転生したら角名倫太郎に振られた後の世界だった09
梅雨のじめっとした空気はあまり好きではないが、角名くん的に言うなら「雨の日はランニングしなくていいから楽」らしい。今日も体育館の外はザーザーと雨が降っている。
「とか言いながらいつも真面目に走ってるじゃん」
「北さんに監視されてんの」
角名くんはゲンナリした顔でドリンクを飲んだ。ドリンクはいつも手渡ししているわけじゃないけど、たまにこうしてタイミングが合えば「ありがと」と言われる。
「私は登下校が面倒だよ。濡れるし泥も跳ねるし」
「それはわかる」
角名くんがジャグを置いてコートに戻っていく。ほら、こういうところ。実は北さんに「角名はサボり癖あるから見張っとって」と言われているんだけど、私から見たら全然だ。今だってダラダラせずにすぐ練習に戻っていったし、朝練だって来るのは早いほう。だけどそれを本人に指摘すれば「北さんより早く来てみたかっただけ」と言われるのだ。
今は七月末から開催されるインターハイに向けて一丸となって練習しているところだ。意外と期間が空くことにびっくりしたけれど、そういうものらしい。七月末といえば、もう夏休みだ。社会人になって長期休みというものは存在しなかったから、少しわくわくする。学生時代は何をしていたっけ。思い返してみても印象に残っているようなことはほとんどなかった。
部活が終わり制服に着替えて体育館の出口で角名くんと合流する。
不思議なことにこのところ毎日、角名くんと一緒に帰っていた。たまに一緒になることは今までもあったけど、だんだんとその頻度が上がっていき、今ではもう当たり前のようになってしまったのだ。一体いつからそうなってしまったのか、私にもよくわからない。わざわざ断るのもなあと思うし、別に一緒に帰ったからといってそれ以上のことが起こるわけでもないし、私が意識しすぎなだけなのかもしれないと思うと何も言えなくなる。一回だけ侑くんに「お前らいつも一緒に帰ってんのか」と突っ込まれたことがあったけれど、角名くんは普通に「うん」としか言わないから、侑くんもそれ以上言及するのを諦めたようだった。
ボボボボボッと傘を叩く雨の音が激しくなっていく。じわりとスニーカーから水が染みてきて、もう最悪だ。
「角名くんにはランニング頑張ってもらうとして」
「急に何」
「そろそろ晴れてほしいって話」
「ああ。明日も予報じゃ雨らしいけど」
「……知ってる」
「すげー顔」
だって洗濯物が溜まっていくんですもの。制服のブラウスが二着しかないのは何かの間違いだと思いたい。
「早く梅雨明けないかな……」
「明けたら期末だけどね」
「もうそれは仕方ない。富山を楽しみに頑張る」
「富山が楽しみなわけ?」
「おいしいもの食べたい。お土産とかも調べとこ」
「……インハイのこと忘れてない?」
「さすがに忘れてないよ~」
このとき私は軽い気持ちで笑っていた。まさかあんなことになるなんて、思ってもみなかったのだ。
梅雨も明け、期末テストも無事終わり、夏休みに突入。インターハイの会場、富山までは電車と新幹線を使って行くことになった。移動時間が長いから、出発は大会前日だ。
改札をくぐりホームで電車を待つ。電車に乗るのも久しぶりだ。
あと五分ほどで出発というとき、反対側のホームに電車が到着した。
「……ッ!」
思い出したのは、背中を押される感触。真っ白なライト。頭が恐怖に支配されて、私はその場にしゃがみ込んだ。
「え、先輩どないしたんですか?」
声を掛けてくれたのが誰かもわからなかった。自分の心臓の音がどんどん大きくなっていって、次第に周りの音すら聞こえなくなってしまった。
私が意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。病室には黒須監督がいて、状況を理解するのにさほど時間はかからなかった。
「か、監督……」
ぼろぼろと涙が出てくる。私はなんてことを。みんなをサポートするどころか大事な大会の前に迷惑を掛けてしまうなんて。
監督は私を責めるようなことは言わなかった。だけど今は優しい言葉を掛けてもらうことすら辛い。みんなは予定通り出発したそうだから、その点だけはよかったけれど。
監督は今から富山に向けて出発するそうだ。幸いなことに大会にはまだ間に合うということだった。
監督のいなくなった病室で、私は声を押し殺して泣いた。悔しさと申し訳なさと、他にもいろいろな感情がぐちゃぐちゃ混ざりあって、どうすることもできなかった。本当ならみんなに連絡して心配を掛けないようにすべきだったと、あとで冷静になればわかる。だけどそんなことすら考えられないほど私は取り乱していた。結局その日は何もできないまま病室で一日過ごして、次の日私は一人で家に戻った。
一日目の試合をスマホで見て、少し冷静になった私は北さんと角名くんに連絡をした。というのも私はこの二人の連絡先しか知らなかったのだ。
北さんからはすぐに返事が返ってきた。気にせずゆっくり休み、ということだった。それからしばらくして、角名くんからは写真が送信されてきた。双子が取っ組み合いをしている写真だった。富山まで行って何をやっているんだか。
落ち着いていたはずなのに、角名くんの気遣いにまた目の奥がツンとしてきた。そして、
「電話していい?」
息が止まるかと思った。
たぶん泣く。いや、絶対に泣く。電話だけは勘弁してほしい。
「もう夜だし近所迷惑だから」
「一軒家じゃん」
無慈悲にコール音が響く。しばらく応答しないでいたけど、切れる気配がない。仕方なく通話ボタンをタップして、だけどせめてもの抵抗に無言を貫いた。
「……」
「……」
なぜか相手も無言である。何がなんだかよくわからなくて、けれどじわじわと息が苦しくなって、ぐすんと鼻をすすってしまった。
「やっぱ泣いてた」
「……いじめっ子ですか?」
「まあ、そうかも」
「……試合見てた。初戦突破おめでとう」
稲荷崎はシード校らしく、今日は一戦しか行われなかったのだ。みんないつも通りのプレーができていたと思う。そして私だけがそこにいなかった。
「ありがと」
「ん、」
「わかってると思うけど、誰も責めてないから」
「うん……」
遠くのほうで角名くんを呼ぶ声が聞こえた。ああもう、わずらわしそうに角名くんが言う。
「ごめん。呼ばれたから切る」
「明日も頑張って」
「うん、おやすみ」
私は通話の切れた画面をしばらく眺めていた。そしていつの間にか涙が止まっていることに気づく。なんか変だ。何かが私の中でぐるぐると渦巻いている。
八月になった。だけどまだインターハイの真っ最中。私は一人だけ七月に取り残されたような気分だった。今日もまたスマホを見ながらみんなの応援をする。
稲荷崎高校は決勝戦まで行くことができたが、結果は負け。オリンピックでもないから生中継のインタビューなどはない。もしかしたら夕方のローカルニュースになら出るかもしれないと思って、私は録画の予約を入れた。疲れているだろうにみんなは今日の夕方の新幹線で帰ってくるそうだ。
気を紛らわしたくて、久しぶりに料理をした。スーパーに行って具材を買って台所に立つ。調味料を買い直すのも気が引けたので、今日はカレーだ。
無駄に細かく玉ねぎを切り刻んでいたら、またも涙が出てくる。だけどこれは玉ねぎのせいなのだ。
久しぶり過ぎて米を炊くのを忘れていたとは、何とも間抜けな話である。できあがったカレーからはいい匂いが漂っているというのに、あと四十分は食べることができない。私はお風呂のスイッチを入れてテレビを点けた。ニュースでは黒須監督がインタビューに答えていた。
ゆっくりお風呂に浸かったおかげでようやくご飯にありつける。そこで私はスマホに通知が来ていることに気づいた。
「家いる?」
角名くんからだった。メッセージが来たのは約五分前。いるよ、と返してドライヤーで髪を乾かす。
ぽこんとまた通知が鳴った。
「お土産渡しに行っていい?」
えー……。だめではないけど、よくもない気がする。わざわざ家まで来てもらうのも申し訳ないけれど、明日学校に持って来てもらうほうが負担になるかもしれない。だけど私はいまお風呂上がりで……これは変に想像しすぎだろうか。
「迷ってる?」
お見通しだった。この既読がつくというシステム、今回ばかりは厄介である。
「あと五分くらい」
えっ、と私は思わず声を上げた。ドライヤーを温風のターボにして、タオルを使いながらガシガシと乱暴に乾かす。髪が乾けば鏡の前に立って、変なところがないかチェックした。……たぶん大丈夫なはず。ふうと一息ついたところでインターホンが鳴った。
「今日カレー?」
「……うん」
荷物の少なさを見るに、角名くんは一度寮に帰ったようだった。お土産の紙袋を受け取ってその中をじっと見つめる。なんとなく角名くんと目を合わせられなかった。
「もしかしてお風呂入ってた?」
「……うん」
「あー……ごめん」
「え、全然」
「それみんなから」
「わざわざ持って来てくれてありがとう」
「……なんかお土産楽しみにしてたみたいだし」
それは自分が買う側の立場だったときの話だ。だけどこうして気遣ってくれたことは嬉しい。……やばい、また泣きそうだ。
「……言いたくなかったらいいけど、あのとき何か思い出した?」
「あのときに思い出したわけじゃないけど、電車が来る直前に背中押されたことがあって……フラッシュバックして」
いかにも記憶を失う前の私が経験したことのように言ったのはズルだったかもしれない。角名くんは小さな声で「何だよそれ」と言った。
「多分……電車がだめだったんだと思う。ごめんね、大事なときに、迷惑……かけて」
堪えていた涙がポトポトと落ちてくる。
角名くんに抱きしめられていると気づくのが遅れたのは、私が下ばかり見ていたせいかもしれない。決して乱暴ではないその抱擁は、私の脳みそをぐずぐずに溶かしてしまいそうだった。
「スナ……くん?」
だめだ。流されてはだめだ。やんわりと身じろぎするが、それを咎めるように抱きしめる力が強くなった。
これが落ち込んでいる私を慰めようとしてくれているだけならいい。だけど角名くんはそんなタイプではない……と思う。それならこれはどういう状況なのか、私は考えるのを放棄したくなった。
ぎゅっと握り締めていた紙袋を取り上げられる。角名くんはお土産を棚の上に置いたようだった。
「……角名くん、だめだよ」
「なにが?」
「私が、だめになりそう」
「なればいいじゃん」
なんてこと言うんだこの男は。本当に高校生なのか?
しかし事は簡単だ。私が角名くんを拒否すればいいだけのことなのだ。でも、どうしてそこまでして拒絶しなきゃいけないのかと、心のどこかで思ってしまっている。相手が高校生で自分が大人だから? でも今の私は高校生で、それなら何も問題ないじゃないか。こんなことを考えている時点で私はすでにだめなのであった。
「……ごめん。今日だけ」
ずるい私は逃げ道を用意して、角名くんの背中に腕を回した。
「今日だけかよ」
「うん」
「……まあいいけど」
角名くんの体温を感じながら私はゆっくりと目を閉じた。全身から力が抜けてしまって角名くんに寄りかかる。頭を撫でられながら、私って最低だなあと思った。角名くんからメッセージをもらった時点で夜の七時を過ぎていた。寮の門限は八時。彼がここに長居できないと私は最初から知っていたのだ。
角名くんは腕を離すと、今度は私の涙を拭ってきた。
「花火行かない?」
「え、はなび……?」
「花火知ってる?」
今までの甘ったるい雰囲気はどこにいったのか、いま私の目の前にいる角名くんはいつものちょっと意地悪な角名くんだった。
「さすがに知ってるよ」
「明後日。去年行ったけど、出店もあった」
「……それは知らなかった」
「行こうよ。部活終わったあとでも間に合うし」
「……今日だけって言ったじゃん」
「花火行くだけで何か問題あんの?」
「それは……」
ここでだめといえば、完全に角名くんを意識しているということになる。こいつ、畳みかけてくる気か。別にそんな意地になって断るようなことでもない気がしてくるから恐ろしい。もしかして私は角名くんのことが好きだったのか。考えたら頭にズキッと痛みが走った。
「……わかった、行く」
角名くんは満足そうに笑って帰っていった。よかった、頭痛のことは気づかれていないみたいだ。
それから頭痛が続き食欲も失せてしまった。胃までムカムカしてきた気がして水を飲んだけれど、よくならない。それならさっさと寝てしまおうという結論に至った。カレーをちゃんと冷蔵庫に入れてベッドに入ったから、その点まだ冷静だったと思う。
「ごめん、今はバレーに集中したいから」
夢の中の角名くんは私が知っているよりもずっと冷たい目で、私にむけてそう言った。