左様なら、また来世で03
犬を取り戻したなまえたちはさらに北へと進んだ。鯉登少尉のおかげで寝る場所に困ることはほとんどなかった。金払いがいいので食べるものもそれなりだ。だが、そのおかげで狙われてしまったのかもしれない。
「待てコラァ!」
岩息の刺青の写しを入れていた背嚢が置き引きにあった。今は谷垣以外の大人四人でその犯人の少年を追いかけているところだ。
しかしその犯人というのがなかなかの曲者だった。竿を使って建物の屋根に登るわ平気で電線を綱渡りするわで、なまえと犯人の距離は大きくなるばかりだ。
ここで皆を驚かせたのが鯉登少尉である。彼は多少危ういところがありながらも犯人に何とか食らいついていった。
なまえや杉元は犯人を見失ってしまったが、鯉登少尉が銃を鳴らしたおかげで犯人の所属する曲馬団「ヤマダ一座」にたどり着くことができた。犯人はそこの軽業師だったのだ。
「いい加減にしろ鯉登少尉ッ! お前は樺太公演に必要ないぞ!」
「文句があるなら実力で私の芸を凌駕すれば良いだろ」
ぎゃあぎゃあと言い合う男二人を背景になまえは公演で使う小道具に金槌を打ち付けた。樺太公演で杉元の名を轟かせ、アシリパに杉元が生きているということを知らせるという作戦である。ちなみにこれは杉元の発案だ。しかし、曲芸に向いていたのは鯉登少尉のほうだった。座長やその息子からすごいすごいと持ち上げられる鯉登少尉を前に、杉元はこれでは自分が目立たないと焦っているのだ。
「なまえちゃんは公演、出ないの?」
「少しやらせてもらいましたが、私には裏方のほうが向いているようです」
「踊りは?」
「あれは子供がするから良いんですよ」
なまえは少女に混じって踊る男二人の姿を一瞬思い浮かべたが、思い出さなかったことにした。
一方で杉元は、なまえが踊る姿を密かに想像していた。見てみたいと言ったら本人に怒られそうなので、そっと心の中にしまっておく。
なまえは杉元に手拭いを差し出した。偽物の血だとわかってはいるものの、手足にそれが付いたままでいられるのはどうも落ち着かないのだ。
「どうですか? 手ごたえは」
「うーん……俺は痛いとか冷たいとか言ったほうがそれっぽく見えると思うんだけどやめたほうがいいって言われちゃってさあ」
「言いすぎると嘘くさいのかもしれません」
「えー、なまえちゃんもそう思う?」
杉元は座りこんでなまえの手から金槌を取り上げた。そして小道具に次々と釘を打ち付けていく。
「……てっきり邪魔されるのかと」
「そんなことしないって」
「私から仕事を奪わないでください。これしか役に立てないんですから」
何もしないでいるのが心苦しいと思って始めた裏方の仕事だ。手持ち無沙汰になるとどうしていいのかわからなくなる。これは鶴見中尉のもとにいるときもそうだった。
なまえは仕事を終えたらすぐに次の仕事を請うていた。それが自分の居場所を確立させる唯一の方法だと思っていたのだ。鶴見中尉にとっては好都合な存在である。いいように使われているとなまえ自身も自覚はあったが、当然のこととして疑問に思うこともなかった。
杉元はなまえの抗議を無視して公演用の桶を一つ完成させた。きゅっと口を結んで桶を受け取るなまえをかわいいと思う。昔と違ってずいぶん素っ気なくなってしまったが、たまにこういう表情を見るとやっぱり同じだなあと感じるのだ。まあ、これがなまえでなければまた別の感情を抱いていたかもしれないが。
かくして公演は無事に開催された。多少の問題は起きたものの、公演は成功したと言えるだろう。
翌日の新聞の一面は、鯉登の一色であった。杉元の話題はわずか二行である。杉元は悔しくて地面に寝転がってバタバタ泳いだ。
なまえは悔しがる杉元のすぐ隣でしゃがみこんだ。すると杉元は我に返ったのかサッと起き上がる。
「昨日は真剣で腕や足を切ったというのに、元気ですねえ」
「あのくらい平気だよ。俺が不死身の杉元って呼ばれてるのはなまえちゃんだって知ってるでしょ?」
「ええ、よーく知っています」
杉元は首を傾げた。何だか気になる言い方だな、と思ったのだ。しかしなまえは知らん顔で立ち上がり行ってしまった。
座長から得た情報をもとに、次は国境を越えてロシア領の港町を目指すことになった。ひたすら犬ゾリで北上するのだが、一同は途中で悪天候に襲われてしまう。
二組に別れたソリのうち、後続の最後尾を走っていたリュウが突然列から飛び出す。そのたった少しの時間で先を行っていたソリとはぐれてしまった。杉元、谷垣、チカパシ、なまえの四人である。
何度か銃声が聞こえた。はぐれたことに気付いて合図をしてくれているのだろう。谷垣もそれに応えるように銃を撃った。だがすぐに猛吹雪の音で何も聞こえなくなり、諦めて風をよけられる場所を探すことになった。
杉元たちは海岸に行きついた。このままでは死んでしまうと穴を掘る。だが、凍っているせいで深く掘ることができない。
谷垣はソリを壊して火を点けた。土に埋めて燃やせば長く暖まれるというマタギの知恵である。
四人で身を寄せ合いながら横になり、その上から犬を乗せて暖を取る。なまえがちらりと横を向けば、杉元とすぐ近くで目が合った。
「なまえちゃん、大丈夫?」
「他人の心配をしている場合ですか」
憎まれ口を叩きながらも、なまえは杉元の胸に顔を押し付けた。ぎゅうと抱き寄せてくる腕におそらく他意はない。そしてなまえの行動もまた、暖を取るためのものなのだ。
「寒い穴の中にいると塹壕を思い出すな」
「……そうですね」
谷垣のつぶやきになまえが反応する。少しどころかずいぶん遅れて杉元が「えっ」と声を上げた。
「なまえちゃん、戦争行ったの?」
杉元の問いになまえは答えなかった。遠くでチラチラと光が瞬いているのに気付いてそれどころではなかったのだ。
谷垣がチカパシを抱え、あとは全員でひたすら走る。しばらくすると燈台が見えてきた。
なまえは差し出された杉元の手を力強く握った。生き延びようと言われている気がした。あのときもそうだったなと、なまえは203高地でのことを思い出していた。