ハリネズミ09

 火山らしき場所に着いたのは出発して五日目のことだった。少し登ると地面から湯気が出ていたりして楽しい。温泉……私一人なら入ってみたかった。
 すでに硫黄の匂いはしているけれど、肝心の硫酸はみつからない。最悪の場合は硫黄だけ持ち帰ってゼノに「硫酸作って」と泣きつくしかない。でもものすごく手間がかかるだろうから、できればみつけておきたいところだ。
 さすが観光地というだけあって、景色は綺麗だ。遠くにはきらきらと輝く湖が見えて、いま歩いている場所は足の隣で泥がぶくぶくと泡を立てている。人の手が入っていないから歩きづらくはあるけれど、それに勝る絶景だった。しかし銀の棒から目を離して次の瞬間には死んでいた、というミスは絶対に避けなければならない。
「スタンリーはここに来たことあったの?」
「いや、ねえよ」
「……そういうの、昨日までは行きそこねたとかもったいなかったなって思ってたんだけど、今からでも行ける場所ってあるんだなって」
「観光しに来たわけじゃねえけど?」
「それはわかってる」
「……ま、キレーよな」
「うん……」
なんて感慨深くなっていたら、うっかり足元がおろそかになる。ぬるりとした泥に足を取られ、バランスを崩してしまった。
 絶対に死守しなければならないのはガラスだ。銀の棒は投げても壊れない。背中から倒れたらガスマスクがダメになる。
 これらのことを一瞬で考えきれたかというと、そうでもない。ただ反射でそういう風に体が動いた。その結果、私の手や膝、そして顔が泥だらけになってしまった。
「……おい」
恐る恐るスタンリーを見上げると、彼にも泥がはねてしまっている。ごめんなさい。これ以外に言えることはなかった。……嘘。私の首はスーッと温泉の方向を向いていた。
「入ってかない?」
スタンリーのこめかみがぴくりと動く。でもここで負けるわけにはいかない。どうせもうすぐ休憩する予定だったでしょ、と押してみる。これじゃあ私が全く反省していないみたいだけど、決してそんなことはない。

「日本人って平気で他人の前で裸になるよな」
「……異性の前ではなりません! ほらちょうどそこにいい感じの岩があるし、スタンリーはあっちね」
「五分な」
「え……」
「五分」
「それは……身支度の時間も含め?」
……うわ、舌打ちされた。そして私はプラス五分をもぎ取った。いつも二十分くらいの休憩をしているのに、どうしてそんなに時間を短くしたがるのか意味がわからない。

 しかしいざ服を脱いで「熱すぎて入れませんでした」では悲しすぎる。そっと指先を入れてみたら、むしろぬるめのお湯でいつまでも入っていられそうだ。川で水浴びが常だったことを考えると、天国でしかなかった。
「きもちいい……」
独り言だからと日本語で言った。ゼノなら意味を理解して律儀に返事をするかもしれない。でも石の向こうにいるのはスタンリーだから、なんにも気にせず呟くことができる。
「スタンリー、入ってる?」
仕切りになっている石にぐったりと寄りかかりながら向こう側に声をかけてみる。だけど返ってきたのは「静かにしてな」という冷たい返事だった。私は仕方なく膝を抱えて子供みたいに秒数を数えることにした。そうでもしていないとうっかり寝てしまいそうになるのだ。
 ざぶん、と石の向こうで音がする。もう上がったのかな、なんて思っていたら急に恥ずかしくなってしまった。入ろうと言ったのは私だけど、今思えばこれもわりと考えなしの提案だ。
 待たせるわけにはいかないから、私も服を着てしまうことにした。綺麗になった身体に埃っぽい服を着るのが悲しい。はやくまともな服が欲しい。雑念を消すよう私は服のことをひたすら考えた。夏になったら綿を集めて布を作ったりなんかもできるのだろうか。
「お待たせ~……」
 スタンリーは石の上に座っていた。立ち上がる気配がないから私も間を空けて隣に座ってみる。
「涼んだら出発な」
「うん。……みんなに悪かったかな」
「あっちはあっちでいいモン食ってんだろ」
「そっか」
ぬるい風が私たちのあいだを吹き抜けていく。涼むといったって、こんな場所ではよけいに熱くなるばかりだった。

 登山を再開した私たちは、温泉地帯のさらに奥へ足を踏み入れた。ゆるやかな下り坂の先にエメラルドグリーンの泉をみつけて足が止まる。スタンリーもあれが何かはわかっていたようで、ガスマスクに手を添えていた。
 鳥が一羽、誘いこまれたかのように泉に落ちていく。間違いなくあれは硫酸だ。銀はまだ変色していない。
 一歩ずつじりじりと進む。膝が震えているのがわかった。こんなときでもスタンリーが平然としているから、情けない自分がいっそう嫌になる。
 銀が変色したのは一瞬のことだった。すかさずマスクの装着はしたが、怖くてまだ息は吸えていない。だけどこのままずっと息を止めておくなんて到底無理だ。
 つんと腕をつかれた。犯人はスタンリーしかいない。彼は私をじっと見て、静かに頷いた。
 ため込んだ息を吐き出して、次はゆっくりと吸う。私が呼吸をしたのがわかったのか、ちょうどのタイミングでスタンリーが歩き出す。
 泉の手前までくると、スタンリーは私を腕で静止した。こういうときに率先して危険な役を買ってくれるのはずるい。だけど不甲斐ない私はそれに従うことしかできなかった。
 彼は慎重な手つきで硫酸をすくい上げた。硫酸の入ったビンを渡され、すかさずそれに封をする。スタンリーはさらに空の容器を手に硫酸を確保した。
 帰りはどこまで危険地帯なのか正確にわからなかったため、マスクをしたままかなりの距離を歩いた。ようやくマスクを外す気になれたのは、温泉に入った場所まで戻ってきてからのことだった。
 ここまで来ればさすがに大丈夫だろう。硫酸は無事手に入ったから、次は硫黄だ。ガスマスク用のビンをひっくり返して炭を捨てていたら、スタンリーの声を久しぶりに聞いた。
「……何してんの?」
「硫黄も持って帰ったほうがいいかなと思って。活性炭は一日で作れるけど、ここまで来るのは五日もかかるから」
「確かに火薬作んなら……っつーかゼノ、案外こっちのが欲しかったんじゃね?」
「言われなかったけど絶対期待してると思う。他にも欲しいものはあるかもしれないけど、そこまではさすがに」
「そりゃハッキリ言わねえのが悪い」
「そういうこと」
 さっそく私は黄色の鉱石に近づいた。けっこうな勢いで地面から蒸気が噴射している。おそらく高温だから風向きに注意しながらつるはしで掘っていくしかない。細かくしないとガスマスク用のビンに入らないから、かなり手間がかかりそうだ。

 ビンが硫黄でいっぱいになったころには日が落ちてきていた。急いで下山するか、ここで野宿するか……。私としては暖かいからここで眠りたい。スタンリーはどうなのだろう。
「今日はここで寝る?」
「いいぜ」
やった、と心の中で叫ぶ。私は荷物をまとめて足だけ温泉に入った。歩きづめの身体が癒される。なんならここを拠点にしたい。
「気に入ってんね」
「スタンリーも入ったら? 足だけでも気持ちいいよ」
「脱がねえの?」
「言い方」
 どかりとスタンリーが私の隣に座る。なんだか不思議な感覚だ。もう五日も二人で過ごしているけど、あまり苦には感じない。というか私の意見をかなり尊重してくれるのだ。「黙ってついてきな」タイプだと思っていたから本当に驚いた。でも考えてみれば、彼はいつもゼノに振り回されていたような気もする。
「ここに住みたい」
「ゼノに言いな」
「却下される」
「ゼノは日本びいきだし、ワンチャンあんぜ」
「そうなの?」
「日本人のガキと夢中でメールのやり取りしてやがる」
「あ、その話聞いたことあるかも。その子がツバメの石像の分布がどうのって」
「温泉も意外と気に入るかもな」
「でもここじゃ農耕できないって言いそう」
「……ああ、言うね」
 は、と息を吐きながらスタンリーは笑った。気付いたらその横顔に見入っていた。彼に「なに」と言われてはじめてハッとする。
「ごめん! なんでもない」
 いけない。だめ。これは邪魔な感情だ。
 足湯をやめて仰向けに寝ころぶと、空には星が出ていた。電球のない世界だから星が綺麗によく見える。一時間前の私だったら「綺麗だね」と言っていたかもしれない。でも今は話せる気がしなくて、いつものようにおやすみだけを言って目を閉じた。

 そして目覚めたのは夜が明ける前だった。隣でスタンリーはまだ眠っている。彼は基本的にどこでもすぐに眠ることができるらしい。そのくせ異変があれば一瞬で起きる。軍人だからそうなのかもしれないけれど、この世界では重宝する特技だ。
 私は家ができてからはマシになったもの、野宿ではあまり疲れがとれないほうだ。夜中に何度も目が覚めるし、今も変な時間に起きてしまった。日の出はもうすぐだろうか。
「……え?」
――目を疑った。手の届く先に、蒼く光る石がある。私はとっさにスタンリーの腕をつかんで強く揺さぶった。
「スタンリー! 起きて!」
 まさに飛び起きるという言葉がぴったりだった。反射なのかスタンリーは私をかばうように立って、けれど何も異変がないことを感じたのか静かに私を見下ろしてくる。
 違う、危険が迫っていたわけではない。日が昇る直前、一瞬だけ蒼く光った石を見てほしかったのだ。
「あー……もう、遅い」
「は……何?」
 今となっては黒色にしか見えない石を私は拾い上げる。嬉しくて嬉しくて、自分でも顔がにやけている自覚があった。
「みつけた、タングステン」