04.ツキの裏

「ヴルーベリ巡査、悪いけど今日……外してくれないか?」
どこか寄って昼食でも取ろうとしていたところ、車の中でダグが突然そう言うのだからキリルは驚いた。同時に「しまった」と思う。ダグが言っているのはおそらく“退院祝い”のこと。今日はサラも入れて三人で集まることになっていたのだ。しかしつい数時間前にキリルの通信機に連絡があった。「熱が出たので行けなくなりました。ごめんなさい」と。
 そのことを伝えていればダグはこんなこと言わなかっただろう。正直いろいろ聞きたいところではあるのだが、余計なことを言わせてしまったという罪悪感のほうが強い。しかしダグはキリルの必死の弁明にもあまり気にした様子を見せず「そう」と腕を組んだ。これは聞いてしまってもいいのだろうか。もし協力できるならそうしたいし、何より気になる。
「えーと、ダグって……そうなのか?」
「そうって?」
「いやだからサラのこと」
「ああ、うん。でも何か俺たち、タイミング悪いんだよな」
「へ、へー。そうなのか。ダグって……ん?」
前方の十字路。見覚えのある姿、まさにサラが歩いていたのだ。キリルは何度か瞬きしてみたが、間違いなく彼女だった。タイミングが悪いというのは本当なのだろうか。
 サラはマスク姿でふらふらと歩いている。なぜ熱があるのに出歩いているのか。考えるよりも先にダグの肩を叩く。
「あれサラだろ? めちゃくちゃ具合悪そうだけど」
ダグは一瞬だけ眉を寄せ、すぐに窓を開けた。そしてサラに真っ直ぐ車ごと近づいて声を掛ける。
「なんでこんなところにいるんだ? 風邪引いたんだろ?」
「え……」
サラは二人が現れたことに驚いているようだった。質問への返事はなかなか返ってこない。ぱちぱちと何度か瞼が動く。
 一呼吸おいて、彼女は仕事を早退したのだと言った。今はまさに帰っている途中らしい。
 ダグはサラに家まで送ると言った。彼女は仕事の邪魔になるからと首を振るが、今は休憩時間なので問題はない。そこまで言ってもサラは車に乗ろうとしなかった。痺れを切らしたのか、ダグはシートベルトを外す。
「遠慮しなくていいから乗って」
わざわざ車の後ろのドアを開けに行ったのはちょっと意外だった。サラにもこれが効いたようで「ありがとうございます」と弱々しい声が後部座席のほうから聞こえた。
 サラから住所を聞いたダグは「ん?」と首を捻る。
「歩いてた方向と逆じゃないか?」
「あ……えっと、気にしないで下さい」
そんなことを言われても気になるものは気になる。熱を出してまで向かおうとしていた先とは。彼女が何か隠そうとしているのは明白だったが、それを聞いてしまってもいいのか判断しかねる。キリルは視線でダグに助けを求めた。
「何か用事があるなら寄ろうか?」
「あ、あの……」
サラはうつむいたまま消え入りそうな声で「実は」と切り出した。
「家に何も食べるものがないんです……」
「じゃあ何か買ってから行こうか」
ダグはハンドルに手を掛けアクセルを踏んだ。サラが恥ずかしそうにしているのにダグが気付いているかわからない。家に食べ物がないなんてキリル自身もよくやることだし、おそらくこの隣の男もそうだ。「一人だとそういうのあるよな」とフォローしかけてやめる。さっきダグの気持ちを聞いたこともあって、なんとなく言いづらかったのだ。
 ダグはスーパーの駐車場につくと、二人を置いて車を出た。買い物を頼まれるつもりだったキリルとしては拍子抜けだ。
「サラ、横になってたほうがいいんじゃねーか? 俺、外に出てるからさ」
「あ……」
またサラが遠慮するだろうと想像できたので、返事を待たずキリルは車の外へ出た。ドアに寄りかかって、冷たい風を頬に受ける。
 それからダグはすぐに帰って来た。
「ん、なんで外?」
「俺と二人だと横になりにくいかなって」
キリルが後部座席を見て示すとダグは納得したように頷いた。
 サラは眠ってしまったようだった。よほど辛かったのだろう。彼女を起こさないようそっと車に乗り込むと、ダグにあんパンとコーヒーを渡された。やたら大きいと思った買い物袋の理由はこれだったらしい。
 車内はこれまでにないほど静かだった。ただ静かであればあるほど、後ろから聞こえてくる小さな寝息が気になってしまう。目的地に着くまでひたすら見慣れた景色を見てキリルは気を紛らわしていた。
 サラが歩いて帰ろうとするぐらいだから、それほど時間はかからなかった。ダグは車を停止させ、なぜかキリルを見る。
「ヴルーベリ巡査、起こしてやってくれ」
「え、俺?」
確かに寝ているところを起こすのはかわいそうな気もするが……と考えたところでキリルはあることに気付く。ダグがサラのことを視界に入れようとしないのだ。もしかしてさっき買い物に行ったのも、というのはサラを無事に帰してからにとっておこう。
「サラー、着いたぞー」
「うん……」
サラはぼんやりと目を開き、しかしすぐに今の状況を思い出したのかぴしゃりと姿勢を正した。
「あ……ごめんなさい。寝てしまって……」
「いいって。それより歩けそうか?」
「はい。さっきよりも少し楽になりました。本当にありがとうございます」
とろんとした目元とマスクの間から覗く赤い頬のせいで説得力はない。それでもサラはにこりと笑って車から降りた。
「あの、ダグさん……」
「ん?」
「遅くなりましたが退院おめでとうございます。今日はこんなことになってしまってすみません」
「気にしなくていいよ。お大事に」
車のドアが閉められる。サラが危なげな様子もなく歩いていてほっとした。

「なー、ダグー」
もくもくとあんパンを食べる相棒は、何か雑念を振り払っているようにも見える。彼は「ん」と短く返事をした。
「さっきまではさ、悪いけど今日外してくれーとか言ってたじゃん」
「そうだな」
「いやそうだなじゃなくて! もうちょっとこう、なんつーか……」
「ああ、情けないよな」
「情けないとかは思ってねーけど……ダグはそういうの、さらっとこなしそうだと思ってたから」
そうでもない、とダグは言う。それなら協力するとキリルは身を乗り出したが、あっさりと断られてしまった。
「……にしても暑いな」
ダグは片手でネクタイを緩めた。暑いなんて当たり前だ。こんなに暖房効かせたのは誰だと思っているのだろう。この優しさが彼女に伝わっていることをキリルは願うばかりだった。