状況を飲み込めてない気はするけど、三ヶ月を無駄にすることだけはしたくない。
ずっとスマホを眺めていたら最寄り駅に着いてしまった。危うく降りそびれてしまうところでアナウンスに気付く。何とか無事に下車できた。
これから詳しい日程とか、どこに行くか決めなきゃいけない。家に帰った私はお風呂の中で考えていた。いつも友達とお茶するようなところに行ってもいいのかな。最初はそんなに遠出しないほうがいいよね? 映画も調べておこう。……だめだ、一人で決めきれる気がしない。
お風呂から上がるとスマホに通知が来ていた。……龍水くんだ。もうこの時点で私はどきどきしていた。
――無事に帰れたか?
「……っ!」
こういうことするんだ、龍水くん。恋人みたい、というよりこれ、私が落とされてる? いや、逆なんですけど~!
私はスマホを持ったままベッドにダイブして足をバタバタと動かした。ぽたりとシーツに水滴が落ちてハッとする。まずは髪を乾かさないと。でも龍水くんを待たせるのは悪いから、ちゃんと帰ったよの連絡だけしてドライヤーのスイッチをオンにする。
いつもより手早く髪を乾かした私は再びベッドの上に戻った。さっきよりは少し落ち着いた気がする。けど、落ち着いたら落ち着いたで三ヶ月後のことが不安になってきた。好きになってもらえるのかな。スマホをじっと見つめても、何も変化はない。返事をしなくていいような文面で送りはしたけど、もしかしたらと思うと緊張してしまう。何度か別の通知が来ているうちに、私はすっかり疲れ切ってしまった。
結局、この日のメッセージのやり取りはそれだけだった。スマホを充電器に差して、通知も鳴らないようにしてベッドに入る。目が冴えていたような気がしていたけど、気付いたら朝だったというぐらいにはぐっすり眠れた。
これからのことが不安で仕方ないつもりだったけど、傍から見ると私はどうやら浮かれていたらしい。学校では「何かいいことあった?」と聞かれる始末だ。それでも言いふらす気にはなれなくて、なんでもないと首を振る。やっぱり学校ではデートの相談なんてできそうにない。
学校の帰りに私は一人でカフェに入った。友達とはよく来る場所だけど、一人で入るのは初めてだ。龍水くんを誘うのもここにしようかなと考えていたら、居ても立ってもいられなくなって来てしまったのだ。出来たばかりの店じゃないから混んではいないし、ケーキもおいしい。龍水くんが甘いものを好きかはわからないけど、コーヒーや軽食もあるから大丈夫だろう。
龍水くんにはさっそく連絡して、OKの返事も貰った。あとは木曜を待つだけ。学校帰りだから服装のことも気にしなくていい。完璧じゃん。
そして、ついに当日になってしまった。朝から私はソワソワしていて、何度もスマホで約束の時間と場所を確認した。学校が終わると即ダッシュで待ち合わせ場所の駅へ。化粧室で髪がボサボサになっていないかだけ確認して、私は龍水くんを待った。
あと五分で着く。龍水くんからメッセージが来た。今は地下鉄の中みたいだ。こう言ったら失礼だけど、龍水くんって地下鉄乗るんだ。どこへ行くにも車の送迎があるイメージだった。
がたんがたんと音が聞こえてくる。ホームに電車が到着したみたいだ。時間的に龍水くんが乗ってるのはこれだ。改札から流れてくる人の波をまじまじと見つめて、ひときわ目立つ金髪を見つける。わ、制服だ。私もだけど。
龍水くんは私に気付くとニッと笑った。
「待ったか?
「……っううん! 全然!」
「……」
「えっと、どうかした?」
「いや、貴様は相変わらずだな。これが作戦だったら大したものだ」
「?」
作戦とは? ぽかんとする私を前に龍水くんはまた笑った。
結局よくわからないまま、私たちは店に向かった。自分と同じ制服を着た子たちの流れに逆らって歩く。私はここでようやく自分の失敗に気付いた。知り合いに見られたらどうしよう。
友達とよく来る店、つまり学校からめちゃくちゃ近い。何なら店の中に誰かいるかもしれない。けど今さら代わりの場所が思いつくわけもなく、少しうつむきがちにいなりながらいつものドアをくぐる。
幸い店の中に同じ制服を着た人はいなかった。ただいつも見る店員さんに――とくに何か変な反応をされたわけじゃないけど、一人で私が勝手に気まずい思いをしていた。
席に座り、龍水くんにむかってメニューを広げる。
「私もう決まってるの。……あ、急かしてるわけじゃないからね」
「何を頼むんだ?」
「カフェオレとアップルパイ」
「好きなのか?」
「うん。おいしいよ」
「そうか」
そう言って龍水くんはメニューに目を落としたかと思うと、すぐに呼び出しのボタンを押した。
「もう決めたの?」
「ああ、俺も貴様のお気に入りとやらを食べてみたくなった」
「……そっか」
店員さんが来ると、龍水くんは手早く注文を済ませた。アイスコーヒーとカフェオレ、それからアップルパイが二つ。いつもなら出てくるまでにそんなに時間はかからない。でも、何を話すか迷っている時間はすごく長く感じられた。
ご趣味は……これじゃお見合いだ。ええ、何を聞けばいいんだろう。好きな食べ物は、だと子供っぽいような。イヌ派ネコ派? いやいや、何を聞こうとしてんの。
「百面相だな」
バッと両手を顔に当てる。恥ずかしい。死ぬ。
「いつもこうなのか?」
「いつもは……友達としか、来ないから」
デートだから緊張してるんですよ、というのが伝わったかどうかはわからない。龍水くんはただじっと私を見ている。正直、観察するのはやめてほしい。でも私も龍水くんから目を離せなくて、だからきっとお互い様だ。
沈黙を破ったのは店員さんだった。アップルパイと飲み物が来たのだ。店員さんはいつも私がカフェオレを頼むことを知っているからか、私のほうを見ながら「カフェオレのお客様」と言った。一応確認はするらしい。
龍水くんがアップルパイを食べるのに、なぜか私がどきどきしていた。視線に気づいたのか、龍水くんは食べるなり一言「うまいな」と言う。
「よかった」
「コーヒーもいい香りだ」
「ブラックでいいの?」
「俺は砂糖はあまり入れんな」
「へえ~」
大人の味覚だなあ。私も砂糖はあまり入れないけど、牛乳で割らないとダメだ。
「この店はよく来るのか?」
「うん。学校から近いし……でもそれがちょっと失敗だったかなって」
「なぜだ?」
「知り合いに見られたら……ほら、まだお試し期間だし。……あっ、まだっていうのには深い意味はないです」
そのとき、スマホが短く鳴った。メッセージの通知だ。なんとなく嫌な予感がする。
確認しなくていいのかという龍水くんに甘えてスマホを取り出す。ロック画面にはよく見る名前と一言「誰?」というメッセージが表示されていた。続けて目をキラキラさせたウサギのスタンプが来る。ハッとして窓の外を見てみると、友達がにやりと笑いながら手を振っていた。
友達はすぐに歩いて行ってしまったが、すぐに「後で聞かせて」という追い打ちのようなメッセージが届く。
「どうかしたか?」
「友達に見られてたみたい。誰? って」
「恋人だと言ってくれて構わん」
「でも……」
「貴様はそういうつもりでここに来たんじゃなかったのか?」
「そう、だけど……先のこと考えたら無理だよ」
龍水くんは黙ってしまった。呆れられちゃったかもしれない。何となくだけど、龍水くんはこういうウジウジしたことは嫌いそうだ。それでも、恋人だと宣言するのは無理だと思った。
何に対しての謝罪かもわからないけど、私の口は「ごめん」と言いかけていた。しかし、それより先に龍水くんが口を開く。
「貴様の気持ちも考えず、悪かった」
「え……ううん、気持ちは嬉しい。ただ私が龍水くんみたいに堂々とできないだけで」
でも、それならなんて言えばいいだろう。友達というのも違和感があるし、ただの知り合いと言ってしまったら悲しすぎる。というか怪しまれる、たぶん。
「……まだ付き合ってないって言ってもいい?」
「その“まだ”に深い意味はあるのか?」
「……ある」
「フゥン、いいじゃないか」
龍水くんは切り分けたアップルパイにフォークを指した。上品なのに、ちょっとだけ豪快さも見える。
これで後に引けなくなってしまった。それなら恋人だと言うのと大差ない気もするが、気持ちの問題だ。
店を出るまでに私のスマホには何通かのメッセージが来ていた。店を出るときに確認したら全部違う子からの連絡で、でも内容はほとんど同じだった。次はもっと学校から離れたところに行こう。龍水くんは笑いながら同意してくれた。そう茶化されては集中できないなって、嬉しいことを言ってくれる。