ハリネズミ15
「キスまでしておいて何も言わないのは少々かわいそうだと思うが」
ゼノ髪から水滴を垂らしながら、チクチクと嫌味を言ってくる。さっきからずっとこの調子だ。いつからそんな入れ込んでいるのかと聞けば、やれやれとため息が返ってくる。
「君なら容易いことだろう」
「なんでそんな言えんの」
「だって君は昔から女に放っておかれることなんて……」
ゼノは言いかけてぴたりと止まった。目を丸めて、まさかと言う。
「……自分からという経験はないのかい?」
「ねえな」
「おお、なんということだろう!」
あーあ、言わなきゃよかった。ゼノは新しいおもちゃでもみつけたみたいにキラキラと目を輝かせている。こうなったらもう止められない。
「それならなおさら君が動くべきだ。素直になる勇気がないなら僕がすべて彼女に話しても構わないが」
「……あんたどっちの味方?」
「彼女の前では中立を装っているけど、君と二人のときは彼女の味方をしようと思っているよ」
はあ、と今度はスタンリーがため息をついた。
ゼノの言い分は理解できる。それが正しいとも思う。ただ、
「……それこそどの口でって思わねえ?」
「いいじゃないか、今度は君が傷つく番だ」
「俺フラれんの?」
「さあ」
「……」
「今ここに彼女がいないのが実に惜しいね」
「いたら言わねえって」
「ちょうどここに録音機がある」
「ッはあ?」
身を乗り出して「ほら」と差し出されたゼノの手のひらを確認する。何もない。からかわれたのに気付いて着席した。ゼノなら本当に作りかねないというか、将来的にはほぼ確定で作るだろうから冗談に聞こえない。
「ハリネズミのジレンマという言葉を知っているかい?」
「……なんか聞いたことはあんね」
「まさに君たちの状態にぴったりの言葉だよ。近づいたら針が刺さってしまうからと、距離を詰められない。自分が傷つくこと、または相手を傷つけることを恐れているんだ」
「は……耳が痛いね」
「結果的にお互いちょうどいい距離に気付く、というポジティブな意味にも使われるがね」
がたん、と椅子の音を立ててゼノは立ち上がった。「健闘を祈るよ」全く祈る気もなさそうな顔で言ってから、ゼノは食堂を出て行った。
ゼノに言われたことが頭の中で繰り返される。スタンリーは机に顔を突っ伏した。
振り回されている。客観的に見たら逆かもしれないが、スタンリーの心情としてはその言葉がぴったりだった。
子供のころ、酷い言葉を浴びせたとき、彼女は大多数のうちの一人だった。そのあとゼノに咎められたのもあり、冷静になってからは悪いことをしたと思うようにもなった。だけど謝ったところでどうなると言い訳して彼女から目を背けていた。
ミドルスクールのときの彼女はかっこよかった。堂々と自分のやりたいことをやって、輝いているように見えた。他のやつらとは全然違った。それでも一度も話すことはなくて、どこのハイスクールに進学するのかも知らないまま卒業した。
大人になってゼノから彼女の名前を聞いたときは驚いた。だけど研究職に就いているときいて妙に納得したのだ。それからゼノはやたらと彼女について饒舌だった。一時期は惚れてんじゃないかと勘違いしていたほどだ。
それでもまさか、再会するなんて想像できるはずもない。わざとらしい口調で「お名前を聞いていい?」だ。今さら優しい男になるつもりなんてなかったからちょうどいい。というのが半分で、もう半分は本当にイラッとした。ところがケンカを買った翌日、彼女は謝ってきた。謝ることができなかった過去の自分がひどく滑稽に思えた。
それなら俺も、というつもりじゃなかった。だけどゼノが余計なことを言ったらしく「謝りたかったの?」と本人に聞かれる始末だ。ここを逃したら二度とチャンスはない、とガラにもなく弱気になり、ああなったというわけだ。
彼女は頭はいいのだろうが、危機管理がなっていない。すぐに火傷をしたり、弱いくせに無謀なことに挑戦しようとする。一番頭を抱えたくなったのは、温泉に入りたいと言い出したときだった。わざとならまだ救いようがある。だが男を振り回すのが楽しいって性格には見えない。異性と認識されていないのかと思いきや、雨宿りで身を寄せあったときはガチガチに意識するのだから本当にわからない。
もう二度と傷つけたくない。そう思ったのは彼女の涙を見たときだ。それなのにキスなんてして、今もはっきりとしない態度で、ゼノの言う通り「かわいそう」だ。だけど拒否されなかったことに安堵している自分がいる。情けない。これはゼノに何度も言われた言葉だ。
好きだと思ったのはいつだろう。はっきりはしないが、好きじゃないと思っていたかった。初対面がストーンワールドだったらきっと悩まなかった。だけど、それだとたぶん好きにはならなかった。
「あれ、スタンリーまだいたの?」
シャワーを終えたらしい彼女の頬は血色よく、髪もしっとりと濡れていた。困るとは、まさにこの状態のことだ。
目に毒。そう思ってスタンリーは再び机に顔を伏せた。
「いたら悪ぃかよ」
「寝ようとしてたでしょ」
「してねえって」
がた、と隣で音がする。まさかと思って横目で見てみると、彼女が座っていた。マジかよ。
「部屋、戻んねーの?」
「戻りたいけど、スタンリーが寝落ちして風邪でも引くんじゃないかって」
「オーケー、わかった。部屋で寝る。だからあんたも部屋に帰んな」
スタンリーは立ち上がった。だが彼女がついてこない。一緒に行くつもりだったから、どうしたのかと後ろを振り返る。彼女はのんきに水を注いでいた。
まあ、シャワーの後の水分補給は大事だ。咎めることではない。だけどイライラする。他の誰かが通ったらどうするつもりだ。
ついには待たなくていいよ、とまで言われてしまった。いや待ってねえし。……嘘、すげえ待ってんだけど? なんでこんな焦ってんのかな。自分でも不思議だ。
「……今日も部屋まで送ってくれるの?」
「まあ、そんなとこ」
「ふーん……」
彼女は何か言いたそうにしていたが、口を開かないまま歩き出した。そうしてすぐ彼女の部屋の前まで到着する。「ありがと」と言った彼女の耳が赤いのはシャワーのせいだろうか。
開く扉を見つめながら、ゼノの言葉を思い出す。「ちょうどいい距離」ってどのくらいだ。少なくとも今よりは近いと思いたい。
「あのさ」
振り向きざまに彼女は首をかしげた。
「もうちょい話せねえ?」
「……うん」
彼女はさらに顔を赤くして、ドアを大きく開いた。部屋入っていいのかよ。そう思ったけど、今のは完全に言うタイミングが悪かった。話したいなら食堂で話せばよかったのに、下手な独占欲を出した結果だ。
「えっと、ごめん。私の部屋、椅子がなくて……」
彼女指したのはベッドだった。やらかした。どう考えても今すぐ部屋から出るべき。……いやでも、前にゼノのベッドに二人仲良く座ってんの見たな。急に妙な対抗心が芽生えて、あろうことかベッドに勢いまでつけて座ってしまった。要は手ェ出さなきゃいいんだ。
続いてベッドに座った彼女との間には、触れないくらいの距離があった。
「……何か話したいことあった?」
「あー……いや、」
ここまで来て「ない」はないだろう。だけどどう切り出したらいいかわからない。
「き」
彼女が何か言いかけて、けれどすぐに口をつぐんだ。何だ……、横に座ってるせいで顔をまじまじと見ることだってできやしない。この状況で話すことっつったら昨日のキスのことだって、むこうもわかっていそうな気ィするけど。
「……昨日のことだと嬉しい、かな」
……まあ、そうなるわな。さすがに昨日のことって? と、とぼけるつもりはない。ここまで彼女に言わせていいのかと聞かれたら、何も言い返せないが。
「……覚えてない?」
彼女の瞳からは不安がにじみ出ていた。この目に弱いのだ。
「酔った勢いで、とかじゃねえから」
「ほんと?」
「マジだって」
じゃあ、と彼女は意を決したかのように身を乗り出してきた。
「……今もできる?」
は? と言わなかっただけまだマシだと思ってほしい。彼女が言っているのはつまり、今ここでキスしろってことだ。んなことして平常心でいられる自信がない。……それがどうした、彼女のことは二度と傷つけないと誓ったはずだ。