ガラスの破片を踏みたくなって17
私は拘束されてからずっとメソメソと涙を流していた。背中に銃を突き付けられたまま、監獄とは反対方面へ歩かされている。第七師団の兵は私が銃を怖がって泣いていると思っているかもしれないが、それは違う。
尾形がみんなを裏切っていたことが悲しかった。問い詰めても答えてくれなかったし、杉元さんが死んでしまったのも、うやむやにするために口づけをされたのも、とにかく全部だ。
尾形のばか。なんで、どうして。仲良くなれたと思っていたのは全部彼の演技によるところだったんだろうか。助けてくれたのも、優しくしてくれたのも、すべてが嘘だったのだと思うと涙が止まらない。尾形はきっと、私ですら分からなかった私の気持ちの正体を知っていたのだろう。だからあんなことをしたのだ。もう何も信じられそうになくて、それなのに私は唇一つ拭うことができずにいる。
黙って尾形について行けばよかったかなと一瞬でも考えてしまったのが嫌だった。これはアシリパさんや杉元さんに対する裏切りだ。
泣き続けながら歩いて、着いた先は監獄近くの街だった。びちゃびちゃに顔を濡らして歩いていた私に、そっと手拭いが差し出される。
「……鶴見中尉?」
鶴見中尉はにこりと笑った。しかし手拭いを受け取ろうにも拘束されていてできない。……かと思えば、鶴見中尉の一声で私を縛っていた縄が解かれる。
「ありがとうございます……」
私は手拭いを受け取って顔をゴシゴシと拭いた。あまりに私の手つきが乱暴だったためか、鶴見中尉の手が私の腕にそっと乗せられる。
「いや久しぶりだね本当に」
「……その節は、すみません」
「もう過ぎたことだ。それより知っていることを話してくれないか? 茶菓子でも食べながらゆっくり話そう」
場所を宿の一室に移し、もう真夜中だというのにどこからかみたらし団子が運ばれてきた。がぶりと噛みつく私を鶴見中尉はどこか面白そうに見ている。
「尾形は樺太に行くって言ってました」
「ほう」
もう尾形を庇う必要もない。そう思っていたはずなのに、言った途端に罪悪感が芽生えてくる。軍が尾形やアシリパさんを追いかけて、もしものことがあったら私はどうするつもりなんだろう。最悪の場合を考えたらまた涙が溢れてくる。
鶴見中尉は湯飲みに口をつけた。
「尾形上等兵はずいぶん君に入れ込んでいたようだ」
「……そんなこと、ないと思います」
「私だったら目撃者は殺しておくがね」
「え……」
「殺せなかったんじゃないか? 例えば君のことを愛していたから」
「ぜ、絶対にあり得ません!」
鶴見中尉は澄ました顔で団子を食べていく。この妙な間が気持ち悪くて私もお茶を飲んだ。
「わざわざ樺太に行くなどと君に言った理由は?」
「……嘘かもしれませんし」
「いいやおそらく本当だろう。まあ、もう少し確信が欲しいところではあるがね」
鶴見中尉はにこりと笑って席を立った。この部屋は自由に使っていいということだったから、今日はお言葉に甘えさせてもらおう。
夜が明けて、部屋の戸を叩いたのは月島軍曹だった。脱走した手前気まずかったが、相手のほうは気にしたような素振りを見せない。
月島軍曹に案内されたのは近くの病院だった。ここに杉元さんやインカラマッさんが入院しているそうだ。
「杉元さん、生きてるんですか?」
「ああ、聞いていなかったのか。朝から握り飯にがっつくほど元気だそうだ」
「よかった……」
杉元さんの病室に入る手前で鯉登少尉と鉢合わせになる。こちらは月島軍曹と違って私を見るなりキッと眉を寄せていた。
病室の戸を開けると杉元さんの他にも谷垣さんや鶴見中尉がいた。これからのことを話していたらしい。インカラマッさんからの情報でアシリパさんたちが樺太に行ったということがほぼ確定したらしく、杉元さんと谷垣さんは後を追う気のようだ。彼らに同行させるために月島軍曹と鯉登少尉を鶴見中尉が呼びつけたということで、鯉登少尉のほうはかなり不満を抱えている様子だった。
私に忠告してきたのは意外にも杉元さんだった。
「来ないほうがいいよ。俺は尾形を殺すつもりで行くから」
やめてと言える道理はなかった。杉元さんがこういう人だというのも知っているし、何より先に仕掛けたのは尾形だ。それでも尾形に死んでほしくないと思っているのは事実だが、杉元さんの前で口にすることはできなかった。
「……でも私、尾形がどうしてこんなことしたのか知りたいんです」
「キエッ!」
「女子がいたら足手まといになるから反対だと鯉登少尉が」
鯉登少尉がさらに何か言うのを月島軍曹が鶴見中尉に伝えている。鶴見中尉も私が樺太に行くことへは反対のようだ。
全員に反対されてまで連れて行ってほしいと言える度胸はない。鯉登少尉が言う足手まといというのも本当のことで、私には杉元さんたちのような力もなく、アシリパさんのように知恵があるわけでもないのだ。
病室を出る寸前、鶴見中尉が杉元さんに何か耳打ちしているのが見えた。
樺太行きの船は朝のうちに出港するそうで、別れを惜しむ間もないまま見送りに出る。
ちょっと、と杉元さんに腕を引かれた。杉元さんは人目を気にしながら私を物陰へ連れて行った。
「鶴見中尉には気をつけて」
わざわざどうしたのだろう。杉元さんは小声で続けた。
「尾形に会ったらその……、女を預かってるって伝えろって言われたんだよね」
「え、私のことですか?」
「うん……」
「鶴見中尉は勘違いしてるんですよ。尾形にそんなこと言ったって意味ないのに」
「うーん……」
杉元さんは頬をポリポリと掻いた。
「俺も尾形がそれでアシリパさんを解放するとは思わないけど……」
「杉元さんの言う通りです。言うだけ言ってみるのは構いませんけど……尾形が言うことを聞かなくても私には内緒にしてくれると嬉しいです」
「……俺から見ても、いい雰囲気だったよ?」
「……もしそうだったとしても、尾形にはもっと優先することがあるんでしょう。そうじゃなきゃこんなことにはなってません」
私は目元にぎゅっと力を入れた。どう見ても泣きそうな私を前に杉元さんがオロオロと慌て始める。
「ごめん! えーっと、鶴見中尉の言う通りにするのも癪だし『泣いてた』って伝えとくね」
「……はい」
杉元さんはもう一度「ごめん」と言った。それが何に対しての謝罪なのかうっすら分かってしまったけど私は触れなかった。いや、触れられなかったというほうが正しいかもしれない。杉元さんは本気で尾形を殺すつもりなのだ。
樺太行きの船を見送ったあと、私は一度宿に戻った。これからのことを考えて、一番に思い出すのはやはり小樽にあるコタンのことだった。今までのことを忘れて暮らしていけたらきっと幸せだろう。しかし小樽まで一人で戻るのは難しい。鶴見中尉に頼んだとして、コタンに戻ることを良しとしてくれるかは微妙なところだ。
もう一つ浮かんだ案として、私も金塊を探していればいつか尾形に会えるかもしれない。だけどこちらはあまり現実的ではなかった。軍さえも金塊を見つけられていないどころか、その軍がアシリパさんを最有力の手掛かりとして見ているのだ。私一人がどうこうしたところで金塊にはたどり着けないだろう。それなら軍に協力するしかないのだが、鶴見中尉に私の意図はきっと透けているはずだ。
考えていても仕方ない。私は意を決して鶴見中尉に話をつけに行くことにした。部屋の戸を開け、しかしそこで出くわしたのは宇佐美だった。
「あ、ちょうどよかった」
私が一歩引くと宇佐美はズカズカと部屋の中に入ってきた。そういえば私、この人のこと苦手だったな……。ぼんやり小樽でのことを思い出していたら、ピシャリと戸を閉められて息が詰まりそうになる。
「うわ~、目が真っ赤だしすっごく腫れてる」
「……」
「百之助に置いてかれて泣いてたの? かわいそ~」
「……ちょうどよかった、というのは何でしょうか」
「ああ、鶴見中尉殿から伝言。しばらく網走にいるから好きにしてていいって」
「そうですか」
「全く、なんでこんな女のために僕が……」
宇佐美はブツブツ言いながら私に背を向けた。そのまま部屋を出てくれればよかったのに、彼は急にぴたりと立ち止まって振り返った。
「そうだ、寂しいなら慰めてあげよっか」
「え……?」
じりじりと近づいてくる宇佐美に恐怖を覚えなかったわけではないが、これはいい機会なのかもしれない。
「じゃあ、あの……尾形のこと教えてくれませんか?」
「……は? 嘘、何も伝わってないじゃん」