ガラスの破片を踏みたくなって03
私が街であんこうを見つけたのは、鶴見中尉から話を聞いて二週間後のことだった。前に声を掛けていた漁師さんがわざわざ海で探してくれていたそうなのだ。
あんこうは漁に出たからといって必ず捕れるものではないらしく、私は深く頭を下げて感謝した。
「まさかここまでしていただけるなんて、本当にありがとうございます」
「いいって、いいって。帰って茨城出身の兵隊さんとやらに食わせてやんな」
「はい!」
「しかしその兵隊さんも幸せモンだね。嬢ちゃんの良い人なのかい?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……大怪我をしたので何かしてあげたいなと思って」
「へえ~、俺なら惚れちまうね!」
漁師さんはガハハと笑って、私もつられて笑顔になった。
さっそくあんこう鍋を作りたいところなのだが、今日の夕食はすでに出来上がっているため明日へ持ち越しだ。それでも尾形にだけは教えておこうと思って私は病室へ向かった。しかしそこには宇佐美がいた。
宇佐美は尾形が横になっている寝台に土足で立っていた。宇佐美は尾形を股の下に怒鳴り散らしている。どうにかしなければと思ったが、宇佐美の迫力に足がすくんでしまう。しかもその怒鳴り声の内容が内容なのだ。
「勇作殿を殺したのにお父上は愛してくれなくて、お父上を殺したのに鶴見中尉殿は代わりに愛してくれなくて、誰もお前を愛してくれる人がいなくて不貞腐れてッ!」
どうしていいかわからなかった。二人に気付かれないように口元を手で覆う。本当なら立ち去ったほうがいいのに、続きを聞きたいという気持ちがわずかに存在したのだ。
「全部鶴見中尉殿のせいだって逆恨みしてんだろッ! わきまえろよ、僕たちは駒なんだぞ」
尾形は何か言い返しているようだった。宇佐美は尾形の口元に耳を近づけている。
あ、と声を上げてしまったのは宇佐美が尾形に剣を突き立てようとしたからだ。だけど尾形が宇佐美の頭を殴った音が大きくて、彼らには気付かれていないようだった。走り去った尾形と床に倒れた宇佐美。どちらへ行くべきか迷って、尾形のほうにした。宇佐美には別の人が声を掛けていたからだ。
尾形は街へ出たようだ。見失わないように必死で走っていたら、いつの間にか行き止まりになっていた。「おい」と後ろから声が掛けられる。
「あ、尾形……」
「何してんだ、こんなとこで」
自分の手が震えているのがわかった。尾形の顔がまともに見られない。
「お、尾形が出ていくのが見えたから……あの、あんこうが買えたから明日は鍋だよって」
「……」
「……それと、ごめん。さっきの話聞いちゃった」
「で?」
「病院に戻ろう。まだ安静にしてなきゃダメだよ」
尾形が逃げていくような気がして彼の服の裾を掴んだ。振り払われこそしなかったが、尾形がこちらについて来てくれる様子はない。
「馬鹿か。俺はもう脱走兵扱いだ。戻ったらどうなるかわからんぞ」
「……軍、辞めたかったの?」
「話聞いてたんじゃねえのか」
「聞いてたけど、意味がわからないところもあったから……」
「俺は戻らん。わかったら帰れ」
「でも、」
尾形が戻れないというのはわかった。だけどこのまま行かせたくもなかった。私が尾形について行きたいというのも違う。「でも」の続きが思いつかない。
「何してるんですか! 早く来てください!」
「ああ、二階堂か」
話していたらもう一人軍人が現れた。話しぶりからして尾形の味方らしい。彼は銃を二丁、それから尾形の分であろう着替えを持っていた。
尾形はチ、と舌打ちして私の腕を引いた。たぶん私は間違えたのだろう。尾形に言われた通り、帰って知らない振りをしておけばよかったのだ。
尾形は場所を移して病院着から軍服へ着替えていた。逃げたら撃ち殺されそうな気がして、私はただじっとしている。
「おい、確かお前の家には猟銃があったな。お前も使えるのか?」
「狩りに使ったことはある……けど、最近はあまり」
「え、女を連れて行くつもりですか?」
すかさず二階堂が抗議の声を上げる。無理もない。頼まれたって人を撃つつもりはないと、ここでハッキリ言えればもっとよかったのだろうが。
「二階堂、お前は銃をもう一丁調達してこい」
不服そうな顔をする二階堂に尾形が何か耳打ちをする。二階堂はしぶしぶといった様子で走って行った。
「私、その……追手が来たって撃ったりできないよ」
「だろうな」
「じゃあどうして?」
「ただの護身用だ」
「私を連れて行くの?」
「軍に戻ったお前が俺たちのことを報告するかもしれんからな。それとも今ここで殺されたいか?」
本当に殺されるかもしれないと感じたのは、さっきの宇佐美との会話を聞いていたからだ。宇佐美をそのまま信じるなら、尾形は父親と勇作という人物を殺している。私が話を聞いたと言っても尾形が否定しようとしないことから、真実味は増すばかりだった。
「……さっきは帰れって言ってくれたじゃない」
「二階堂の顔と名前まで知られたからな。どうする?」
「ついて行く……。けど、もう少し事情を話してほしい」
「後でな」
尾形がそう言ったすぐあと、二階堂が銃を持って戻ってきた。渡された銃はずっしりと重かった。
街を出た私たちは山に入った。尾形によると、仲間が行方不明になっているらしい。まずはアイヌの村に行って事情を知る人間がいないか聞き込みをするそうだ。
二階堂は私を連れて行くことが気に入らないようで、道中何度も目が合った。何か言われることはなかったけれど、あのとき素直に軍に戻っていればと何度も思った。
しばらく歩いていると、アイヌの村が見えてきた。当然のように私も二人に続こうとしたところ、尾形に止められる。
「お前は外で待機していろ」
「……どうして? 逃げるかもしれないよ」
「俺は三百メートル以内なら確実に相手の頭を撃ち抜ける」
「……わかった逃げない。それで、一人になる理由は?」
「何が起こるかわからんからな。ただの保険だ」
なんとなく誤魔化されているような気はした。まさかアイヌの人たちと戦うってわけでもないだろうに。
尾形は外套を脱いで私に被せてきた。
「え?」
「寒いだろう。気休めにしかならんだろうが、ないよりはマシだ」
「ありがとう……?」
「後で返せよ」
何だかうまく丸め込まれてしまったような気がする。私は木の陰に隠れながら尾形と二階堂を見送った。
……遅い。聞き込みをするだけならとっくに戻ってきてもおかしくないのに、尾形も二階堂も家の中から出てこない。
尾形は今も私のことを見ているのだろうか。今なら逃げられるんじゃないかという気持ちになってしまう。ただ、軍に戻ったところで私はどうすればいいのだろう。尾形と二階堂がアイヌの村に行ったと伝えて、二人が殺されるようなことになったら後悔してしまいそうだ。すごく自分勝手な考えだとは思うが、私はどちらの味方もしたくない。
手をさすりながら待っていたら、子供ら数人に連れられた男が来た。男が入っていったのは、尾形たちのいる家だった。
家から出てきたのは尾形と二階堂のほうだった。
「何か手がかりはあった?」
「まあな」
尾形はそう言うなり、銃を構えて撃った。出て来たばかりの家の中を狙ってだ。
「なっ」
なんで、という言葉は二階堂に口を塞がれてかき消されてしまった。二階堂はもう片方の手で双眼鏡を持って、尾形の狙撃が命中したかの確認をしていた。
「外れたようです。手っ取り早くあの場で殺してしまえばよかったのでは?」
「あの場でやれば目撃者も殺さなければならん。バアチャン子の俺にそんなことをさせるな」
尾形は仲間を探していると言っていたはずだ。なのにどうして殺す殺さないの話になっているのか。何も納得できなくて私は二階堂に頭突きをした。
「……っ! この女! やはり殺しておきましょう!」
「いま無駄に発砲するな。お前も静かにしておけ」
「だって、仲間を探してるって言ってたのに」
「その仲間が殺されていた。さっき戻ってきた谷垣という男にな。生かしておくわけにはいかん」
尾形はそのあとも何発か銃を撃っていた。二階堂が外したと言うたびに私はどこかほっとした気持ちになっていた。
「窓から何か捨ててます。囲炉裏の燃えさしをゴザで包んだもののような……煙幕を作って飛び出す気です!」
「……先手を取られた、来い」
尾形は私の腕を引いた。家の裏が見える場所まで回り込むと、壁の一部が壊されているのが見えた。谷垣さんという人が無事に逃げられていたようで密かに安心していたのも束の間、尾形は谷垣さんを追うと言った。
まずは雪に残った足跡を追った。相手は足跡のつきにくい笹薮を通りながら逃げているようだ。谷垣さんという人はかなり山に詳しいらしい。そしてとうとう完全に足跡を見失ってしまった。
二階堂はもう諦めようと言った。
「そうだよ、もう日が暮れるし……。尾形も二階堂さんも軍から離れて遠くで暮らせばいいじゃない」
「玉井伍長が谷垣を説得する上で、残りの造反者の名を出しているかもしれん。そいつらの中にはまだ軍に潜伏しているものだっている。見捨てるのか、二階堂」
「もう俺の知ったことではないですよ。金塊のこともどうだっていいです」
「余計なことまで言うな」
二階堂は気まずそうな顔で私のほうを見た。話は一度打ち切りになり、夜を凌ぐための準備をすることになった。
春とは言え、まだ雪の残る山の中だ。特に備えのない人間が着の身着のままで寝られるような環境ではない。しかし焚き火をするのも居場所が割れるからと、尾形が許さなかった。
「ねえ尾形、話をしてもいい?」
「何だ」
「……えっと、病室の中での話も含めてだけど」
二階堂の前で話していいのか判断がつかず、濁した言い方になってしまった。尾形は私の言いたいことをわかってくれたようで、二階堂に「少し外す」と言った。
「……その女、尾形上等兵が連れてきたって人ですよね。こんなことは言いたくありませんけど、情でも湧いたんですか?」
「だったら何だ?」
「……いいえ」
二階堂は丸めた体をさらに丸くした。口元が少しだけ笑っていたように見えて、不気味だった。
二階堂から少し離れたところで私たちは腰を下ろした。まあ離れたといっても姿が見える程度の距離なのだが。
「変なこと言わないでよ」
「変なこと?」
「情が湧いた、とか……思ってないでしょ」
「俺のためにあんこう鍋を作ろうとしてたんだろ?」
「そう、だけど……ちょっと前まで殺すとか言ってたし。っていうかその話じゃなくて!」
「お前が言い出したんだろうが」
本当にその通りなので何も言い返せない。
尾形はなぜか距離を詰めてきた。互いに暖を取ろうということなのかもしれない。変に意識するとさっきの話に戻ってしまいそうだったため、とりあえず先に本題に入ることにした。
「脱走兵になったって尾形は言ってたけど、私と初めて会ったときは逆の立場だったよね?」
「ああ、あれは別件だ」
「そうなんだ。……宇佐美さんが言ってたことって本当?」
「どのことを指しているのか知らんが、殺したのは間違いない。だがそれを聞いてお前の何になる?」
「誤解だと思いたかったから……」
「なら聞くべきじゃなかったな」
「そのことで鶴見中尉を恨んでるから軍を抜けるってこと?」
「いや……」
尾形は手を擦り合わせた。薄暗いから見えないけれど、手は真っ赤になっているのだろう。
「ごめん、私がこれ貸してもらってるから……」
私は外套を広げて尾形を招き入れようとした。しかし大人二人が入るわけもなく、尾形の体半分も包めない。
「勇作さんっていうのは誰? どうして殺しちゃったの?」
「……腹違いの弟だ。殺したのは、確かめたいことがあったから」
「確かめたいこと?」
「お前、なんでもズケズケ聞いてくるな。俺の機嫌を損ねて殺されるとは思わんのか」
「……死にたくはないけど、それでも仕方ないかなってちょっと思ってる。あとは尾形が意外と話してくれるから」
「怖くないのか? 父と弟を殺した俺のことが」
すぐに言葉が出てこない。なんて言ったら正解なんだろう。というか正解なんてどこにもない気がする。尾形が求めている答えを探して思ってもいないことを言ったって、きっと伝わってしまうはずだ。
「……怖い。でも、さっきおばあちゃん子だからって村の人たちを殺さなかった尾形も知ってるから」
は、と尾形は息を吐いた。そうして私の首元に頭を埋めてくるから、幻覚でも見ているんじゃないかと今度は自分の正気を疑った。
「え」
「寒い」
「うん……」
「罪悪感ってものが存在しない人間がいると思うか?」
「いるかもしれないけど……尾形のこと言ってるなら違うと思うよ」
「それは村の奴らを殺さなかったからって話か?」
「うん」
「殺しときゃ、こんな寒い思いもしなかっただろうに」
なんで殺さなかったんだろうな、と尾形は呟いた。
「罪悪感は一晩じゃ消えないけど、寒いのは今だけだから……。もしかして私が言ったこと根に持ってる?」
「何だ?」
「最初に会ったとき、兵隊さんは罪悪感がないのかなって言ったから。ただの嫌味のつもりだったんだけど」
「……ああ、別に」
ここで会話は途切れてしまった。尾形が離れていく様子がなかったため、私は彼の頭を抱きしめた。同情したのかもしれない。心を開いてくれたような気がして嬉しかったというのもある。
「勇作殿」
身を寄せ合って目を閉じていたら耳元で尾形が呟いた。……寝言のようだ。うなされているわけではないみたいだけど、夢の中で弟の名を呼ぶ尾形を見ていたら胸がきゅうと痛くなった。
そっと気付かれないように尾形の頭を撫でてみる。何とかしてあげたいと思った。してあげたいっておこがましいかもしれないけれど、尾形が迷子の子供みたいで、放っておけないのだ。