ガラスの破片を踏みたくなって18
外に出たいと言ったのは、部屋に宇佐美と二人きりというのが耐えられなかったからだ。宇佐美はどうでもよさそうに返事をして、そういうところは少し尾形と似ているような気がした。
「あのさあ、僕も暇じゃないんだけど」
「宇佐美さんが慰めてくれるって言ったのに?」
「あれはそういう意味じゃ……あー面倒くさ」
宇佐美さんはこれから登別まで行かなければならないそうだ。出発は明日で、今日はその準備をして、準備が終われば自由にしていいらしい。つまり暇なんじゃないかと思ったけど、言ったら怖そうなのでやめておいた。
「登別へは何をしに行くんですか?」
「あそこの温泉が傷に効くってことで軍の御用達になってんの。っていうかさあ、聞きたいのは百之助のことでしょ?」
あんな甘えん坊のハナタレ小僧のどこがいいんだか。宇佐美は吐き捨てるようにそう言った。
「花沢閣下殺しが自分のためじゃなかったって鶴見中尉殿を逆恨みしてさあ! 商売女の子供の分際でッ!」
宇佐美は転がっていた小石を蹴飛ばした。花沢閣下というのは誰だろう。話を遮っていいのか迷っていたら、宇佐美がじいっと顔を覗き込んできた。
「どこまで知ってる?」
「え……お父さんと弟を殺したっていうことしか」
「ふうん? あいつ多分、母上のことも殺してるよ」
「え……」
宇佐美が言うには、尾形は第七師団長であった花沢閣下の息子なのだそうだ。しかし尾形は妾の子であるため花沢の性は名乗れず、ただの一卒の兵士として軍に入隊した。そしてそこには花沢閣下の本妻の息子である花沢勇作少尉がいたと……。尾形の境遇を考えたら同情してしまう。だけど尾形はそういうの、嫌いそうだ。
尾形が入隊したとき、すでに尾形の母親は亡くなっていたらしい。
「母上は頭がおかしくなってたんだって。毎日毎日あんこう鍋しか作らない。昔、花沢閣下がおいしいって言ってくれたから。殺したってのは聞いたわけじゃないから想像だけどね」
「え……」
好物だと思っていたあんこう鍋にそんな話があるなんて知りもしなかった。そもそも尾形は一度だってあんこう鍋が食べたいとは言っていない。あんこう鍋がおふくろの味だといったのは鶴見中尉なのだ。
鶴見中尉はこのことを知っていたのだろうか。
「……宇佐美さんはどうしてそんなこと知ってるんですか?」
「花沢閣下と勇作殿を殺したことなら軍の中で知ってる人は知ってる。母上の頭がどうこうって話は鶴見中尉殿から聞いただけ」
どくんと心臓が跳ねた。鶴見中尉のことが恐ろしい。何なら今この瞬間も、鶴見中尉の手のひらの上で踊らされているだけのような気がしてならない。
「尾形は鶴見中尉のために弟さんやお父さんを殺したってことですか?」
「いや、鶴見中尉殿は勇作殿を殺すなって言ってたんだけどね。えーと……なんだったっけな、確か日露戦争で……」
宇佐美はポキポキと首の骨を鳴らした。
「そうそう『ロシア兵を殺して罪悪感はあるか』って聞いてきたんだよね。僕はないって答えたし百之助もないって言ってた」
両親からの愛の有る無しの差で人間に違いなど生まれない。尾形はそうも言っていたらしい。宇佐美の話だと、尾形は敵兵すら殺さない弟の化けの皮を剥がそうとしていたそうだ。わざわざロシア兵の捕虜を使って、一皮むけば人間みな同じだと証明するために。
「ま、結局それも失敗して清いまま勇作殿は死んだってわけ。百之助はモヤモヤしてんだろうね~」
また涙が出てきそうになるのをグッと堪える。こんなことなら尾形ともっと話をしておけばよかった。聞いたって話してくれるかわからないけど、それで私に何ができるのかもわからないけど、もうやめようってただ抱きしめてあげたかった。
「……どうして、勇作さんを殺しちゃったんでしょう」
「殺せば花沢閣下の愛が自分に向けられると思ったんじゃない? 花沢閣下は見向きもしなかったけどね」
アハハ、と宇佐美が笑う。胸の奥がじくじくとした。宇佐美の話しぶりからして軍の中でも商売女の子供という目で見られていたんじゃないだろうか。生まれなんてどうでもいいからと、尾形に今すぐ言いに行きたい。だけどこうやって生まれを知らなければそんなこと言おうとも思わないのが現実だ。
これ以上勝手に尾形の話を聞いてもいいのかという葛藤はあった。だけど上辺だけしか知らない私だから失敗したのだ。次は尾形を逃がさないためにも、得られる情報は得ておきたい。もし後で本人に怒られでもしたら、そのときは謝って許してもらおう。
「花沢閣下を殺したというのは……」
「鶴見中尉殿は花沢閣下が邪魔だったんだよ。百之助は花沢閣下が死ねば残された自分が担がれると思ってたみたいだけど。で、鶴見中尉殿の真意を知って拗ねてるってわけ」
宇佐美は私を見てにやっと笑った。
「どう? ここまで聞いて。幻滅した? もう好きじゃない?」
なぜ素直に質問に答えてくれるのかと思っていたら、そういうことか。今の宇佐美は尾形のことが憎くて仕方がないのだろう。敬愛する鶴見中尉を困らせる存在として。
「いいえ、誰も尾形のことを愛さないなら私が愛そうと思いました」
アシリパさん、杉元さん、ごめんなさい。尾形のしたことは決して許されることじゃないというのはわかっています。でも、こんな話を聞いて居ても立ってもいられなくなりました。聞かなかったことにもできません。
とうとう堪え切れなくなった涙がつうっと頬を伝っていく。
「……は、つまんない。鶴見中尉殿の言った通りだ」
「鶴見中尉の言った通り……?」
宇佐美の言葉に引っかかりを覚える。しかし宇佐美は「こっちの話」としか答えてくれなかった。
今なら言い切れる。もし本当に鶴見中尉の手のひらの上で踊らされているだけだったとしても構わない。それならそれで最後まで踊りきってやるだけだ。
「でもお前、百之助に殺されるかもしれないよ」
「殺される?」
「勇作殿は百之助のこと『兄様兄様』って慕ってたんだよ。お前が愛したところで百之助には伝わらないかもね」
「……気付いてくれるまで、死にません」
宇佐美は腹を抱えて笑い出した。馬鹿だと思っているのだろう。私も自分でそう思う。優しくしてくれた尾形のことが忘れられなくて、すがりたいだけなのかもしれない。心のどこかで尾形から愛が返ってくるんじゃないかと期待しているのもまた事実なのだ。
「まあいいや。百之助が鶴見中尉殿の前から消えてくれるなら僕は何だっていいし。……お前には無理だと思うけどね」
じゃあね、と宇佐美が去っていく。私も鶴見中尉のところへ行かなければ。
「ほう、私と行動を共にしたいと?」
鶴見中尉は私の話を聞いてそう言った。昨日の今日でどうして気が変わったのかと聞かれもしない。まるでさっきまでの会話が筒抜けていたかのようにすんなりと話が進む。もしかしたら杉元さんが私に告げ口したのだって鶴見中尉の思惑通りなのかもしれないと、改めて目の前の男の恐ろしさを思い知った。
「はい。尾形にもう一度会うなら、鶴見中尉のそばにいるのが一番だと……勝手なことを言っているのはわかっていますが」
「ふ……、ふふふふっ」
鶴見中尉はカタカタと上半身を震わせた。額の被り物の隙間から妙な汁がこぼれ出してきている。鶴見中尉は手拭いでサッとそれを拭き取り「失礼」と何事もなかったかのように話を再開させた。
「君の話はわかった。だが尾形上等兵は樺太だ。いずれその時が来たら、君の力を借りることになるだろう」