左様なら、また来世で04

 燈台の中では鯉登少尉が茶菓子を楽しんでいた。杉元たちは呆然としながらも、暖まるためにペチカというロシア式の暖炉の上でぎゅうぎゅうになった。下から三人を見上げるなまえに杉元は「暖かいよ」と声を掛けた。
「それはよかったです。命拾いをしましたね」
 杉元はペチカの上から飛び降りて手袋を外した。そうして暖まった手をなまえの真っ赤な頬に持っていく。
「な、何ですか」
「寒いかなと思って。それよりさっきの話なんだけど」
「ああ、日露戦争ですか? 行きましたよ」
 あっさり答えるなまえを前に杉元は言葉を失った。その反応が面白くてなまえはうっすらと笑みを浮かべる。昔話をしたくなった。杉元がどんな反応をするか、もっと見たくなったのだ。

「ここで死ぬんだと思っていました」
 あのとき、なまえのすぐ目の前まで敵が迫っていた。だが突然、相手の顔が真っ二つに割れたのだ。
「一人の男が次々とロシア兵を倒していくんです。『殺してみろ』と叫びながら、まるで鬼神のように」
「え、それって……」
「おかげで死に損ないましたよ」
 杉元はまたも言葉を失った。ただの憎まれ口とも受け取れるが、なまえの言い方は何か引っかかることが多い。「冗談ですよ」にこりと笑う彼女がなぜか痛々しく見えた。
「なまえちゃんは鶴見中尉に恩を返してるって言ったけど、それって俺にはしてくれないの?」
「え?」
「鶴見中尉への恩返しはいつまでするの? 今の話だと俺もなまえちゃんの命を助けたってことになるよね」
「ええ、まあ……」
 なまえは視線を彷徨わせた。鯉登少尉や月島軍曹と目が合うが、フイと顔を背けられる。
「……私に何を望みますか?」
「い、いや、俺はなまえちゃんに何かしてほしいとかじゃなくて……」
 杉元としては鶴見中尉のもとからただ離れさせたいという一心だった。しかしなまえの気持ちも確認せず早計だったかもしれないと、数秒遅れで冷静になる。
「ごめん。なんか無理してるように見えたから……」
「無理? 私がですか? まさか!」
 なまえは一歩、後ずさった。自分でも驚くほど早口だった。何をムキになっているのか。とにかく杉元にこれ以上近づかれたくなくて必死だった。
 パチリと暖炉が音を立てる。いつの間にか寒かったことさえ忘れていた。
「鶴見中尉に恩を返し終わったらでいいからさ、俺とゆっくりおいしいものでも食べようよ」
「……考えておきます」
 なまえはうつむいた。杉元がすんなり引いたことに落胆している自分に気付いてしまった。彼にどうしてほしいというのだろう。自分の知らない内面を暴かれたくない。……だけど諦められたくない。頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、なまえは毛布にくるまった。

 それから杉元はより一層なまえを気にかけるようになった。
 食事中は「ちゃんと食べてる?」犬ゾリが揺れれば「大丈夫だった?」とんだ世話焼きである。
 だんだん杉元に絆されてきているなとなまえも自覚はしていた。だが、肝心の記憶は戻らない。これまで必要ないと思っていたものが欲しくなると同時に、もどかしさを覚えた。
 しかし亜港でアシパと合流して、なまえは多少の冷静さを取り戻していた。杉元とアシパの絆を目の当たりにしたのである。そこに自分の居場所はないように見えた。

 鶴見中尉とは大泊で合流する手筈になっていた。迎えの船が来る日の早朝、なまえは杉元が一人で宿を出て行くのを見かけた。気になって後を追うと、白石と話している杉元の姿をみつける。白石は赤ら顔で女に寄りかかっていた。朝まで飲んでいたのだろう。
「おまえさあ~、惚れた未亡人にカネ渡すのはどうなったんだよ!」
 なまえは咄嗟に建物の陰に隠れた。ズキンと頭に痛みが走る。
 未亡人、惚れた……。なまえはその場にうずくまるように座り込んだ。すでに白石たちの会話は耳に入っていない。
 思考が支配されたような心地だった。ではいったい何に支配されているのか。なまえはその答えを持ち合わせていなかった。しかしこの感覚には覚えがある。……それはいつだった? 少なくとも、鶴見中尉に拾われてからの話ではない。
 ドクドクと心臓が鳴っている。恐ろしい何かが、近づいてくるような気がした。
「え、なまえちゃん? どうしたの、大丈夫?」
 パッとなまえが顔を上げる。
「さ、」
――佐一ちゃん……。
 なまえは言葉を飲み込んだ。まるで何事もなかったかのように立ち上がってにこりと笑う。本当はまっすぐ立っているのさえ辛かったが、杉元に勘付かれるわけにはいかなかった。
 思い出した、全部。杉元佐一……梅子と寅次と、四人でいつも日が暮れるまで遊んだものだ。杉元も寅次も梅子のことが好きだった。そして梅子となまえも……。
「すみません、少し眩暈が。ご心配をお掛けしました」
「ほんとに大丈夫?」
「ええ」
 なまえは杉元と一緒に宿に戻った。ご丁寧に部屋の前までの送ってくれる。そうだ、杉元は昔から「誰にでも」優しかった。

 しばらく部屋で休んでいたら、駆逐艦が到着したと連絡が入った。
 なまえにとってはほとんど見知った顔の出迎えだった。それなのにどこか居心地の悪さを感じる。
 鶴見中尉はねぎらいの言葉を述べたあと、すぐアシパに声を掛けた。
 これで任務は完了のはずだった。ところが、アシパは杉元とともに逃げ出した。
 なまえはすぐさま二人を追いかけた。もちろん鶴見中尉の命令である。
 途中で鯉登少尉が刺されたというのを聞いた。しかし、止まる理由にはならない。
「杉元一等卒!」
 血だらけになった杉元は、まるで手負いの獣のようだった。203高地……あのときなまえは彼の背中を見ていた。しかし今は……。
 なまえは杉元に斬りかかった。もちろん本気である。しかし杉元はなまえの攻撃を難なく受け止めた。
「なまえちゃん、待って!」
「残念です。鶴見中尉を裏切るとは、なんと愚かな!」
「なまえちゃんも俺たちと一緒に行こう!」
「今さらどこへ行けと!」
 杉元はなまえの銃剣を腕で受け止め、彼女の脇腹を刺した。彼女がもう片方の手に拳銃を持っているのに気付いたから、そうせざるを得なかったのだ。
 杉元は戦争を生き抜いた人間である。相手が本気で自分を殺そうとしているのかわかってしまうのだ。
 それでも杉元は致命傷にならないよう手加減していた。なまえは幼馴染なのだ。記憶を取り戻してくれさえすれば、また一緒にいられると思っていた。
 脇腹を押さえるなまえを背に、杉元はアシパに手を引かれて走る。
 なまえは銃剣で体を支えながら一歩、また一歩と歩いた。幸い今なら誰にも見られていない。
 もう疲れた。本当は戦争なんて行きたくなかった。人を殺すのも嫌だった。203高地で死んでしまいたかった。あのとき杉元が余計なことをしてくれたからこんなことになったのだ。……嘘。「無理してるように見える」と杉元に言われて、本当は――。
 なまえの目の前には海が広がっていた。

 樺太の海は青くて、広くて、それから……冷たかった。