ガラスの破片を踏みたくなって20
必死で尾形にしがみついていたら頭上からため息が降ってくる。ゆっくりと顔を上げれば尾形がしかめっ面で私を見下ろしていた。
「何だよその顔」
「これは娼婦の振りして囮になれって……あ、」
そう、私は娼婦の振りをするため化粧をしていた。だけど宇佐美に聞いた尾形の母親の話を思い出したのだ。もし尾形が自分の出自を気にしているのだとしたら、母親を連想させるのはよくないのでは? うつむきながら唇に塗った紅を拭っていると、その手を尾形に掴まれる。
「別に変だとは言ってねえだろ」
「……うん」
腕を掴まれたことはこれまで何度かあった気がするが、今までで一番熱を感じている。自分から抱き着いたくせにと内心で考えながら、私は次の言葉を探した。
「というか何だよ、急に」
「今日は尾形を連れ去りに来ました」
「……いや、全くわからん」
それもそうだ。私たちの最後は網走であり、そこからは私が勝手に尾形の話を聞いてここまで来てしまっただけなのだから。
「宇佐美に何か聞いたか?」
「え」
どうしてわかったのと聞けばチッと舌打ちが返ってくる。尾形は宇佐美に会ったのだろうか。
尾形は私の頬に触れてきた。それが心地よくてぼうっとしていたら、普段よりも大きく開いたうなじに指が触れてぴくりと身体が跳ねる。
「宇佐美に何もされてねえよな?」
「うん……尾形のことたくさん話してくれたよ。この前の宇佐美さんはいつもより優しかったかな。慰めてくれるって言うからお喋りしながら散歩した」
「馬鹿、そりゃ抱かせろって意味だ」
「……そ、そうだったんだ」
はあ、と尾形がため息をつく。いたたまれなくなった私は着物の袖をくしゃりと握り締めた。
沈黙が流れる。何から話せばいいのだろう。宇佐美に何を聞いたのかちゃんと言っておいたほうがいい気もするが、尾形にとっては触れられたくない話題かもしれない。そうやって逃げ道を作るのがいけないとわかっていながらも、いざ尾形を前にすると言葉が出てこないのだ。
「さっき宇佐美に会った。何話したかは大体知ってる」
「……私がどうして尾形を探しに来たのかもわかってたりする?」
「お前、宇佐美の話を真に受けてんのか」
「え……嘘なの?」
「俺が鶴見中尉に愛されなくて拗ねてるって? そんなわけないだろ」
「ええー……そんな、」
話の大前提を覆されて途方にくれそうになる。でも尾形が素直に認めるとは思えないし、尾形自身も気づいてないだけなのかもしれないし……。
「金塊のことも軍のことも忘れて、私と二人で暮らそうって……言いたくて」
「生憎、俺にはまだ確かめなきゃならんことがあるんでね」
「それって何?」
「第七師団長」
いびつな笑みを浮かべながら尾形は言った。
第七師団長……宇佐美に聞いた話を信じるなら尾形のお父さんが就いていた役職だ。尾形に確認したらあっさり頷いた。
「なりたいってこと?」
「俺みたいな欠けた人間だってなれるなら、そんな肩書き価値のないものだろう?」
やっと繋がった気がした。両親からの愛の有る無しの差で人間に違いなど生まれない。人間一皮むけばみな同じ。尾形はかつて勇作さんで証明できなかったことを、今もなお証明しようとしているのだ。第七師団長の座に価値なんてない。自分の父親も大した人間じゃなかったと言いたいのかもしれない。だけど尾形は勘違いしている気がする。尾形が第七師団長になったとして、その地位が無価値だとは思わない。
「鶴見中尉が俺を第七師団長の座まで導くというならそれでいい。そうじゃないなら中央だ。かつて明治政府は金塊の半分と引き換えに北海道の一部をアイヌに委ねるという条約を結んだそうだ。その土地の権利書が北海道のどこかに隠されている。条約をなかったことにしたい政府はアイヌにその権利書が渡るのを畏れて密かに探してるってわけだ」
金塊を探し当てれば権利書の行方もわかるだろうというのが尾形の考えだった。政府に恩を売って昇進するという筋書きなのだろう。
「……むずかしい」
「つまり俺は下りる気はないってことだ」
尾形が一歩踏み出そうとする。また置いて行かれるんじゃないかと思って、私は必至でその腕にしがみついた。
「でも一つだけわかる。尾形が第七師団長になったって、価値がないっていう証明にはならない」
「……どうしてそう思う?」
「尾形は価値のない人間なんかじゃないからッ」
わっと涙が溢れてきた。最近私は泣いてばかりのような気がする。でも全部尾形のせいだ。こんなにも尾形のせいで涙を流してるっていうのに、当の本人には全く効果がない。そう思ったらいっそう泣けてきた。
「欠けた人間ってのは正直わからない。私もどこか欠けてるかもしれないし、むしろどこも欠けてない完璧な人なんていないかもしれないし、尾形のどこが欠けてるかもわからないよ」
「前に言っただろ、俺には罪悪感ってもんがない」
「罪悪感って毎回言うのは、罪悪感があるってことじゃないの? 本当にないならそんなことで悩まないよ……」
「悩んでるわけじゃねえ」
「ごちゃごちゃうるさい!」
私はもう一度尾形に抱き着いた。
「ねえ、もうやめようよ」
尾形が金塊争奪戦を下りるって言うまで離さないつもりだった。だけど尾形に体を引きはがされて、もうダメなんじゃないかと心が冷えていく。
「……泣き止めよ」
「だって、尾形がわかってくれないから……」
「お前が、」
尾形は言葉を切った。何か続きを言おうとしているのはわかる。じっと見上げていたら、尾形はフイと顔を逸らした。
「……お前が、俺を好きってのはわかった」
「ほんと?」
「ははッ、急に嬉しそうな顔しやがる。俺は好きだとも言ってないんだがな?」
「尾形は私のこと好きだよ」
杉元さんから預かった写真を懐から取り出すと、尾形は明らかにうろたえた。
「なんでお前が持ってんだ」
「樺太で大怪我したんでしょ? 病院で着替えさせたときに杉元さんがみつけたって」
「杉元の野郎、勝手なことしやがって……」
「ふふっ」
尾形が写真を奪おうとしてくるので懐に差し込んだ。恨めしそうな目を向けられているが、全く怖くない。
話し込んでいるうちに、外が静かになってきた。そろそろ建物を出たほうがいいかもしれない。しかし尾形の手を引いて階段を下りようとすると「待て」の声が掛かる。下手に姿を見せたら狙撃されるかもしれないということだった。
頭巾ちゃんの存在をここで思い出す。杉元さんは静かに暮らしている分には追いかけないと言ってくれたけど、頭巾ちゃんはどうなのだろう。樺太から日本まで追ってくるくらいの執念なのだ。
「どうしよう……」
「消防団に紛れて脱出する」
どうやって、と尋ねれば防火服を拝借すると尾形は言う。その方法が問題だと言いたいのがわかっているだろうに。
「そうだ、私の着物を着て!」
「は?」
「女の振りをするの。代わりに私が軍服を借りるけど、外套を着て顔を出していれば撃たれる心配はないでしょ?」
「……」
尾形は無言で階段を駆け下りて行った。服を脱ぐ気配は全くない。私も急いで追いかけたけれど、尾形が消防団の人に声を掛けて服を剥ぎ取るまでの手際が良すぎて、私には止めることができなかった。本当にごめんなさい。
身ぐるみを剥がされて怯える男性に頭を下げて、尾形のあとを追いかける。尾形は平気で他人の家の敷地を跨いでいた。
何度謝ったか数えきれない。私も結局そこを通ったから同罪なのだが、尾形があまりにもあっけらかんとしているので腹が立ってくる。
「これで見失っただろ」
「……もうしないでね」
「約束はできんな」
私たちが向かったのは、土方さんが拠点にしていたという寺だった。先に私が中を確認したが、室内には誰もいなかった。すでに土方さんたちは札幌を離れているようだ。
尾形は靴を脱いで床にどさりと座った。近づいてよく見てみると怪我がひどい。顔に付いた血を拭ってあげたら、尾形がわずかに身を引いた。
「痛かった?」
「……いや、」
「これからどこに行こっか」
「……」
「金塊と権利書のこと、まだ諦めてない?」
ぱちりと目が合う。尾形は私の身体を引き寄せて、すっぽりと腕の中に包んだ。
「わからん」
「そっか。今日はもう寝る?」
「……ああ」
「起きたらいなくなってたなんてこと、ないよね?」
「逃げてもどうせお前は追いかけてくるだろ」
「わかってるならいいの」
私たちはぴたりと身体をくっつけたまま横になった。こうしていると、鹿の中で一緒に夜を明かしたことを思い出す。朝起きてそのことを言ってみたら、尾形は谷垣さんを追う雪山で身を寄せ合ったことを思い出していたと言う。なつかしい、なんて言いながら私は尾形の言葉を待った。もう金塊の話をしないのならそれでもいい。だけどそうはいかないだろうというのは心のどこかでわかっていた。