ガラスの破片を踏みたくなって15
家永さんに大丈夫だというお墨付きをもらい、腕を固定させていた布を外した。肩を動かしてみて、今のところ違和感はない。尾形に報告すると「そうかよ」とだけ素っ気なく返ってきた。
それから私たちは北見の街へ寄った。北見には土方さんの知り合いの写真師の方がいるそうだ。アシリパさんの写真を撮っておばあちゃんのところへ送ってあげようと杉元さんが言う。せっかくの思い出にと他のみんなも写真を撮ってもらうそうだ。
そろそろ順番だなと思っていたら、尾形が外へ出ようとしているのをみつける。
「写真は?」
「俺はいい」
「……一緒に撮ってもらおうよ」
尾形は十秒くらい考えていた。
「まあ、いいが……」
快くとまではいかなかったが、了承をもらえてよかった。杉元さんとアシリパさんの撮影が終わり、私たち二人は写真機の前に立った。
ちょっと緊張してしまったかな、とドキドキしながら出来上がった写真を受け取る。そこには仏頂面の尾形と顔に傷のある女が立っていた。
「あ……」
鏡もないから忘れていた。そっと頬に触れるとそこにはわずかな凹凸がある。
「どうしたんだよ」
尾形が後ろから写真を覗き込みながら問いかけてくる。私は咄嗟に写真を伏せた。
「何でもない」
「何でもないって顔じゃねえだろ」
「た、大したことじゃない……」
なおも理由を言おうとしない私に呆れたのか、尾形がため息をつく。
「それ、いらねえなら寄越せ」
尾形は私の手からひょいと写真を抜き取った。写真なんていらないんじゃなかったのか。どうして、と尾形を見上げる。尾形は眉間にシワを寄せて写真を睨みつけていた。
「どうせ顔の傷のことだろ」
「なんでわかったの……」
尾形は答えなかった。その代わり、
「お前、俺の顔見るたびいちいち手術の痕があるなとか思ってんのか?」
と聞いてくる。
「……思ってない。最初は痛々しいなって思ったけど」
「杉元の顔見て傷がどうとか考えるか?」
「……ううん」
これが尾形なりの慰めなのだろう。悩んでいても傷は消えちゃくれない。みんながもう見慣れて何も思わないのだとしたら、私だって傷を受け入れるべきだ。
写真が尾形の懐に入れられるのを見て「あ」と声を上げてしまう。今さら欲しいと言って許されるだろうか。私が写っているからというよりは、尾形との写真ということが重要だった。
私が何か言いたそうにしていたのは明らかだったろうに、尾形は無視して行ってしまった。あとで機会を見て返してほしいと言ってみよう。
北見の街から北東へ向かえば、もう網走だ。網走監獄の警備はかなり厳重らしく、簡単に潜入することはできなさそうだった。
そこで頼りにされたのが脱獄王と呼ばれる白石さんだ。
まず監獄の外壁と網走川の間に小屋を建て、鮭漁を行う。この時期は鮭がよく獲れるため不自然ではないそうだ。そして小屋の下にトンネルを掘れば、見張りとやり合わずに済む。白石さんの作戦に全員が賛同した。
しかしこの作戦が何の問題もなく進むなどということはなく、小屋を作り始めた時点で看守に注意を受けた。これはまだ白石さんの想定内だ。見逃してもらう代わりに鮭を渡すとチラつかせれば、相手はあっさりと頷いた。
「毎日三匹か」
谷垣さんが呟いた。看守が三人いたから三匹というのはわかるのだが、それが毎日となると漁も真面目に行わなければならない。
トンネル堀りはキロランケさんが指揮をする。同時に穴の中に入るのはせいぜい三~四人で、同時に小舟に乗って漁を行うのも三人が限度だ。それから万一のときのために小屋に残って見張りをするのに一人。残りは近くのコタンで潜入の準備を整えることになった。
私とアシリパさんは漁に出ている谷垣さんやキロランケさんの身内の振りをして、仮小屋とコタンを行き来した。食べ物や水を届け、かわりに余った鮭をコタンに持ち帰る。看守の目を欺くための漁は思っていたより順調で、時には街に売りに出ることもあった。
トンネル掘りが終わったそうだ。驚いたのは、トンネルの出口が土方さんと内通している看守部長の宿舎だったということだ。その門倉さんという人は、毎日独房を移されるのっぺらぼうが次にどこの監房へ移動させられるのか予想できるらしい。潜入は次の新月に決行される。
潜入するまでトンネルが見つからないよう鮭漁は継続しつつ、私たちは時期が来るのを待った。
「チタタプとは本来、鮭のチタタプのことを指すんだ」
アシリパさんがそう言うと、杉元さんが「待ってました」と言わんばかりの勢いでキロランケさんに飛びついた。……どうしてキロランケさんなのかは分からない。
その意味の通り、全員で鮭を順に叩いていく。土方さんまでもが(しかも刀で)やってくれたのは意外だった。この中で一番権力があるのはアシリパさんなのかもしれない。
「尾形~~」
アシリパさんが尾形に近づいていく。このやり取りも見慣れたものだ。
「みんなチタタプ言ってるぞ? 本物のチタタプでチタタプって言わないならいつ言うんだ?」
「……」
「みんなと気持ちをひとつにしておこうと思ったんだが……」
ふう、と息を吐いてアシリパさんが立ち上がる。彼女が尾形に背を向けたところで
「……チタタプ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。アシリパさんは勢いよく振り返った。
「言った!」
アシリパさんは嬉しそうな顔をして杉元さんたちに「聞いたか?」と聞いて回っている。だけど杉元さんたちには聞こえていなかったようだ。見かねて私は「アシリパさん」と声を掛ける。
「私、聞いてたよ」
「本当か? よかったな尾形!」
尾形は無言で私を見上げた。けれどすぐに視線を落としてもくもくと鮭を叩いていた。
みんなで作ったチタタプを食べたあとは、それぞれが好きにしていた。お酒を飲んで寝てしまう人もいれば、外で話をする人もいる。
「尾形」
尾形は家の隅で銃の手入れをしていた。その隣に座ると、ちらりと目線だけが向けられる。
「写真、まだ持ってる?」
「ああ、」
尾形は懐に手を入れた。しかし目当てのものはいっこうに出てこない。
「失くした」
「ええ~っ!?」
「うるせえ」
大事にしてくれないなら私がもらっておけばよかった。あのとき追いかけてでも返してもらうべきだったなと後悔する。私が顔の傷を見て落ち込んでいたからこっそり捨ててくれたのかもしれないと、さすがにそれは考えすぎだろうか。しかしそうであっても尾形が素直に認めるとは思えず、肘で彼の脇腹を小突いた。
「手元が狂う」
「知らない」
「お前も銃の手入れくらいしておけ」
「……例えば、どんな?」
これまでにないくらい尾形の顔が歪む。
「まさか今まで何もしてこなかったのか?」
「……弾を買い足すくらいなら」
「それは手入れと言わん」
尾形から細い棒と布切れを渡される。布に油をつけて銃口内を拭けばいいそうだ。隣で尾形は軽く銃を分解していたけれど、さすがにそんなことをしたら戻す自信がないのでやめておく。
銃口内を拭いてみると、布が真っ黒になった。
「わあ」
「放っておいたら錆になる」
「……そう言えば、お父さんはこういうのやってたかも」
「そうだろうな。まあお前はほとんど撃ってなかったようだし、今持ってるのは軍から盗んだものだから平気だったんだろ」
「ハイ、これからは気をつけます……」
私は手入れの道具を片付けて、尾形が分解した銃を組み立てていくのをじっと見ていた。なんとなく嫌な予感がしているのだ。この時間が長くは続かないと。網走監獄でアシリパさんがのっぺらぼうに会ったらその次はどうなるのだろう。みんなで金塊を探し当てることができるのだろうか。言いようのない不安をどうすることもできず、私はただ時の流れに身を任せていた。