七海龍水という男04

 龍水くんの用事が立て込んでいるらしく、一週間は会わない予定だった。本当なら焦らなきゃいけないところかもしれないけれど、私は実のところほっとしていた。
 龍水くんが忙しいのは、彼がいろんなところに出向いているのと、多様なレッスンを受けているからだ。私も小さいころは習い事漬けの日々だったけど、今はもう全部やめてしまっている。だから家には誰も弾かないピアノやバイオリンがあるし、乗馬用具はきっと倉庫の中で埃をかぶっている。何にも夢中になれなかった。やめたいと言ったのは中学に上がってからだ。お父さんもお母さんも驚かなかった。嫌々やっていたのが伝わっていたのだろう。
 そんな私に「自分を見くびるな」と言ってくれたのが嬉しかった。「これから見つかるかもしれない」っていうのは「これから見つけなきゃいけない」というようにも聞こえるけど、龍水くんの言葉に不思議とプレッシャーは感じなかった。
 ベッドの上に置いておいたスマホが音を立てる。珍しく電話みたいだ。しかも相手は龍水くん。しばらく会えないから電話してくれたのかな、と思うと胸が絞めつけられる。次は私から電話もしてみたい。
「もしもし、どうしたの?」
「明日は空いているか?」
「……用事なくなったの?」
「いや。ただ用と言ってもレストランの開店祝いに招待されているだけだからな。貴様と一緒で問題ないとさっき気付いた」
「それ、ほんとに私が行ってもいいやつ?」
「招待されているのは俺個人だから問題ない。一応確認もした」
 料理の腕も確かだ、と龍水くんが言う。味についてはそこまで気にしていない。私が気になるのは、龍水くんの知り合いの店にまでついて行ったとして、どんどん外堀が埋まっていってしまうんじゃないかということだ。私もすでに学校の友達に散々言われた。龍水くんに宣言した通り「まだ付き合ってない」という言い方はしたが、そんなことはお構いなしという状態だ。だから龍水くんに近い人の前に出て行っていいものかと迷う。それを抜きにすれば、行きたい。だってわざわざ先方に確認してまで誘ってくれたのだ。嬉しくないわけがない。
「迷っているのか?」
「うん……でも行きたいなって」
「……ほう、なら決まりでいいか?」
うん、と言えば今にも電話が切れそうな雰囲気になる。慌てて呼び止めて、何を着ていけばいいのかを聞いた。
 龍水くんによると、そこまでドレスコードのことは気にしなくていいそうだ。
「まあ客は俺たち二人だからな」
「えっ?」
「言っただろう、俺個人が招待されていると」
「うん……でもなんでだろう、勝手にパーティ的なの想像してた」
「パーティ? あんな退屈そうな顔を見せられて誘えるものか」
「……う」
 フ、と龍水くんが電話のむこうで笑う。私は何も言えないままスマホをぎゅうと握りしめた。
「悪いが明日は送迎付きだ。家まで迎えに行くから待っていろ」
「うん、また明日」
 通話が切れるなり、私は大きなため息をついた。龍水くんとの会話はいつも心臓に悪い。そろそろ免疫を付けていきたいところだけど、慣れという未来を想像するのは難しかった。

 明日が楽しみ、早く寝てしまおう。とはいかない。龍水くんに会う前に一つ試練がある。夕飯はいらない、と親に伝えることだ。
 この前のカフェのことは言ってないし、お試し恋人期間のことなんてもっと言えるわけがない。もちろん言うつもりはないけど、夕食に行くならさすがに何か一言伝えておかなければならないだろう。家まで迎えが来るから友達と遊ぶという言い訳も使えない。龍水くんの家に招待されたのが三週間前、そして明日も一緒にディナー。二人の……とくにお母さんの反応を考えただけで胃がキリキリと痛む。
 お父さんはまだ外出していたみたいだから、お母さんの部屋のドアを軽くノックする。私があまりにゆっくりドアを開けるものだから、お母さんは不思議そうに首をかしげていた。
 す、と私は息を吸い込んだ。
「あの、明日……夕ご飯は外で食べてきます」
「何時までに帰ってくるの?」
「え……と、わかんないけど」
「八時までには帰ってこれる?」
「それは大丈夫、だと思う」
 お母さんは小さく頷いて、それ以上なにも言ってこなかった。いいのかな、と思いながらも部屋を出る。今までだって誰と遊びに行くなんてわざわざ言っていなかったことを思い出したのは、翌朝目が覚めてからだった。

「はっはー! 待たせたな!」
 龍水くんは車が止まるとすぐに降りてきて、私の前のドアを開けた。私が開けてくれるのを待っているわけじゃない。決して。龍水くんが速すぎて気付いたらドアが開いているのだ。
 車に乗るのは前よりもずっと気まずかった。運転手さんは私のことを何だと思っているんだろうとか、余計なことばかり考えてしまう。
 さて、何を話そう。やっぱり今から行くレストランについてだろうか。龍水くん個人が招待されているという話だから、お友達なのかもしれない。
 友達かという問いに龍水くんは明確な答えを言わなかった。以前、七海財閥の専属シェフとしてスカウトしようとしたところを断られたそうだ。自分の店を持つ夢があると言った彼に、龍水くんは資金提供をしたらしい。
「……どういうこと?」
「といっても気持ち程度の金額だ。開店資金のほとんどはヤツが貯めた金だぜ」
「うん……それもだけど、断られたのに応援しちゃうんだ」
「勘違いするな。ボランティアでやっているわけじゃない。少しは俺に融通利かせるように……まあ契約の一種だ。それでめでたく一人目の客となれたわけだしな」
 最高のシェフの最高のもてなしを一番に受けられる。確かに龍水くんが好みそうな話だ。ただ目の前にするとスケールが大きすぎてびっくりしてしまうが。というか、そんな場に私が一緒に行って本当にいいのだろうか。今さら過ぎてどうしようもないけど。

 店は落ち着いた路地にあった。かわいらしい外装をしている。車を降りた龍水くんは勢いよくドアを開けた。
「来たな~、龍水!」
 中にいたのはいかにもコックさんです、という白い制服を着た男性だった。けどちょっと、思っていた感じと違う。オーナーさんは友達みたいに気安く龍水くんに接していた。
 オーナーさんは私に「いらっしゃいませ」とにこりと笑った。
「突然来てしまうことになってすみません。今日はありがとうございます」
「いいっていいって。龍水から連絡来たときはさすがにびっくりしたけど。な~龍水」
「フン」
 オーナーさんはにやりと笑って私たちを席に案内した。軽い感じのノリの人かと思いきや、私たちが席に座った瞬間スイッチが入ったように振る舞いが丁寧なものとなる。
 メニューはあらかじめ決まっているらしく、テーブルには前菜が運ばれてきた。
 一口サイズずつ盛り付けられた彩り豊かな料理は、どれから手をつけていくか悩ましい。とりあえず左のものをと昔習ったような気がするから、そうしてみよう。
「……おいしい」
「ああ、さすがだな」
 龍水くんは誇らしげな顔をしていた。龍水くんがここのオーナーさんを欲しがる理由もわかる気がする。

「これなんだろう」「柔らかい」「きれい」感想を言い合いながらの食事は楽しかった。皿が空くタイミングでちょうどよく次の料理が運ばれてくるから、いつもより多い量だってつい食べてしまう。メインの肉料理を食べ終えたときには、もうお腹がいっぱいだった。
「ちょっと食べすぎちゃったかも……」
「次はデザートのようだが?」
「……食べます」
 デザートはチーズケーキだった。しかしそれよりもびっくりしたのが、私の前に少量のコーヒーと、コーヒーでできた氷が入ったグラスが置かれていることだ。そして、グラスの隣にはおそらく牛乳。普通、こういうコース料理の最後はコーヒーか紅茶が出てくるものだ。カフェオレなんて聞いたことがない。私がコーヒーを苦手とするのを知っているのは龍水くんであり、事前に言っておいてくれたのだろうか。それに応えてくれるオーナーさんも優しい。
「龍水くんが言ってくれたの?」
「前にブラックは苦手で砂糖もあまり入れないと言っていたからな」
「ありがとう……っていうかアリなんだね、そういうの」
「客の要望には極力応えたいそうだ。この程度なら何も問題ないと言っていた」
「うん……ありがとう」
 私はカフェオレを一口飲んだ。冷たくておいしい。でも体が熱い。
 チーズケーキを口の中に入れると、しゅわしゅわ溶けてなくなってしまった。お腹いっぱいのつもりだったけど、これならいくらでも食べられてしまいそうだ。
「おいし……」
「貴様の顔を見ていたら食べなくともわかってしまうな」
 龍水くんはそういってスプーンを口に運んだ。うん、と頷いてもう一口。私とは違うホットのコーヒーを龍水くんは静かに啜った。

 時刻は七時を過ぎたところ。ここから家まで十五分くらいだったから、門限には間に合いそうだ。私が時計を見たのに気付いたのか、龍水くんが「大丈夫か」と言う。
「八時までに帰ったら大丈夫。……でも時間、あっという間だったな」
「ああ、俺もだ」
「……た、たのし、かった……ってことでいい?」
 龍水くんは目をまん丸にした。何を言ってるの私。食事がおいしかったからとか、もっと他の理由があるかもしれないじゃないか。
 半分ぐらいになったカフェオレに目を落とす。溶け出したコーヒーが、うす茶色の液体の中で渦を作っていた。
「自分で言って照れるのか」
「……龍水くんが早く答えてくれないから」
「当たり前のことを聞いてくるから驚いただけだ。……で、貴様も同じ気持ちだったということだろう?」
「……うん」
 カラン、と小さくなったコーヒーの氷がグラスの中で音を立てる。龍水くんの顔を見れない。黙り込んでしまったら時間がもったいないとわかっているけど、言葉が出てこなかった。

 ちびちび飲んでいたカフェオレもとうとうなくなってしまった。「出るか」と龍水くんが言って、時計を見てみると、さっきから十五分も経っていた。決して気まずかったわけじゃないけど、龍水くんはどう思っただろう。
 オーナーさんにお礼を言って店を出ると、すでに迎えの車が駐車場に着いていた。
 ふと龍水くんの手が目に入った。エスコートしてもらったときに何度か触れたことがある手だ。でも、それ以外のことで触れるのはやめておいたほうがいいかな、と思う。私たちの関係はまだ曖昧で、龍水くんの気持ちが伴わないようなことはできない。けど、もしも本当の恋人になれたら……。
「どうした?」
 龍水くんは開けた車のドアに体重を預けながら私を見ていた。私が車に乗らないのを不審に思ったのかもしれない。……いけない、ぼーっとしてしまっていた。
「ごめん、」
「……これでいいか?」
「え、あ……」
 龍水くんが私の手を握っている。車に乗るには不要な動作だ。それならどうして。
「もしかして顔に書いてあった?」
「相変わらずの自己申告だな」
「……こういうのは、その……もし気持ちが伴ったらでお願いします」
 龍水くんはため息をついた。
「案外長いな、三ヶ月というのは」
長い。龍水くんの言った言葉が頭の中にこだまする。長いってどういう意味。あと二ヶ月以上も付き合ってられないって意味にも聞こえるし、いい意味にも受け取れる。たとえば、「お試し」という縛りをなくして次に進んでもいい、みたいな。
「龍水くんが言ったんだよ、一ヶ月でいいのか? って」
「そうだったな」
「でも……三ヶ月っていうのは、私に猶予があるって意味で……」
 握られた手の指をするりと絡ませる。私はきっと真っ赤なのに龍水くんは顔色ひとつ変えやしない。
「……さっきの、どういう意味? 長いって」
「……悪いが少し待っていろ」
 龍水くんが言って、パタンと車のドアが閉まる。今のは運転手さんに言ったみたいだ。
「俺は貴様の喜んだり照れたりする反応をもっと見たい」
 龍水くんはまっすぐ私を見ていた。そしていつの間にかもう片方の手も握られている。
「貴様をそうさせるのも俺であればいいと思っている」
ぶわわわ、と体中が熱くなる。嘘みたいだ、龍水くんにこんなこと言ってもらえるなんて。
「だが、」
……だが? 龍水くんは珍しく言葉を詰まらせた。何だろう、ちょっとだけ不安になる。
「俺は誰か一人だけを愛するということはできん。だから今度は貴様が見極めろ、残り二ヶ月でな」
「え、と……どういうこと?」
「自分一人を愛してほしいと思うなら、他のヤツを見つけろ。この二ヶ月の間なら俺は見逃す」
 なんていうか、龍水くんにしては真っ当なことを言っているような気がする。でも、私が望んでいるのはそんな言葉じゃなかった。龍水くんを好きになった時点でそのことはわかっている。それよりもびっくりしたのが「見逃す」という言葉だ。
「世界の全てが欲しいみたいな顔して、なんで……そんな、私のことは諦めてもいいみたいな……」
「俺が諦める? ……いや、そうだ。なぜ俺はそんなことを……」
 龍水くんは私の手を離して、よろよろと後ろに数歩さがった。片手でぐしゃりと髪を握って、まるで自分の言ったことを信じられないみたいだった。
「私は龍水くんが他の人と恋人っぽいことするって言うなら嫌だよ。でも龍水くんの愛ってそういうことじゃないと思ってるから、それなら……」
 龍水くんは何も言わなかった。しばらく沈黙が流れて、それを破ったのは車のドアが開く音だった。
「……八時に間に合わなくなる」
「あ……うん……」

 十五分もあったのに、私たちは何も喋らなかった。車を降りてようやく「今日はありがとう、おやすみ」とだけ言えた。龍水くんも返事はしてくれたけど、いつもの覇気は感じられなかった。