ガラスの破片を踏みたくなって13
釧路町で無事に白石さんたちと合流した私たちは、アシリパさんのおばあちゃんの十五番目の妹が暮らしているという海岸のコタンに来ていた。
姉畑の行いに胸を痛めたアシリパさんが、海のカムイも丁重に「送って」去ろうと提案したからだ。
アシリパさんは杉元さんと白石さんを連れて小舟に乗り込んだ。狙うのは海亀らしい。
アシリパさんたちを見送った私は、砂浜でヒジキを採っていた。さすがにこの腕で船に乗ったら万一のときにどうしようもないからだ。一応、日が経つにつれ痛みは引いてきている。そろそろ腕を吊り下げるのはやめてもいいような気はするけど、みんなができるだけ慎重にしたほうがいいと言ってくれるので外せないところもあった。せめて家永さんがいたらなあと思う。
チカパシくんがリュウと砂浜を駆け回っているのをぼんやりと眺めていたら、視界の隅を尾形が横切っていった。尾形の持っている大きな桶には海水がなみなみと入っている。
「尾形は何してるの?」
「出汁取るのに海水がいるんだと」
「大丈夫? 重くない?」
「このくらい余裕だ」
「力持ち~」
「お前よりはな」
それでも心配だなと思っていたら、尾形は眉をひそめた。
「何だよ」
「私も手伝えたらなって思ったんだけど」
「余計に歩きづらい。……もうお前もその辺でいいだろ、村に戻って下ごしらえでもしときゃ杉元たちが戻ってきてすぐに食える」
「お腹空いてる?」
「効率の話をしてんだよこっちは」
尾形はやれやれとため息をついていた。
尾形の言った通りコタンに戻って下ごしらえをしていたら、ちょうどいいところで杉元さんたちが戻ってきた。
海亀の汁物は汁がトロトロしていて、肉の味はあっさりだった。アシリパさんによると、この種の海亀は海藻しか食べないから肉に臭みがないそうだ。
次の日、アシリパさんは朝早くからマンボウを獲りに出ていた。アシリパさんは杉元さんを起こそうとしていたようだけど、杉元さんが起きなかったから村の人と行ってしまったのだ。
私はインカラマッさんたちと一緒にハマナスの実というのを集めていた。赤く熟したものを探せばいいらしい。
そのままでも食べられるということで谷垣さんがかじっていたけど、かなりすっぱかったらしく顔をぎゅっと寄せている。インカラマッさんはそれを見てくすりと笑っていた。
ある程度集めたところで村に戻り、私は村でハマナスの実を煮込むのを見学させてもらうことにした。杉元さんや白石さんたちはまた海岸に向かったようだ。
実を割って、種を取り除いて鍋に入れる。ひたすらそれを繰り返していたら、空に黒い雲のようなものが見えてきた。まずい、と一緒に作業していた村の人が言う。
黒い雲の正体はバッタの集団だった。まれに気候などの条件が重なってこうなることがあるそうだ。村の人たちは食料庫を守りに行った。
バッタが入ってこないように、布や木の板で窓や入り口を塞ぐ。すでに何匹か入ってきてしまったものは叩いて潰した。二、三匹だったけれどそれでも恐ろしい。
みんながまだ帰ってきていないのが心配だ。探しに行きたかったが、とても家の中から出られる状態ではなかった。外にいたらきっと私は泣いていたと思う。バッタに噛まれて死ぬようなことはないというのが幸いだ。
しばらくじっとしていたら、羽音が消えた。恐る恐る窓の外を窺うと、さっきまでのことが嘘のようにバッタは消え去っていた。
結局だれも戻ってこなかった。みんなは大丈夫だったんだろうか。……探しに行ってみよう。
まず向かったのは海岸だ。人の姿は見えないけれど、小屋を見つけた。もしかしたらあそこに避難しているのかもしれない。
近づいてそっと窓から中の様子を見てびっくりした。尾形、杉元さん、白石さん、谷垣さん、いつの間に合流したのかキロランケさんもいて、全員なぜかふんどし一枚で寝転がっていたのだ。まさか服を全部食べられてしまったのだろうか。見てはいけないようなものを見た気がして、私はさっと身を隠した。
小屋から離れてアシリパさんやインカラマッさんを探していたら、急に腕を掴まれる。驚いて振り返ったらそこには尾形がいた。
尾形はいつも通り軍服を着てその上から外套を羽織っていた。服を食べられたわけではなかったらしい。それならなぜ裸だったのかという疑問はあるけど、見てしまったとは言えず、
「バッタ大丈夫だった?」
と、差しさわりのないことしか聞けなかった。
「少し噛まれたが近くに番屋があって助かった。お前は?」
「村にいたから大丈夫だったよ」
「で、何してたんだ?」
「みんな平気だったかなと思って探してた」
「ああ……の割にさっきは俺たちに声もかけず逃げてったな」
「ええ……。だって、さあ……」
まさか見られていたとは。尾形は私に気付いて追いかけてきてくれたのだろうか。
「だって、何だよ」
ゆらりと尾形が近づいてくる。どうにも様子がおかしい。よく見たら目も座っていて、これは夕日のせいかもしれないが顔もほんのりと赤くなっている。
「尾形、熱あるんじゃない?」
「かもしんねえなあ」
また一歩と尾形が近づく。少し怖かった。
「……きゃあっ!」
突如、背中にもぞもぞとした感触が走る。そして次は噛まれたような痛みを感じた。
「……っどうした?」
「背中に……なんか……入った? もしかしてまだバッタいたのかな」
背中に手を回してなんとか追い出そうとするが、これがなかなか上手くいってくれない。
「うぅ……どうしよう、尾形」
「脱ぎゃいいだろ」
「今ここで? 無理だよっ!」
村が近ければ戻って服を脱げば済む話だが、それまで我慢できそうにない。さっきの小屋にはまだ杉元さんたちがいるかもしれないし、尾形の前で脱ぐのなんてもちろん論外だ。
「叩いて潰してやろうか」
最悪それも有りだ。しかし潰れたあとのことを考えると抵抗がある。だって気持ち悪いじゃないか。
そう言っている間にも服の中でバッタは暴れている。私は尾形に背中を向けた。
「潰れないように下から押し出してくれないかな。無理そうだったら潰してもいいから」
背後でものすごく大きなため息が聞こえた。「ごめんね」と言ったら帯のすぐ上のあたりに尾形の手が触れた。
「ひゃっ!」
「おい妙な声を出すなよ」
「……ごめん、くすぐったくて」
尾形はまたも大きなため息をついた。
大きく広げられた尾形の手は、空気を抜くように着物の上をなぞっていった。手が肩の下あたりまで来たとき、勢いよく何かが飛び出て行ったのがわかった。
「ありがとう! 何だった?」
振り返ってお礼を言うと、尾形は私から視線を逸らした。さっきは目元がぼんやりとしていたみたいだったけど、今はいつも通りに見える。
「バッタだ。はぐれたのか知らんが、すぐどこか飛んで行ったな」
「そっかあ」
「ははあ、顔が真っ赤だな?」
言われて頬に手を当ててみると確かに熱い。
「……だって、なんか思ったより恥ずかしくて」
変な声を出してしまったこともだけど、尾形に触れられたこともそうだった。背中の触れられた部分がゾワゾワする。決して気持ち悪いわけではないのだが、今までにあまり感じたことのない感覚だった。
「俺も少し涼んでくる」
「うん?」
「鍋食って熱いんだよ」
「……あんこう鍋じゃないよね?」
「違えからお前もそのタコみてえな顔冷やしとけ」
そう言い捨てた尾形は砂浜をざくざくと歩いて行った。べつに熱くたって、と実は思っていたけど言えやしない。日の落ちかけた海辺には涼しい風が吹いていた。