ガラスの破片を踏みたくなって12
真犯人を探して二日目。その日は朝から雨だった。小雨ならまだしも、ザアザアと音を立てるほどの勢いだ。
尾形は「プ」と呼ばれる食料庫に座ったまま微動だにせずにいた。外套はぐっしょりと濡れている。
「ねえ、村の人が家の中に入ってもいいって」
「いや、このままだ。日が沈んだら隙を見て谷垣を連れ出す」
「え、でもまだ二日目」
「明日すんなり逃げられると思うか? どんどん監視の目が厳しくなるぞ」
「……わかった」
今日はなるべく一か所にとどまらないようにと言われ、私は村の家を訪ねて回った。子供たちの遊び相手をしたり、食事の準備をしたり。まあ片手だからそんなに役には立てないけれど。一日目よりは打ち解けられているような気がする。なんだか騙しているような気がして後ろめたいが、仕方のないことだと何度も自分に言い聞かせた。
村の人に夕食をわけてもらって、食器を返却した。これからいよいよだ。見張りが一人ついているけれど、尾形が言うには一日目も途中で寝ていたから大丈夫だろうということだった。
雨が次第に弱まってくる。夕食後の村をうろつく人は今のところいない。
日が沈むころ、完全に雨は止んでしまった。だけどすでに暗くなったせいか、外には見張りの男が一人だけ。じっと見つめて何時間経っただろう。彼がこくんこくんと首を揺らすころには私の瞼もすっかり重くなってしまっていた。
あくびを噛み殺しながら尾形に近づく。尾形は食料庫の中から勝手に物を出して積み上げていった。そうして着ていた外套を被せ、銃に似せた長い棒を布でくるんで立て掛ければ、さも尾形が座っているかのようだ。
「私の分も作る?」
着ていた外套を脱ごうとしたら、尾形に止められる。
「俺は今日ずっとこの体勢でいた。だがお前はどうだ。二人並んで全く動かんのは不自然だろう」
「それで今日は別行動だったの?」
「そうだ。お前はあちこち行っていたから、見当たらなくともどこかにいるだろうと勝手に勘違いしてくれるってわけだ」
「うわー……」
そんなことまで考えていたなんてちっとも気付かなかった。事を荒立てないようにとしてくれたことが嬉しい。ただ感慨に浸っている場合でもないので、私たちは急いで谷垣さんが閉じ込められた檻の前まで移動した。
谷垣さんは檻の中で寝ていた。檻の木を一本慎重に外して手を差し込む。
「叩き起こせ」
「そんな乱暴にしなくても」
私がちょんちょんと突くと、谷垣さんは目を開いた。声を出さなかったのはいいけど、ぎょっと目を見開いている。何かと思って横を向けば、尾形が人差し指を口に当てながら谷垣さんを睨みつけていたのだ。そんな顔しなくたっていいだろうに。
谷垣さんも中から協力してくれたおかげで檻の解体はすぐに終わった。しかし組み立てるのが難しい。雑にやって崩れ落ちてしまえば、その音で見張りの人が起きてしまうだろう。思ったよりも時間が掛かってしまったが、見た限り見張りの人はスヤスヤと夢の中だ。
それから私たちは静かに村をあとにした。
釧路の街で白石さんたちと落ち合う手も考えたけど、杉元さんたちが犯人を捕まえられないまま村に戻ったときがまずい。杉元さんたちと合流するか、姉畑を捕まえるかの二択だ。
「無事に会えたんだな」
谷垣さんは、私が尾形に会えたか気にしてくれていたらしい。
「はい。あのときは本当にお世話になりました。ありがとうございました」
ああ、と谷垣さんが頷く。何か言いたそうな顔だ。そこでようやく私はもう一つ、谷垣さんが気にしてくれていることがあったと思い出した。尾形が私を弾避けにしようとしたんじゃないかと、そもそも忠告してくれたのは谷垣さんだったじゃないか。
今ここで言うのもな……と思いつつ、でも事実だしなと思う心もあった。
「あの、一応解決してるので大丈夫です」
「……そうか」
私はこくりと頷いた。その瞬間、尾形がちらりとこちらを見た。けれどすぐに前を向いて私たちを急かしてくる。
杉元さんたちも犯人も見つけられないまま夜が明けた。そろそろ朝食の時間だ。見張りが朝まで眠りこけていたとしても、そろそろ気付かれたと思ったほうがいいだろう。
「杉元たちを待ってもよかったのに」
息を切らしながら谷垣さんが言うと、尾形はため息をついた。どこかで聞いた話だな、と。
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる。なあ?」
尾形が私を見ながら言うので頷くことしかできなかった。
「逃げれば罪を認めるようなものだ」
「お前の鼻を削ぐのは俺がやってもよかったんだぜ」
「ケンカしないでよ」
「眠そうな顔で凄まれてもな」
「だって私、昨日寝てない……あ!」
私は今、とんでもない事に気付いてしまった。
「尾形、座ったまま寝てたでしょ……お昼。頭まで外套被ってたから全然気づかなかった」
「いや起きてた」
「嘘ぉ」
寝てた、寝てないの応酬が続く。気付けば谷垣さんが呆れたような顔で私たちを見ていた。いたたまれなくなって私は口を噤む。尾形はしれっとした顔で話を切り上げて先へ行ってしまった。
それからしばらくして、銃声が聞こえてきた。杉元さんたちかもしれない。
しかし音の聞こえたほうへと向かっていたら、背後から村の人たちが迫ってくるのに気付いた。彼らも音の聞こえた方向を目指していたのだろう。段々と縮まる距離に私は焦っていた。
「お前、また妙なこと考えてないだろうな」
「……ま、まだ考えてないっ」
「走れ」
うん、と言いかけた声は大きな唸り声によってかき消されてしまった。……ヒグマが走っている。そしてその後ろに人が……、下半身裸の男がしがみついていた。
あまりの光景に一瞬頭が真っ白になってしまった。「なんてこった」という尾形の声で、ハッとする。私たちを追ってきていた村の人たちも唖然としていた。でもこれは谷垣さんの疑いを晴らすという意味ではちょうどよかったのかもしれない。
杉元さんが姉畑を助けに行ったが、姉畑はヒグマにしがみついたまま亡くなっていたそうだ。ヒグマは杉元さんが退治してくれたため、姉畑の刺青は無事に回収することができた。
姉畑の遺体を前に、アシリパさんが神妙な顔つきをしている。
「本当に動物を愛していたならどうして最後に殺すんだ? ウコチャヌプコロする前によく考えなかったのか……なあ杉元! そう思わないか?」
杉元さんは返答に困っているようだった。しかし尾形が口を挟む。
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ」
杉元さんが尾形を止めようとしていたが、アシリパさんは冷ややかな顔をしていた。
村の人たちは誤解したお詫びにと食事や酒を振舞ってくれた。私はお酒は飲まなかったけど、昨日の夜寝てないせいもあって睡魔に襲われていた。
「……えっ」
みんなで食事を囲んだことまでは覚えている。……それならどうして今私は横になっているのだろうか。しかも尾形があぐらを掻いた膝の上で。
「起きたか」
「なん……っ!」
私は慌てて飛び起きた。周りには酔いつぶれたのか、顔を真っ赤にした村の人たちが雑魚寝している。だけど杉元さんやアシリパさん、谷垣さんは起きていた。ドッと冷や汗が流れてくる。いつのまに眠ってしまっていたのだろう。……いや、それはまだいい。どうして尾形の膝の上で寝ていたのかというところが問題だ。
「二人は本当に仲がいいな!」
アシリパさんが言う。杉元さんと谷垣さんの視線も生温かい。この状況で尾形の顔はとても確認できる気がしなかった。
「……ごめん」
とりあえず尾形に謝ってみたものの、私の顔は真夏の陽射しの下なんじゃないかというくらい熱くなっていた。前は「良い人なのかい」と聞かれても平気だったのに、あのときとは明らかに違う。
「大した話はしてねえから寝てろ」
「うん……」
私はもう一度横になった。もちろん床にだ。だけど眠れるわけがない。みんなは一度小樽の村に戻るかという相談をしているようだった。アシリパさんのおばあちゃんがアシリパさんに二度と会えないという夢を見て、谷垣さんはそのことを伝えに来たそうだ。
一度帰ろうか、と杉元さんが言う。だけどアシリパさんは進むと答えていた。