ガラスの破片を踏みたくなって04
夜が明けてすぐに焚き火の煙が目に入った。一晩寒い思いをしたというのもあって、もくもくと上がるそれに羨ましいという気持ちが芽生える。追われている人間が焚き火なんてするだろうかという疑問はあったが、無視はできないので調べることになった。
焚き火の周りに人はいないようだった。ただ近くに鹿が倒れているらしい。
尾形が命じて二階堂が焚き火を調べに行った。尾形は銃を構えている。
「お前は反対側に回り込め。人を見つけたら右手を上げて合図しろ。お前は顔が割れていないから警戒されてないはずだ」
「アイヌの村に連れて行ってくれなかった理由がそれ?」
「まあな」
「……谷垣さんを撃つのには賛成してない」
「まだそんなことを言っているのか。俺たちは命がけでやっているんだぞ。人を殺すのはそんなに悪か?」
戦争ですでに何人もの敵を殺したと尾形が言う。戦争なら、と私も思ってしまった。だって父も日露戦争に行ったのだ。そこでもし敵を殺すことを躊躇して戦死したのだとしたら、その場にいる全員を殺してでも帰ってきてほしかったと思う。でも本当に殺せなくて亡くなったのだとしたら、私はそんな父を誇りに思う。矛盾しているのはわかっているけど、それが素直な気持ちなのだ。
「わからない……私が男に生まれて戦争に行っていたら、違ったのかな」
「……わかった。お前は撃たなくていいし合図もしなくていい。だが二人だと目立つから離れたところにいろ」
「ごめんなさい……」
ここで尾形を止めないのは谷垣さんを殺すことを容認したも同然だ。尾形に反論する言葉も見出せず、けれど自分の手を汚さないため協力することもしなかった。最低だな、と自己嫌悪しながら私は尾形から距離を取った。
私はぐるりと迂回して、二階堂を挟んで尾形と向き合う形となった。二階堂の近くには今のところ誰も現れていない。
焚き火に手をかざす二階堂が羨ましい。なんて思っていたら、二階堂の死角に恐ろしいものを見つける。いつの間にかヒグマが接近していたのだ。
「二階堂さんッ!」
急いで銃のボルトを操作して薬室に弾を送り込んだ。けれど撃てる状態になったときにはすでに、二階堂はヒグマに頭を殴られてしまっていた。
無我夢中だった。私の撃った弾はヒグマの背中に命中した。私が撃つ直前に尾形も引き金を引いていたようで、しかしそれでもヒグマは倒れない。ヒグマの唸るような鳴き声が辺りに響き渡る。ヒグマは死にこそしなかったものの、山の奥へと逃げていった。
当たってよかった。二階堂は無事だろうか。倒れたままの彼に近づこうとした瞬間、頬に衝撃が走った。
私は雪の上に仰向けに倒れていた。何が起こったのかすぐには理解できなかった。チリチリと痛む右頬に手を当ててみれば、ぬるりとした感触が。これは血だ。そういえば、銃声が鳴っていた。私は撃たれたのだ。……誰に? 尾形では、ないと思いたい。
痛みに耐えながらなんとか上半身だけ起こすと、ちょうど尾形が目に入った。尾形が私とは別方向に銃を構えているのを見て、そんな場合でもないのにほっとする。尾形は複数と交戦しているようだった。
だんだん遠ざかっていく尾形と一瞬だけ目が合ったような気がした。この状況じゃ無理だってわかる。なのに助けに来てくれないんだなって理解した瞬間、体の力が抜けて私は再び雪の上に倒れこんでしまった。
「気付いたか!」
なぜか私は追っていたはずの谷垣さんに顔を覗き込まれていた。それに暖かい。よく見たらここは室内で、気を失っていたのだと気付いた。部屋の中には谷垣さんのほかにアイヌらしき服装の人もいる。
「あの……?」
「山で倒れているのを見つけてここまで運んだ。手当ては村の者たちが」
「……ありがとうございます」
「お前の近くに落ちていた銃は軍のもののはずだ。お前は何者だ?」
何者。谷垣さんの言葉をただ反復する。私はその答えを持ち合わせていなかった。だから銃のことについてだけ話した。尾形に渡されたものだと。
「お前は尾形の仲間なのか?」
「いえ……病院で宇佐美さんという方と揉めている尾形を見て、後を追いかけたらなんというか」
ああ、と谷垣さんは頷いた。谷垣さんも一応、尾形が連れてきた女として私のことを認識していたらしい。ただすぐに思い出せなかったようだ。
「尾形がどうなったか知ってますか?」
「俺の撃った弾が腹に命中した。仕留めたと思ったんだが、軍に追われて逃げて行った」
尾形は反乱分子を炙り出すため泳がされていたそうだ。尾行されたのは私がいたせいかもしれない。谷垣さんによると、私を撃ったのは尾形を追っていた軍人の三島という人らしい。そしてその人は、尾形が狙撃して亡くなったそうだ。
「軍は私を見逃したんですか?」
「いや、単に三島しかお前の存在に気付いていなかったんだろう」
谷垣さんの視線がちらりと動く。さっきからずっとそうだ。視線の先に触れてみて、ああと納得する。
「……傷は残るだろうな」
谷垣さんは心苦しそうに言った。私の顔に傷が残るからって、谷垣さんには何も関係ないはずなのに。優しい人なんだなというのがひしひしと伝わってくる。
「大丈夫です。私、かなり危ういことをしていた自覚はあるので」
軍から脱走した尾形と一緒にいるのがよくないことだというのは理解していたつもりだ。そして今もまだ尾形のことを考えている自分がいる。べつに尾形が私を必要としているなんてことはないと思うけど、やっぱりあの夜の話が気になってしまうのだ。
「尾形がどこに向かったか知りませんか?」
「まさか追うつもりか?」
「はい」
「やめておけ。……これは俺の想像だが、尾形上等兵はお前を弾避けにしようとしたんじゃないのか?」
「……え?」
思いもよらない方向の話に頭が真っ白になる。弾避け……。谷垣さんはさらに続けた。
「狙撃兵はむやみに発砲しない。相手に位置が割れるからだ。もしお前がヒグマを撃つのがあと一秒でも早かったら俺はお前を殺していたかもしれん」
「で、でも……尾形は谷垣さんが銃を持っているなんて知らなかったはずです」
「確かにそうだ。だがお前に銃を持たせたことに何らかの意味があるんじゃないか?」
「……尾形は護身用だって言ってました」
「銃を持っていればそれだけで警戒される。しかもその銃は軍から盗んだものだ」
そんなはずはないと願いながらも、谷垣さんの言葉を真っ向から否定することもできなかった。わからない。だって親や弟をも殺している人だ。なんで、こんな、最低なこと……。ほんの少し前までは心を開いてくれたみたいで嬉しいと思っていたはずなのに、その脅威が自分に向けられたのかもしれないと思うと耐えられない。
「……すまん。きつい言い方をした。怪我のこともある、今日は休め」
「すみません……」
横になって目を閉じるとじわりと涙があふれてきた。これは罰なのかもしれない。尾形が言っていたことが事実だったとして、それを「心を開いてくれたのかも」なんていい気になっていたから。
もう一度尾形に会って確かめたい。だけど谷垣さんの言う通りだったらと思うと怖い。ぐすんと鼻をすすっていたら、村の子供が頭を撫でてくれた。この子みたいな純粋な心だったら何か違っただろうか。堂々巡りの問いに答えは出ず、私はいつの間にか意識を飛ばしていた。