ガラスの破片を踏みたくなって 延長戦03

「してません!」

 尾形は街に出ていた。味噌を買ってくると行ったきり、全く戻ってくる気配のない女を探すためだ。
 いつも買い物をする店まで来てみれば、そこには大きな声で店主と話す女の姿があった。いったい何を話しているのかと、その場で聞き耳を立てる。どうも自分のことらしいとすぐに気づいたのは、女が「尾形」と何度も言うからだ。
 女の惚気話を聞くのはいい気分だった。もとより嬉しいとか恥ずかしいとか口にしない類の人間ではなかったが、他人に話している姿を見るとより真実味が増すものだ。そうして女の惚気を聞かされた店主だったが「そりゃ浮気だ」と断言する。
 怒りなどという感情はなかった。それよりも女がどう答えるのか興味があった。そういう関係じゃありません……まあこれもあり得る。そもそも恋仲でも夫婦でもないなら浮気という定義には当てはまらない。尾形がどこで女を引っ掛けようが、あれには関係ないということになる。ところが女は「してません」と答えた。
 してません……そうか、それでいいのか。にしても何を根拠に。間違っちゃいないからいいのだが。
 気分を良くした尾形は、おもむろに女に近づいて腕を引いた。
「あっ尾形」
「帰るぞ」
 去り際に店主へにこりと笑みを向ける。今回はよくやってくれたと言いたいところだが、これ以上不安を煽るような言動はいただけない。店主は凍り付いたようにぴしゃりと固まっていた。
「迎えに来てくれたの?」
「……帰りが遅かったから」
「ごめん、尾形のこと話してたらつい」
「俺の話かよ」
 さも聞いていなかったというような態度を取ってしまったが、少し欲が湧いた。
「お前は俺が浮気してるとでも思ってんのか?」
 女はサッと顔を赤くしてうつむいた。買ったばかりの味噌を抱きしめながらふるふると首を振っている。
「……聞いてたの?」
「でけえ声で話してるから聞こえてきたんだよ」
――まあ、半分は嘘だがな。
 尾形は人知れず笑いをこらえながら女の腕から味噌を取り上げた。蚊の鳴くような声で「ありがとう」と聞こえてくる。悪くない気分だ。早く家に戻りたい。

 家の戸が閉まるなり、女の身体を引き寄せる。もはや鍋のことなんてどうだってよくなっていた。
「お前、俺にされて嫌なことあるか?」
 女は一瞬ポカンとしていたが、すぐに意味を理解したらしい。真っ赤な顔で力なく首を振る彼女の唇が、とても扇情的だった。
 軽く唇を合わせただけで心臓に電流が走る。そのまま下唇を食んだら、女はぴくりと肩を強張らせた。
――しまった、やりすぎたか……?
 母親を亡くし、男手一つで育てられた女だ。そういう知識があるのか尾形は探り探りだった。何せ宇佐美のからかいにも気付かなかったくらいだ。「抱く」という言葉に照れはあるようだったが、本当に理解しているのかは微妙なところである。
 唇を離せば、目を潤ませながら呼吸を整える女の姿が目に入った。思った通りやりすぎたようだ。かわいそうになって頭を撫でてやると、女は床にへたり込んだ。ずるずると引きずられて自身も腰を下ろすと、今度は向こうから唇を寄せられた。しかし当たったのは口なのか顎なのか微妙な場所だ。思わずフッと声を漏らすと、女が不満そうな顔で見上げてくる。
「怒るなよ。かわいいなって思ってんだ」
「……怒ってない」
「……なあ、もう一回してくれよ」
女は何か言いたそうにしていたが、最終的にはこくりと頷いた。照準をずらさないようにするためか、顔を両手で固定される。あんまり苛めるのもかわいそうだから、目は瞑ってやった。しばらく待っていると、控えめに唇同士がちょんと触れる。
 かわいらしい口付けだ。今度は唇を吸うことはしなかったし、舌も入れなかった。まあ今日はこんなところだろう。
 限界だったのか、女が胸にもたれかかってくる。肩で息をする女を前にごくりと唾を飲み込んだ。なんで口吸いごときでこんなになってんだよ。まあ、自分も人のことを言えたタチではないが。
 しばらくすると、女はふらりと立ち上がって鍋の準備を始めた。女は一度も尾形のほうを見ようとしない。だがそれが余計に尾形をそそらせるのだ。
 あらかたの準備は尾形がしていたため、鍋はすぐに出来上がった。鍋からは味噌のよい香りが漂ってくる。
 お互い無言だった。しかしそれが居心地悪いということもなく、尾形はこの空気を満喫することにした。初々しさというのはいつかなくなるものだ。それまで楽しんでやろうと思うくらいの余裕はあるつもりだった。
 手元ばかり見ていた女がふと顔を上げる。
「ねえ」
「何だ?」
「尾形がずっと私に遠慮してるような気がしてたの。それってこういうこと?」
「ははあ、ようやくわかったか」
「……どうして遠慮してたの?」
そりゃお前が俺のことをどういう目で見てるかわからなかったからだろうが。……と言うのも情けない気がして尾形は口をキュッと結んだ。
「しなくていいのに」
ぼそっと呟かれた言葉に、尾形は心臓を鷲掴みされたような感覚になった。お前、俺が本気を出したらお前みたいなやつなんて……と言ってしまいそうになる。尾形の脳内では欲と良心のせめぎ合いが起こっていた。遠慮しなくていいならいいじゃねえか。いや大事にしてやらんとだめだろう、と。
 出てきたのは深いため息だった。きょとんとした顔で首を傾げる女を前に、尾形は鶏肉をモソモソと咀嚼することしかできなかった。