3話

 ブランシェット家の小間使いになる気はないか。シノの話を要約するとそんなところだった。しかし、急な話であり、まだブランシェット家の了承を得ていないことをシノの後ろからファウストが付け加えた。
「どうして?」
「お前、このままじゃ死ぬぞ。冬になったら冷えるし、食べ物もなくなる」
シノははっきりと断言した。確かにアネットも死にたいわけじゃない。人間は嫌いだが、ブランシェット家の子供が魔法使いで、さらに両親に愛されているということを聞いた今、心動くものはあった。しかし、シノのように魔法が使えるわけでもない自分が、何か役に立てるとも思えない。普通の人間がする仕事ですらアネットはしたことがないのだ。
「……でも私、何もできないよ」
「なら掃除だ。ゴミが落ちてたら拾って、汚れを見つけたら拭けばいい。どうすればいいかわからないときは他のやつが教えてくれる」
「……いいの?」
「いいって言ってるだろ」
箒に跨ったシノが手を差し出してくる。アネットがその手を取ると、しっかり力強く握られた。

 空を飛ぶのは初めてだった。背中に感じるシノの体温はあたたかいけど、シノが着ているシャツは薄手で、上着を奪ってしまったことが申し訳なくなる。
「シノ、寒くない?」
「オレは平気だ。お前はどうだ?」
「あったかいし、風が気持ちいい」
「だろ」
シノは得意げにふふんと笑った。
 しばらく飛んでいると、ファウストがゆったりと隣に近づいてきた。何だろう、ちらちらと見られている気がする。
「昨日、結界できみを弾き飛ばしてしまったせいで、きみに怪我をさせた。悪かった」
「え?」
それはファウストのせいではない。安全のためにやったのだとわかっている。謝られたことが不思議だった。しかしファウストはアネットがわかっていないと勘違いしたらしく、付け加えるように「洞穴の入口のところ」と言った。
「ううん。薬をもらったから……ありがとう」
「いや、それはべつに……もとはと言えば僕のせいで……」
遮るようにシノが「ああ」と呟く。
「やっと今わかった。ファウスト、謝りたくてオレに着いてきたんだな」
「いや、ちが……」
ファウストの言葉は最後まで聞こえなかった。シノが急に箒のスピードを上げたのだ。頭の上からシノの楽しそうな笑い声が聞こえる。
「仲いいね。みんな魔法使いだったの?」
「いや、一人は賢者だ。ネロに背負われて寝てたやつ」
「賢者?」
「知らないか? 賢者とその魔法使いは<大いなる厄災>と戦う」
<大いなる厄災>のことは知っている。前に住んでいた村でも恐れられていた。年に一度、お供え物の料理を作る行事もあったほどだ。しかし、魔法使いたちが戦っているというのは知らなかった。シノも戦うのだろうか。死んでしまったりしないのだろうか。
「……シノも戦うの?」
「ああ。手柄を立てて、大きな城を建ててもらう」
そう言ったシノはあまりにも誇らしそうで、危ないなんて言えなくなってしまった。
「……ほら、見えてきた。あれがブランシェット城だ」
「あ……」
大きな城だ。森の中に静かにたたずんでいて、古くからの歴史を感じられる。……似てない。アネットが売られた中央の国の屋敷とは似ても似つかない。それなのに、心の中がざわざわと悲鳴を上げる。
「シノ……」
アネットが振り向くと、箒がぐらりとバランスを崩した。
「おい、危ないだろ」
「……ごめん」
ここまで来て嫌だとは言えなかった。アネットとて森の小屋に戻りたいわけじゃない。昔の話をして、今度は大丈夫だと言ってほしかった。しかし、言おうとすると息が苦しくなってしまう。
「シノ、スピードを出しすぎるんじゃない!」
いつの間にか追いついてきたファウストが咎めるように言う。ファウストはうつむくアネットに気付くと、シノの前に回り込んで飛行を止めさせた。
「きみ、顔色が悪いみたいだけど」
「なんだ、具合が悪かったのか?」
「ん……」
アネットは首を振った。
「……シノ、旦那様も奥様も優しい人なんだよね?」
「言っただろ。二人とも素晴らしい方だって」
「……私が前にいたところはひどい旦那様だったよ」
「何だって? どこのどいつだ?」
「……もういない。死んでる」
ファウストが眉を寄せたのが見えた。シノがどんな顔をしているのかは見えない。
 アネットはシノの胸によりかかった。シノはたくましいからびくともしない。
「あの……聞いてくれる?」
「なんだ?」
「えっと……」
きゅうっと喉の奥が絞られたみたいに苦しい。しばらく言えないでいると、ファウストがコホンと咳をした。
「僕は先にヒースのところに行っている」
「あ、待って」
「僕がいたら話しづらいんじゃないか?」
「ううん。そんなことない」
「……なら、聞くだけ聞こう」
「えっと……私、前は中央の国に住んでたんだけど、魔法が使えるってわかったら売られちゃった。それで、一生あなたにお仕えしますって約束させられて……」
ぽたりと落ちた涙は箒の柄を握るシノの手に落ちてしまった。頭上から舌打ちが聞こえて、アネットの体はびくりと萎縮する。
「オレも前に騙されてヒースと約束した。お前みたいに変な内容じゃないが……」
シノの拳がわなわなと震えている。箒が上下に揺れた。ファウストの提案で三人は一度、地上に降りた。

 アネットを買った男を殺したのは側近であるはずだった魔法使いの男だった。何か揉めたのかもしれない。魔法使いの男は今も中央の国で捕らえられている。
 アネットが魔力を失ったのは男が殺されるほんの少し前だった。触れられそうになって、咄嗟に攻撃してしまった。風の刃が男の首を掻き切る前に、魔法は消えてしまったけれど。
 激怒した男は国に通報した。卑劣な魔女がいると。アネットは縄で縛られ国の騎士が到着するのを待っていた。しかし、その間に男は魔法使いによって殺されてしまったのだ。
 アネットは三年ほど囚人として過ごした。けれど、屋敷での暮らしよりはるかにマシだった。
 刑期が終わると逃げるように東の国の森の奥へ行き、あの小屋を見つけた。そうして一ヶ月ほど経ったところでシノたちに出会ったのだ。

「……つらい思いをしたんだな」
ファウストはいたわるように、優しく。シノは怒りを抑えているのか、固く拳を握りしめている。
「……大丈夫だ。旦那様も奥様も、ヒースのこともきっと好きになる」
「シノ、まだ正式に決定したわけじゃないからあまり期待させるような言い方は……まあ人間にしてはよくできた人たちだから、悪いようにはならないと思うが」
二人の言い方から、本当にすてきな夫婦だというのが伝わってくる。もし、この家に生まれていたら幸せだっただろうか。考えても仕方のないことだけど、ヒースクリフのことを少しだけ羨ましく思ってしまう。
「……二人とも、ありがとう」
三人は再び空に上昇した。ブランシェット城はもうすぐそこだ。

「あ、よかった。待ってたよ」
城の入口でヒースクリフと合流する。彼はにこりと笑ってアネットに手を差し出した。
「これからよろしく……ええと、きみの名前を教えてくれる?」
「あ」
アネットが答えるより先に、シノが声を上げた。まるで、忘れてたとでも言わんばかりに、
「そう言えば聞いてなかった」
「嘘だろ……」
ヒースクリフは呆れている。ファウストも聞かなかった手前、気まずそうにしていた。
「……アネット」
「アネット? すてきな名前だね」
ヒースクリフの優しい笑みにアネットの心がぽっとあたたかくなった。あの屋敷では名前すら聞かれなかった。だからきっと大丈夫。ブランシェット城を見ても、もう苦しくならない。