ガラスの破片を踏みたくなって10
飛行船のおかげで網走までのんびりしていられるかと思っていたら、急に速度が落ちている。原動機がプスプスと音を立てており、素人目にもこれはよろしくないと分かる状態だった。
白石さんや杉元さん、アシリパさんまでもが原動機をバシバシと叩いて直そうとしている。だが一向に良くなる気配はない。いきなり墜落するようなことはないみたいだけど、あとは風に吹かれて流れていくままだった。
何度かヒヤッとする場面はあったが、私たちは比較的に安全に地面に降りることができた。東に四十キロくらいは進めたんじゃないかということだ。
しかし悠長なことも言っていられない。あれだけ大きな飛行船で移動していたのだから、位置はバレてしまっていると尾形が言うのだ。
アシリパさんが急いで杉元さんの手当てをしている最中、申し訳ないけれど私は先に行かせてもらった。長時間みんなと同じ歩調で歩ける自信がなかったからだ。私には白石さんがついてくれていて、杉元さんたちには双眼鏡を持った尾形がついている。
「にしても意外だね」
けもの道を踏み鳴らしながら白石さんが言った。意外というのは、尾形のことらしい。
「てっきり怪我人は置いて行けって言うかと思ったら」
「……前も炭鉱で怒られました。先に行っていいって言ったら、お前みたいな偽善者を見てると腹立つって」
「へえ~?」
「でも自分が死ぬくらいなら私を盾にするそうです」
「なるほどね~……尾形ちゃん」
白石さんはうんうんと頷いていた。共感するところでもあったのだろうか。でも、私だっていざというときはそうなるのかもしれない。
ちょうど大雪山に差し掛かったところで杉元さんたちに追いつかれた。尾形の双眼鏡はすでに敵を捕えたらしい。こちらは身を隠すものが少ない開けた場所にいるので、追手を巻くというのは難しいだろう。
私たちは大雪山に足を踏み入れた。目の前に立ちはだかる山を越えると思うだけで気が遠くなりそうになる。追手が諦めてくれればいいのだが、そう簡単に引き返してくれるとも思えない。
後ろに気を配りながら進んでいたら、急に天候が崩れて辺りは真冬のように冷たくなった。だけどここで下山したら確実に捕まってしまう。
どんどん風が強くなり、今にも雨が降りそうだ。
「風を避ける場所を探すんだ! 低体温症で死んじまうぞ!」
そう言った尾形の隣で、なぜか白石さんが笑い出した。どう見ても様子がおかしい。
「見ろ、ユクだッ!」
アシリパさんが指した先にはエゾシカの群れがいた。
「杉元、オスを撃てッ! 大きいのが四頭必要だ!」
アシリパさんの指示で真っ先に引き金を引いたのは尾形だった。尾形の撃った弾はオスのシカの頭を貫通してもう一頭の首に当たった。二頭同時に……と思っていたらさらにもう一頭。しかし四頭目を撃とうとしたところで群れに逃げられてしまった。
「急いで皮を剥がせッ! 大雑把でいい!」
尾形とアシリパさんで鹿の皮を剥ぐ。そしていよいよ白石さんが服を脱いであらぬ方向へ行こうとしていたので杉元さんと私で捕まえた。杉元さんがなんとか押さえつけているあいだに私が服を着せる。この際、裸がどうとか言っていられなかった。片腕のせいでモタついてしまったけれど、何とか服を着せたころにはアシリパさんたちの作業も終わっていた。
白石さんを一頭の皮の中に押し込んだ。残り二頭でアシリパさんと杉元さん、私と尾形にわかれて中に入る。皮の中はシカの体温で暖かかった。尾形は私の左肩が圧迫されないように後ろから腕を回してくれている。
背中にぴたりと尾形の温度を感じる。尾形は寒くないだろうか。無理に大人二人で中に入ってしまったため、尾形の足は皮の外にはみ出しているのだ。
「ごめん、狭いよね」
「モタモタしてた杉元が悪い」
「足、大丈夫? 寒くない?」
「言っただろうが。俺は自分を犠牲にしてまでお前を助けたりせんぞ」
「うん、そうだった」
なぜか尾形の顔が見たくなった。今どんな表情をしているのだろう。頭を回転させたら、額にじょりじょりとしたものが触れる。
「ふふ」
「なに笑ってんだ」
「ヒゲが当たった」
「……動くな、風が入ってくる」
「ごめん」
尾形は呆れたような顔をしていた。
「……ねえ」
「今度は何だよ」
「尾形は日露戦争に行ったんだよね?」
「それがどうした」
「私のお父さんも……そうだったんだけど」
言葉が途切れてしまう。私は尾形に何を言おうとしていたんだろう。父は日露戦争で戦死しましたと言ったところで、尾形は反応に困るだけだろうに。
「死んだのか」
「……うん」
「もしかしたらどこかで会っていたかもしれんな」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか泣きそうになってしまった。どうして今さらこんなことで涙が出てくるのか、何もわからない。顔を見られていない今なら泣いても気付かれないだろうか。
まばたきをしたら涙がぽろりと頬を伝った。
「さむい」
子供みたいな我儘を言えば、抱きしめられる力が少しだけ増した気がした。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。グラグラと体が揺らされて、てっきり尾形に起こされているのかと思いきや、揺れは外からの力によるものだった。
「まずいな、ヒグマがいる」
「えっ!」
なるべく音を立てないようにしながら皮の外へ出る。ヒグマは死骸の臭いで集まってきたようだった。
アシリパさんと杉元さんはすでに起きて外に出ていたけれど、白石さんが見当たらない。辺りを確認すると、シカの中に入ったままヒグマに引きずられて連れて行かれそうになっていた。しかし杉元さんが白石さんを助けようとしたちょうどそのとき、
「おぎゃあ!」
白石さんが産まれた。……というのはおかしいかもしれないけど、本当にそんな感じなのだ。このあまりに異様な光景にヒグマたちも驚いたのか、ドタドタと逃げて行った。一時はどうなることかと思ったけれど、白石さんのおかげで何とか無事に切り抜けることができた。
さすがの追手もあの天候では進めなかったらしく、この辺りに私たち以外の姿は見えない。しかし諦めて帰るとも思えず、私たちは追手の裏をかいて南のほうへ下山することにした。網走に行くには東に向かうのが最短だが、十勝地方を経由してまずは釧路に向かうことにしたのだ。釧路には刺青の囚人がいると、詐欺師の鈴川から聞いた情報がある。鈴川は残念ながら旭川で変装がバレて亡くなったそうだが、この情報を無視する手もないだろう。
銃の音で追手に居場所が伝わらないように、罠でネズミを捕りながら私たちは下山した。下山して森に入ったら丸焼きにして食べるためだ。杉元さんや白石さんはシカが食べたかったとぼやいていた。内心では私も同じ気持ちだ。まあ、ヒグマに自分たちが食べられるかもしれない状況だったから仕方ないのだが。
頼りのネズミも下山するにつれ数が少なくなってきた。ようやく木々が見えて来たところで火起こしの準備に入る。罠でぺしゃんこになったネズミを焼いて毛を取り除くと、ネズミ煎餅の出来上がりだ。
「少ないけど尾形も食べろ」
アシリパさんに手渡されたネズミを尾形がかじっている。アシリパさんは尾形に「ヒンナは?」と聞いていたけど、尾形は何も言おうとしない。
「尾形はいつになったらヒンナできるのかな? 好きな食べ物ならヒンナできるか?」
アシリパさんはシパシパと笑いながら尾形に詰め寄った。
「尾形の好物はなんだ?」
「……」
「尾形はね、あ――」
あんこう鍋、と言おうとしたら尾形に手で口を塞がれてしまった。尾形はすぐに手を離してくれたけど、だからって続きを言えるわけがない。知られたくなかったのだろうか。私は鶴見中尉から聞いてしまったけれど、それも本当は嫌だったんだろうか。
「……ごめん、触れてほしくなかった?」
「いや、別に……」
尾形は黙ってしまった。ただならぬ雰囲気を感じたためか、アシリパさんたちもそれ以上追及してこようとはしない。
「え、えーと! そろそろ進もっかあ!」
白石さんが声を上げる。気を使ってくれているのがわかりやすい。私たちは白石さんの気遣いに甘えて荷物をまとめて立ち上がった。