どうか思い出さないで01
なまえには前世の記憶がある。中学で授業を受けているときに突如、頭の中に溢れ出してきたのである。もちろんなまえの頭は追いつかず、その場で倒れてしまった。救急車に乗ったのは初めてだった。
それから約十年。十年も経てば前世の記憶で悩むこともなくなった。むしろ自分の一部とさえ感じている。しかし明治時代を生きた自分はなかなか不器用だったなあと、他人事のように考えてしまう部分もあった。
なまえが前世の記憶を受け入れることにしたとき、一つ決めたことがあった。……今度は好きなように生きよう。
北海道支社への正式な転勤辞令が下ったのはつい二週間前のことだった。まだ殺風景な新居のベッドの上でごろんと横になる。北海道の景色はすっかり変わってしまっていた。……まあ、それは北海道に限った話ではないのだが。
記憶が戻ってからというもの、たまに前世での知り合いに会うことがあった。しかし、今のところ誰からもそのような話は聞かない。それはなまえも同じで「前世の記憶がありますか」なんて、とても初対面の人間に投げかける言葉ではないと思っていた。
ところが北海道に来て、杉元をみつけてしまった。なまえは悩んだ。そして思い出したのだ。今度は好きに生きようと決めたじゃないか、と。
何もずっと杉元のことを思って生きていたわけじゃない。だが、顔を見た途端に好きだという気持ちが溢れ出てきた。ただの前世の後悔なのかもしれない。ダメだったらそれでもいいと、なまえは杉元に近づいた。
「杉元佐一さんですか? 好きです、付き合ってください」
杉元はぽかんとした顔をしていた。彼に前世の記憶がないのだとすぐにわかった。
「すみません、どこかでお会いしましたっけ」
悲しくはなかった。彼が自分よりも梅子を好きだったことを忘れているなら、そのほうがいいと思ったのだ。
「……いいえ、初めてお会いしました」
しかしこれからどうするか、なまえは何も考えていなかった。前世で伝えられなかったから勢いのまま言っただけ。冷静に考えてみれば、いい返事が返ってくるわけもない。
「えーと……ごめん。このあと人と約束してるから」
「そうですか。お忙しいところ失礼しました」
早足でその場を去る杉元の背中を見送りながら、なまえはため息をついた。これで前世にケリをつけたということになるだろうか。好きに生きたってすべてが自分の思い通りになるわけじゃないと、当たり前のことを今さらながら実感した。
なまえはその足でスーパーに向かった。食材から日用品まで、一通りの買い足しをして家に帰ろうとしたところ、スーパーの出口で杉元に出くわす。彼は今来たところのようで、気まずそうな顔をしていた。約束があると言った手前、一人でいるのがまずいと思ったのだろう。あれが断り文句だというのは最初からわかっていた。なまえは杉元に気付かなかった振りをして外に出た。
(あの子、なんだったんだろうな)
大きな買い物袋を提げて歩いていく女の姿をちらりと横目で見ながら、杉元は買い物カゴをとった。ただのナンパ、あるいはストーカー。彼女はどちらとも違うように思えた。名前を知られていたことは気味が悪いが、万一のときは警察にでも連絡すればいいと、杉元は楽観的に考えていた。
しかしその数日後、二人は再会した。二人は同じ会社に勤めていたのである。
先に気付いたのは杉元だった。だから名前を知られていたのか、と間違った納得をする。
どうしたものかと杉元が迷っていたら、彼女と目が合った。
「お疲れ様です」
「お、お疲れ様です……?」
ええっそれだけなの? 杉元は思った。……いや、彼女にどんな反応を求めていたというのだろう。外回りから戻った営業に「お疲れ様」と声を掛けるのは普通のことだ。しかしあの日のことが夢だったんじゃないかと思うほど彼女は堂々としていた。もはや自分のほうが意識しているんじゃないか。そう思うとなんとなく面白くない。
杉元の予想に反してなまえは焦っていた。まさか同じ会社だったなんて。それを知っていたらあんなナンパまがいのことはしなかった。
なまえは悩んだ。早くしないと杉元が行ってしまう。
「……お昼、もしまだならご一緒しませんか」
不思議と告白するよりも緊張した。杉元の返事を待つあいだ、なまえはぎゅっと手を握り締めていた。
「いいよ」
「え……」
なまえの目がパッと開かれる。それは杉元から見てもかわいいと思えるものだった。
財布を取りに行った彼女の後ろ姿を見ながら杉元は頭を掻いた。落ち着いていて大人びていると思ったら、突然あんな顔をするのだ。
二人は会社近くの定食屋に行った。値段は安いが美味いと評判の店だ。
なまえは最初から最後まで緊張していた。緊張しすぎて一度、箸を床に落としてしまうくらいだった。頼んだサバの味噌煮もノドに詰まらせそうになるし、本当に最悪だった。だから帰り道で杉元に「付き合う?」と聞かれたとき、これは夢だと疑わなかった。
「この前の返事なんだけど……まだ有効かな」
「ゆ……え、ですが……」
「いや、俺も最初は怪しんでたっていうかびっくりしたけど……まあ身元もわかったし、俺も彼女いないし……」
「い、いいんですか?」
「なんか、かわいいなって」
なまえは急激に熱くなる自分の身体に戸惑いを隠せなかった。自分がこんな風になるなんて知らなかった。
「あの、よろしくお願いします……」
「こちらこそよろしくね」
二人の交際は順調だった。休みの日には買い物や映画を楽しみ、互いの家に行き来するようにもなった。どこからどう見ても幸せな恋人同士に見えただろう。しかし、ふとなまえの胸に不安の影が差す。
――杉元が梅子のことを思い出したらどうなるのだろう。
たかが前世、されど前世。現になまえは杉元を見た瞬間、好きだという気持ちを抑えられなくなった。言ってしまえば明治時代にただ片思いしていただけの相手だ。だが杉元はどうだろう。そもそも杉元はあのあと、梅子と一緒になったのだろうか。
考えれば考えるほど、なまえは寝不足になっていった。どうする、探りを入れてみるべきか。だが下手に梅子の名前を出して失敗したら、取り返しのつかないことになってしまう。
杉元の家のソファの上で二人並んでドラマの配信を一気見していたときのことだ。一話終わった区切りのいいところで、なまえが切り出す。
「……杉元さんの初恋っていつでした?」
ちょうどそういう内容のドラマだったのだ。それにかこつけて、さりげなく聞いたつもりだった。しかし杉元からしてみれば、明らかに挙動不審であった。
さてどうしたものかと杉元は考える。浮気を疑われているのだろうか。なまえは何かに怯えているように見えた。ここ最近、ずっとそうだ。気のせいかもしれないと思って様子を見ていたが、彼女に何か言えないことがあるのは明白だった。
「聞きたくないって顔してる」
「いえ、その……」
「俺、浮気とかしてないよ?」
「そんな、疑ってません」
「最近ちゃんと寝てないよね?」
杉元はなまえの目の下にある薄いクマを親指でなぞった。無防備にされるがままのなまえは、最初に会ったときと正反対の印象だ。だが、何に悩んでいるのか見当がつかない。浮気でないとしたら、仕事のことだろうか。
「何か悩みがあるなら聞くよ?」
「……杉元さん、モテるんだろうなって思って。だからどんな子が好きなのか気になったんです」
ええ~、と杉元は不満を顔に出した。
「俺、なまえさんのこと好きなんだけどなあ」
「私も、好きです」
なまえは杉元の厚い身体に抱きしめられた。だが不安はいっこうに消えてくれなかった。
それから一週間後の休日、なまえは一人で外を歩いていた。ただの気分転換だった。しかし向かいから歩いてくる学生服の少女を見て思わず足が止まる。目が合って、相手も「あっ」という顔をした。なまえは確信した。彼女――アシリパには、前世の記憶がある。