ガラスの破片を踏みたくなって08
樺戸監獄までもうすぐというところだが、私たちは近くにあったアイヌの村に寄っていた。ここにはアシリパさんも初めて来たそうだ。
今回はやけに杉元さんが張り切っていたので、彼にならってアイヌの作法を学んだ。
退屈だったのか尾形は蝶をぼんやりと眺めている。だけどいざ家の中に入ることになれば、杉元さんの教えの通り手をつなぐし腰を低くするしで協力的ではあった。
実は先ほどから気になっていることがある。アシリパさんの様子がおかしいのだ。家の外で小熊のオリを見てからのような気がするけれど、人の目があって何となく声を掛けづらい。
「ムシオンカミ」
突然アシリパさんが放った言葉に一同はポカンとした。そして一人の女性がプッと吹き出して笑う。だがそれを遮るように村長の息子さんが口を開いた。
「この子はどうしてあんたらと一緒にいるんだ?」
「ちょっと駄賃をやって案内をさせてるんだ。俺たちはこうやってアイヌの村にも滞在したりするんでね」
さすがに金塊のことは話さないらしく、杉元さんは当たり障りのない理由を答えていた。相手も納得しているようで、それから話題は向こうの家族のことに変わった。しかし、
「オソマ行ってくる!」
またもアシリパさんだった。いつもなら絶対にこんなことは言わない。杉元さんに止められていたけど、それでも彼女は我慢できないと言って出て行ってしまった。アシリパさんを一人にしていいのかという思いから、私もそれに続こうとした。
「わ、私も!」
「え」という目線がいっせいに私に向けられる。正直すごく恥ずかしい。だってオソマってウンコのことなのだ。だけどアシリパさんのことを考えたら四の五の言っていられない。何か言われる前に家を出ようとしたところ、尾形に右腕を引っ張られた。
「お前は我慢できるだろ」
「う……」
言い返すこともできず、私はしぶしぶと腰を下ろした。これじゃあただ恥をかいただけじゃないか。と思っていたら、尾形に耳打ちをされる。
「絶対に銃から目を離すなよ」
……よかった。尾形も異変に気付いていたのだ。それならさっきの私の異様な言動にも裏があるとわかってくれているだろう。だけどここからどうすべきか、一人になってしまったアシリパさんのことを考えたら安心してばかりではいられない。
アシリパさんが迷子にならないようにと、村長の息子さんは一人案内を出した。今までの嫌な空気がもし本物だったら非常にまずい気がする。どうするつもりなのか。私は尾形の服を後ろからギュッと握った。
「ムシオンカミってどういう意味だ?」
尾形の疑問にすぐに答えは得られなかった。「もしかして分からんのか」と、尾形は続ける。
「ムシオンカミはちょっと聞いたことがない。さっきの娘はこの辺のコタンの子か? アイヌにも方言がある」
確かに、と杉元さんが頷く。杉元さんはこの人たちのことを疑ったりはしていないようだった。
「こいつら本当にアイヌか?」
「一体何を疑ってるんだ尾形! 失礼にもほどがあるぞ!」
その後も尾形と杉元さんの言い争いは続いた。そして私たちの疑いを裏付けるかのように、アイヌの女性が何か叫ぶ。女性と村長さんたち男性の間に不穏な空気が流れた。
このままでは埒が明かないと思ったのか、杉元さんがあるものを取り出す。先端が三つに分かれた棒のようなものは、見慣れない形をしていた。杉元さんによると、これはアイヌの中では一般的な道具らしい。この妙な棒の正しい使い方を示してくれれば疑う余地はないということだった。
杉元さんは最初に棒をなぜか牛山さんに渡した。当然牛山さんは使い方を知らないようで、背中を掻くのに使っている。杉元さん曰く、全然違うとのことだ。
杉元さんは次に村長さんを指名した。棒をじっと見つめる村長さんに「早くやってくれ」と尾形が急かす。
村長さんは棒を椅子のように使った。すかさず全員が杉元さんを見る。もはやこれは杉元さん以外、誰も正解を知らない証明になってしまったような気もする。だけど肝心の杉元さんは「そういう使い方もあるのか」と感心していた。
「もういい俺によこせ。正しい使い方を当ててやる」
「尾形に分かるかなあ~?」
尾形は初めて見るような笑みで杉元さんから棒を受け取っていた。しかし受け取るなり真顔でその先端を村長さんの足の小指に打ち付けた。
「痛たあっ!」
この叫び声を聞いて牛山さんもおかしいと気付いたようだ。今まで日本語を話せないような素振りだったのに、とっさに出たのが日本語だったのだから。
しかし未だ杉元さんはここの人たちを信じているようだった。
「何てことするんだ尾形ッ。そもそもこの人たちがアイヌの振りをして何の得があるって言うんだよ、いい加減にしろッ!」
「そうだな俺もぜひそこが知りたいね。聞きたいこともあったんだ。ちょうど戻ってきたそこの……」
尾形はちらっと家の入口のほうを見た。アシリパさんを案内すると出て行った男の人が戻ってきていたのだ。
彼とアシリパさんが一緒じゃないことに杉元さんは疑問を持ったらしい。アシリパさんはどうしたのかと尋ねている。
「弟が言うにはあの娘は近所の女性に刺繍を教わって夢中になっているそうだ。まあこんなところは子供に見せないほうがいいだろう」
村長の息子が言い終わるか終わらないかのところで、杉元さんがあの妙な棒で戻ってきた男の顔を殴った。ベキンとすごい音がして、棒も勢いのまま折れてしまっている。
「アシリパさんが刺繍に夢中だあ? てめえ……あの子をどこへやった?」
杉元さんが殴った男が倒れた際に、着物の裾がめくれ上がって足の刺青が見えていた。尾形は得意気な顔でその男を見下ろして言う。
「そうそうさっきも出て行くときにちらっと足首に見えた気がしたんだよな。ヤクザがアイヌのふりか」
杉元さんの怒号は村全体に響いたんじゃないかと思うほど大きかった。私は尾形に言われたことを思い出し、自分の銃に飛びつく。男が銃を狙って私に包丁を振りかざしたけれど、牛山さんが男を投げ飛ばしてくれたおかげで切られることはなかった。
銃を手にした杉元さんと牛山さんが外へ出ていく。尾形は窓から二人を援護していた。私は銃を抱えたまま家の隅でじっとしていたけれど、尾形の背後に斧を持った男が近づいているのを見て、とっさに体が動いた。
「尾形、後ろ!」
尾形は振り返らなかった。どうして。聞こえてないはずないのに。
「やめてっ!」
銃を放り投げて男の腰にしがみつく。よろけた男ともども私は床に倒れこんだ。尾形に怪我はないようだ。しかし激昂した男が斧を振りかざしたのを見た瞬間、私は怖くなって目を閉じてしまった。
ダン、と銃声がとびきり大きく聞こえた。恐る恐る目を開けば、絶命した男が目に入る。そしてにやりと笑う尾形が私たちのことを見下ろしていた。
「……尾形?」
気のせいであってほしい。だけど尾形はわざと私の声を無視したように見えた。あの瞬間はわからなかったが、「撃て」ということだったんじゃないかと今は思うのだ。
「銃から目を離すなと言っただろう」
「あ……ごめんなさい」
床に投げ捨てられた銃に手を伸ばす。拾う瞬間、手が震えてしまった。
「俺が殺されかけたとしても人は撃っちゃくれんのか」
「だって、私……下手くそなんだよ! もしかしたら尾形に当たってたかもしれないし!」
「ああ、そうだったか」
平坦な声だった。怒りや悲しみも……何も感じられないような声だ。だけど私の言い訳を見透かされている気がした。
「……ごめん。本当は撃ちたくないって思った。もし尾形が殺されてたら、ずっと後悔したんだと思う」
「まあ俺が死ぬ前にお前が殺されてただろうがな」
「うん……。ごめんね、私のために一人殺させて」
「……なんで俺が人を殺してお前が謝るんだよ」
「だって私がしたくないことを代わりに尾形にさせたんだよ」
「……ああ、別に」
尾形はそう言って銃を下ろした。どうしたのかと思って外を見てみると、村の男たちが全員倒れていたのだ。
アイヌに成りすましていた囚人はほとんど杉元さんによって殺されていた。かろうじて生きているのが村長を名乗っていた男だ。一人だけ逃げようとしていたところをオリから抜け出した熊に襲われたらしい。熊は牛山さんが投げ飛ばして追い払ってくれたそうだ。
女性たちは男に脅されて妻の振りをしていたということだった。全員で手分けして死んだ囚人たちの埋葬をする。その中には探していたはずの熊岸長庵の遺体もあった。これで贋作を見分けるためのアテがなくなってしまったかと思いきや、アシリパさんと杉元さんは最後に少しだけ話せたそうだ。本物を凌駕してやろうという「こだわり」が何かあるかもしれない。という話だったとアシリパさんは言った。
埋葬が終わるとコタンの女性たちがごちそうを振舞ってくれた。そして出発の前に、村長に化けていた男……鈴川聖弘の処遇を決めなければならない。彼は金塊の暗号を背中に掘られた網走の脱獄犯だったのだ。
村の女性たちはもう関わりたくないと言っている。それならば殺して皮を剥いでしまおうというのが尾形だ。一方でアシリパさんはこの旅が始まったときから一貫して殺しを良しとしていない。
私もアシリパさんと同じ意見で殺すことには反対だった。しかしこの村に置いていくというのも不安だ。意見が割れる中で声を上げたのは、鈴川本人だった。
「網走から脱走した他の囚人の情報がある」おそらく心から信頼した人はいなかったんじゃないだろうか。もともと鈴川は詐欺で捕まっていたそうなのだ。
「時間稼ぎの嘘かもよ」
尾形の言葉を誰も否定できない。
結論を出したのは杉元さんだった。「取り合えず連れて行って、土方歳三たちと合流してから詳しい処遇を決めればいい」と。
出発のとき、男性陣が村の女性に引き留められていた。村の男の人が囚人に殺されてしまったから、ここにいてほしいと思っているそうなのだ。特に牛山さんが人気で、牛山さん自身も名残惜しそうにしていた。
「尾形も惜しいな~とか思ってたりする?」
「そう見えるか?」
「いや、あんまり」
「ならそういうことだろ」
「うん……」
実際に残りたかったなんて言われたら嫌な気分になるだけなのに、どうしてこんな意味のない質問をしてしまうのだろう。それよりも聞きたいのはあのときのことだ。私の声が本当に聞こえていなかったのか、だけど聞いてしまったら取り返しのつかないことになりそうな気がして聞けない。綺麗ごとばかりだと軽蔑されているのだろうか。……わからない。尾形に近づけたような気がするたびに突き放されたような気持ちになるのだ。
「そういや便所行かなくてよかったのか?」
「……え?」
「オソマ」
尾形はにやりと笑った。ようやく意味を理解した私は尾形の背中をバンと強めに叩く。
「いっ!」
「馬鹿もう知らないッ」