03.ツキの裏

「なんでも好きなもの頼んでください」
メニューを広げてダグに差し出すと、何故か彼は笑った。じゃあお言葉に甘えて、と彼が選んだのは店主おすすめの日替わりの一品。ランチタイム限定のメニューで、今日はグリルチキンとサラダのセットのようだ。しかし料理が届く前に、ダグの通信機が鳴る。
 通話をするダグの表情はだんだん険しくなり、これからの展開は簡単に予想できた。サラはダグが会話している間に、次に言うべきセリフを考える。
 通信機をポケットにしまった彼は表情を和らげて、けれど申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。呼び出しが……」
「大変ですね。私のことは気にしないで下さい」
あらかじめ準備しておいたセリフは問題なく言えた。ダグが何か言いかけたように見えたが、彼はそのまま無言で席を立った。その手が財布を取り出したのを見て、サラは慌てて首を振る。
「大丈夫ですよ。ダグさんの分はテイクアウトに変更して夕ご飯にしますから」
「……本当にすみません。失礼します」
「お気をつけて」
 ダグが去ったあと、運ばれてきたクリームソースのパスタを見て、サラは静かに息を吐いた。同じメニューではなかったことが救いである。
 パスタは美味しい。が、これじゃいつもの昼休みと変わらない。そんなことを考えながらも食事を終える。財布片手に向かったレジで、会計が済んでいると言われたときは驚いたものだ。彼は本当にスマートでかっこよくて、ずるいとさえ思う。
 もはや何のために誘ったのか、という結果に終わった今回の約束。だからと言って簡単に次があるわけではない。二人は互いの連絡先も知らないのだ。
 それから行きつけのスーパーでも昼食で外出をしたときもダグと会うことはなかった。芽生えかけていたものも、何事もなく一ヶ月が経過しては徐々にしぼんでいくものだ。そんなときにサラが鉢合わせしたのはキリルだった。
 その日は仕事が休みで、買い物でもしようかと街を歩いていた。ちょうど花屋の前を通りがかったとき、キリルが中から出てきたのだ。
「あ、キリルさん」
思わず声を掛けてしまったが、よく考えると二人はそれほど面識もない。忘れられていたらどうしようかと不安になったが、それは杞憂に終わる。「ああ、ダグの」という言葉の後にキリルが何を続けたかったのかはわからない。彼は言っている途中で、何か思いついたように話題を変えたのだ。
「これから何か予定とかある?」
「いえ、予定というほどのものは」
「じゃ、ちょうどよかった」
これからダグの見舞いに行くからさ、とキリルは歩き出してしまう。さすがに追いかけなければいけないような気がして、慌てて彼の隣に並んだ。
「あの、お見舞って……?」
「ああ、怪我で入院してて」
「……そうなんですか」
「ぜんっぜん報告書仕上げようとしないんだよ、ダグのやつ」
キリルは口を尖らせて言う。ダグの報告書が提出されるまで、キリルは捜査に出られないのだそうだ。それなのにダグはのろりくらりと逃げ、いつまで経っても報告書を書こうとしない。かなり不満を溜めているようだ。
 はて、とサラは首を傾げる。
「何だか、私の中のダグさんのイメージと違うような」
「そうか? わりとそんな感じだと思うけど」
「……でも、文句言いながらもちゃんとお花を持っていってあげるんですね」
「そりゃ一応、病人だし……」
照れ臭そうに頬を掻くキリルに、サラは目を細めた。

「それであの、私も一緒に行っていいんでしょうか……」
ようやくここで聞くことができた最初の疑問。なにが「ちょうどよかった」のか。
「ああ、あんたがいたら報告書やってくれねーかなって。なんか、あんたの前ではちゃんとしてるみたいだし」
「いや、それは……」
ちゃんとしていると言うよりも、親しくない者への距離を保たれているだけのような気がする。悲しくなるので口には出さないが。
「たぶん、私がいても変わらないと思いますよ」
「……ま、ダグもあんたと話したら気分転換できるだろうし、頼めないか?」
「それはもちろん大丈夫ですけど」
「じゃ、よろしくな」

 病院までは近いらしい。キリルと話しながら歩いていると、一つ大事なことを思い出した。工事現場の落下事故のことだ。かなり時間が経ってしまっているが、キリルに礼を言っていないことが気がかりだったのだ。
 しかしサラが切り出しても、キリルはあまりピンときていないようだった。
「俺は何もしてないっつーか、ダグがほとんど一人でやっちまったんだけど」
ダグがサラに付き添うと言ったから車を警察署に戻しただけ。キリルとしては礼を言われるようなことはしていないつもりだったようだ。
「でも、二人がいてくれたから助かったんだと思います」
「……そっか。ダグに聞いたけど、すぐ退院できてよかったな」
「はい。ありがとうございます」

 キリルは迷うことなく病院内を歩いていた。ダグの見舞いはここ連日のことらしい。そして、病室にダグがいないのもここ連日のことだそうだ。
 キリルは見舞いの花を花瓶にさして腕を組んだ。
「俺は屋上と二階を探すから、サラは一階を頼む。自販機のとこでよくコーヒー飲んでるから、よろしくな」
「あ……」
キリルは風のように病室から出て行ってしまった。
 こうなったらその自販機のところに行ってみるしかない。きょろきょろ周囲に目を向けながら歩いていると、すぐにそれは見つかった。そして横のソファを見てみると……本当にいた。巻かれた包帯と病院服が痛々しい。缶コーヒーを片手に彼はどこか遠くを見つめているようだった。
「ダグさん」
ダグは「え」という形に口を開けて、ぱちぱちと瞬きをした。しかし彼はすぐに表情を切り替え「お見舞いですか」とサラに尋ねた。
「いえ、私はその……ダグさんを探していて」
「俺を?」
「キリルさんが報告書を仕上げてほしいと……」
サラがここに来た経緯を説明すると、ダグは何か考えるように目を伏せた。
「……コーヒーは無糖派?」
「え……と、微糖派です」
ダグの唐突な質問に戸惑いながらも答える。するとダグは立ち上がって自販機と向き合い……ガコン、と出てきたのは二つ目の缶コーヒー。一つ目の黒いラベルと違って、濃いブルーだ。
 てっきりダグが飲むのかと思っていた二本目は、サラに差し出された。
「これ、飲み終わったら書きます」
「え……私がですか?」
ダグは頷いて「休憩に付き合って下さい」とサラをそそのかす。報告書はあと少しのところまで書いてあるから、と後押しされてサラはダグの隣に座った。キリルを待たせているのは気が引けるが、ここで言い合いするよりもコーヒーを飲んでしまったほうが早いと思ったというのもある。キリルの言っていた「ダグはわりとそんな感じ」というのを少しだけ実感できたような気がした。
「ありがとうございます。いただきます」
 早く飲まなければという思いが強すぎたのかもしれない。飲んでいる途中でむせそうになってしまったのだ。寸前のところで我慢できたが、ダグにはその様子をしっかり見られていたようだった。
「そんなに急がなくても」
「だってキリルさんが……」
「まあ、大丈夫でしょう」
ダグはそう言って、残りのコーヒーをまた一口飲んだ。サラもそれにならって今度は味わうように頂く。そうして静かにゆっくり飲み進めていると隣から視線を感じた。見てみると、ダグとばっちり目が合ってしまった。
「この前はすみません。せっかく誘ってもらったのに」
「……あ、いえ。そんな、」
まさか謝られるとは思っていなかった。とっさに気の利いたことも言えず、とにかく気にしていないということだけは必死に伝えた。ダグはバツが悪いのか、手元のコーヒーをじっと見つめている。もしかして、これを言うためにコーヒーを買ってくれたのだろうか。そう考えると嬉しくなってしまう。単に報告書を書きたくなかっただけ、という線はこのときのサラの頭にはなかった。
「むしろ何も食べてないのにお金だけ払わせてしまって申し訳なかったです」
「ああ、それは別に」
「どっちもすごく美味しかったんですよ。むしろ得しちゃったかな~なんて……」
言っている途中で「あ」と言葉を止める。これではダグが帰ってしまったことが嬉しいと言っているように聞こえる気がしたのだ。
「すみません。別に変な意味で言ったんじゃなくて」
「……ん、わかってる」
ダグは目を細めて、カラになったらしい缶をゴミ箱に捨てた。
 砕けた口調の不意打ちでサラは少しばかり放心していた。あんなのずるい。心の中のすっかりしおれてしまっていたはずの何かが、急にその存在を主張する。それでも我に返ることができたのは、ダグが顔を覗きこんできたからだ。サラは距離を取ろうと頭を引いて、見事に壁にぶつかる。
「……っ!」
「大丈夫?」
その言葉とは裏腹に、ダグは笑いを堪えているようだった。ぴくぴくと口の端が動いて、肩にも力が入っているように見える。
「だ、だってダグさんが!」
「俺?」
とぼけているのか、それとも本当にわからないのか。首を傾げた彼がちょっと可愛いとか思ったりもしたけれど。
 ぐい、と残りのコーヒーを流し込んで立ち上がる。
「飲み終わりました! 報告書、書いてください!」
「……確かにそんな約束だったけど」
しぶしぶといった様子でダグは歩き出した。サラは熱を帯びた顔をダグにこれ以上見られないように、少し遅れてついていった。

 キリルは先に病室に戻っていたようだ。ダグを見つけたことを感謝されるが、二人でコーヒーを飲んでいたということもありちょっと後ろめたい。
 ダグはダンボールの中からファイルを何冊か取り出して、ベッドの上に放り投げた。今から作業に入るのだろう。それならばとサラは一歩後ろに下がる。
「あの、私は失礼しますね」
機密事項とか警察のことはよくわからないが、きっとサラがこの場にいたらあのファイルすら開けないはずだ。
「急に来てもらってワリーな。帰りに何か食べてく?」
お礼に奢るよ、と言うキリルにダグは眉を寄せた。
「……ヴルーベリ巡査、仕事は?」
「ダグのせいで何にもすることねーんだよ! だから休みとってんの!」
「……ふーん」
 キリルと二人で病室を出る。しかしそのとき、廊下を走っていた子供とぶつかってしまった。互いに怪我はなかったが、サラの腹のあたりに子供が持っていたジュースがこぼれてしまっていた。素直に謝る子供に怒る気はない。危ないから走らないようにということだけ伝えて、サラは子供に手を振る。
 騒ぎが気になったのか、ダグが病室から出てきた。せっかく報告書を書こうとしていたところに水を差してしまったような気がする。
「大丈夫?」
「……はい。服は濡れちゃいまいたけど」
前から思ってたけどさ、とダグは壁にもたれかかった。
「けっこう運、悪いよな」
「え、そんなこと……」
「事故に遭う、ジュースはこぼされる、壁に頭ぶつける、鍵は落とす」
「……最後二つは私の不注意です」
「後は食事中に呼び出されて……いや、あれは俺か」
ダグはこめかみをトントンと指で叩いて、それから溜息を付いた。
 タオルを借りてジュースを拭きとったが、やはりベタベタが気になる。さすがにこのまま歩き回る気にはなれない。昼食の誘いを断ったサラにキリルが嫌な顔をするわけもなかった。そのかわりにダグが復帰したら退院祝いに誘うよ、と言われる。ダグはサラを不運と言ったけど、彼は何もわかっていない。