ガラスの破片を踏みたくなって16

 ついに新月の日になってしまった。
 私はインカマッさんとチカパシくん、それから永倉さんと家永さんと共にコタンで待機することになった。
 尾形の様子がいつもと違う気がする。どこがどう違うのかはっきりとは分からないけど、今日は何度も目が合うのだ。だけど尾形は何も言わない。正確に言うと、何か言いかけてすぐにやめてしまう。こう何度も繰り返されては気にするなというほうが無茶な話だった。
 そしていざ出発というとき、とうとう尾形が何も言わないまま行こうとするので私のほうから声を掛けた。
「尾形、一人で大丈夫?」
「……ああ」
 尾形は山に隠れて狙撃で援護することになっている。私も一緒に行って、見張りくらいならできるんじゃないだろうか。周りを警戒する人がいれば尾形も狙撃に集中できると思うのだ。
「一緒に行ったら邪魔になるかな」
「できるだけ目立ちたくない」
「そう、だよね」
「……もう行く」
 くるりと背を向けた尾形の外套を掴む。煩わしそうな目を向けられて一瞬手を離しそうになったけど、ぎゅうと指に力を入れた。
「待って。今日の尾形、なんか変だよ」
「……一緒に来るか?」
「え?」
尾形の返答は返答になっていなかった。にもかかわらず、私は頷きかけてしまう。しかし、
「なんてな。冗談だ」
尾形はフッと笑って外套を翻した。「待ってよ」とか「尾形」とか、何度か呼びかけたけど尾形はそれきり振り向いてくれなかった。

 残されたコタンで潜入組の無事を祈る。インカマッさんが何度か占いをしているのを見て、そのたびに心臓が痛くなった。どういう結果だったか聞きたいけれど、怖くて聞くことができない。杉元さんたちはそろそろ侵入できたころだろうか。アシパさんはのっぺらぼうに会えただろうか。
 インカマッさんが外へ出ていく。厠とは反対方向に歩いて行った気がして後を追いかけようとしたら、永倉さんに腕を掴まれた。
「……あの?」
 インカマッさんが裏切っているかもしれない。永倉さんにそう聞いても私は信じられなかった。永倉さんは家永さんたちにも声を掛けて荷物をまとめている。ここから逃げるそうだ。
 私も言われるがまま逃げる準備をした。そうしていたらカンカンカンと鐘の音がここまで聞こえてきて、その次はドンと大きな爆発音がした。永倉さんの話の真実味が増してくる。インカマッさんは一足先に逃げたのだろうか。それとも谷垣さんのもとへ向かったのだろうか。
 永倉さんの話ではおそらく第七師団が絡んでいるだろうということだった。全員バラバラに逃げて、みつかったら決して抵抗しないように。永倉さんの言葉に頷いて、私は外へ飛び出した。

 監獄方面に逃げるのとその反対はどちらがいいのだろう。
 監獄のほうへ行けば追い詰められるだけのような気もするが、潜入したみんなに危険を伝えられるかもしれない。それに上手くいけば争いのどさくさに紛れて第七師団をやり過ごすことだってできる。
 街のほうに逃げるのもいいかもしれないが、街を第七師団に抑えられていたときが絶望的だ。
 どちらも危険があるのなら、私は監獄方面へ行くことにした。尾形を探しながら山道を進む。尾形はきっと高い場所で狙撃の好機を狙っているはずだ。
 この暗闇の中、目視だけで尾形を探すのは難しい。だけど前に谷垣さんから聞いたことがある。「狙撃手は相手に位置が割れるのを恐れてむやみに発砲しない」……つまり、尾形が一発でも撃てば私にだってみつけられるかもしれないということだ。
 爆撃の音がひどく、銃声を聞き取ることはできなさそうだった。私は木々の間を注視しながら進んだ。
 チカッと視界の端で何かが光る。幸いだったのは、もう一度光が放たれたことだ。
 私は急いで光の方角へ走った。物見やぐらがある。きっと尾形に違いない。
 網走監獄の看守かもしれないという疑惑もあったため、私は静かにハシゴを上った。上っているあいだにも銃声が続いている。
 ハシゴのすぐ横にいたのは尾形だった。尾形でよかったと思っていたのも束の間、彼があまりにもぎょっとした顔をするので私の中に違和感が芽生えた。
 尾形の銃が向けられた先を見てみると、人が二人重なり合うように倒れていた。私はすかさず尾形の横に置いてあった双眼鏡を手にした。
「え……?」
 上に人が乗っているせいではっきりとはわからない。だけどたぶん杉元さんだ。杉元さんの軍帽が近くに落ちていて、服装もほぼ同じに見える。それから杉元さんに重なるようにして倒れていたのはおそらくのっぺらぼうと呼ばれる囚人だった。
 突然、何者かが杉元さんの足を掴んだ。あ、と思ったところで尾形に双眼鏡を奪われる。
 尾形は先ほどと同じ方向にもう一発を撃った。
「ねえ……何してるの?」
「杉元たちを助けようとしたんだが、失敗した。ここもまずい、逃げるぞ」
 尾形はそう言ってハシゴを下りて行った。もやもやとした違和感を抱えたまま、私も尾形に続く。
 私がハシゴを完全に下りるまで尾形は待っていてくれた。それに少し安心する。だけどどうしても違和感がぬぐい切れなくて聞いてしまった。
「尾形、あんなにたくさん撃ってたのに杉元さんたちしか倒れていないのはどうして?」
「……」
「全部外したなんてありえないよね、尾形なら。……ねえ、本当のこと話して」
膝が震えていた。手はぎゅっと握り締めて、全身に力を入れる。そうでもしないと立っていられそうになかった。
「あー……なんで俺をみつけちまうかね」
私に言っているというよりは、独り言のような音をしていた。自白ともとれるような内容に頭の中が真っ白になる。かろうじて絞り出した言葉は、かつての恨み言だった。
「尾形が私のこと、弾避けなんかにするから……」
尾形はいつものように片手で髪を撫でつけた。見下ろされる瞳が何を考えているのかわからなくて、私は泣きたくなった。
 ざく、と足音を立てて尾形が近づいてくる。私は動けなかった。殺されるのかもしれない。
 尾形の手が伸びてきて、外套を掴まれる。そのままグイと引き寄せられて、もう片方の手で後頭部をがっちりと固定された。
「……!?」
 唇を奪われたと気付いたのは、尾形のそれが離れて行ったあとだった。
「……なん、で?」
「俺と一緒にくるか? 俺は今からアシパと合流して樺太へ向かう」
「どうして杉元さんたちを撃ったの? のっぺらぼうだってアシパさんのお父さんかもしれないのに」
尾形は私の質問に答えてくれなかった。
「どうする? もう時間がない。ここにいたら鶴見中尉に捕まるぞ」
「……行けないし、行かせない」
 私は銃の引き金に指を掛けた。それを見た尾形がなぜかニヤリと笑う。
「俺を殺すのか?」
「そんなことできないッ!」
私は空に向けて銃を撃った。一発、二発と続けて撃つと、尾形がチッと舌打ちをする。
「アシパさんのところへは行かせない! 私たちはここで第七師団に捕まって、それで終わり!」
私は銃声や叫び声で追手に居場所を知らせた。何も知らないアシパさんに尾形を会わせるわけにはいかない。
「第七師団のみなさーんッ! 脱走兵の尾形百之助がここにいまーす!」
 尾形が逃げていく。追いかけようとしたけど、木の根に足を取られて転んでしまった。そうして間もなく、私は第七師団に拘束された。