3話
ネロさんは次も多彩なパンを作ってくれていた。ただ、ネロさん自体には会わなかった。その代わりに、パンの傍にメモが置かれている。開いて中を確認してみたけど、私に宛てられたものなのかもわからない。私はこの世界の文字が読めないのだ。
「これは食べるな」だったらと思うとパンを手に取ることはできなかった。私は空のバスケットを手にしたまま部屋に戻り、ベッドに入った。
ネロさんに会ってメモの内容を確認しなければ。そう思って私は早朝にキッチンへ向かった。ネロさんが朝食の準備をしているだろうと思ったのだ。けれど、誰もいない。少し待ってみたけど、誰とも会うことはなかった。
その日は朝、カインさんが起こしにくることもなかった。窓の外を見ても人影ひとつない。もしかして誰もいないのだろうか。そう思ったのは昼ごろだ。
恐る恐る、まるで泥棒みたいに身を潜ませながら部屋を出る。こんな日の高い時間帯に部屋から出たのは久しぶりだ。静かな魔法舎にひとりでいると、世界から取り残されたみたいだった。
やっぱり、誰もいない。食堂、談話室、図書室。個人の部屋以外を一通り確認したけど、誰にも会わなかった。そこで私は考えた。魔法使いたちは帰ったんじゃないだろうか、と。ネロさんも実際、帰りたいと言っていたし。あのメモは別れの言葉だったのかもしれない。私相手にそんなことをする必要はないけど、ネロさんはおそらく律義な人だから。
もし本当に魔法使いたちが帰ったのなら、あのパンは食べてしまったほうがいい気もする。痛ませてしまうのは忍びない。夕方になっても誰も戻ってこなかったら、食べてしまおう。そう決めて、私は眠くもないのにベッドに入った。
結局、魔法舎は私ひとりのままだった。ネロさんが作ったであろうパンを手に取り、私はフライパンの上にそれを置いた。火を点けて、フライパンをゆする。……なぜこんなことをしたか。誰もいないからというのはもちろんだが、一番の原因はネロさんだ。あたたかい食事がおいしいと、思い出してしまったのだ。
パンを一口食べると、おいしさとともに喉の渇きを感じた。私は鍋にミルクを入れて、その上からはちみつを垂らした。ほんのり甘くてあたたかくて、今夜はよく眠れそうだった。
次の日、私は朝食を作るためにキッチンへ行った。前に賢者様と考えた、味噌汁もどきを作ろうと思ったのだ。「気持ち昆布」で出汁をとり、野菜を茹でて「かなり味噌」を溶かす。液体は緑色だけど、味はほとんど味噌汁だった。ここに豆腐があれば最高だったのに。さすがに「気持ち米」を炊く気力はなくて、主食はパンで済ませた。それがまあ、味噌汁とあわない。
お腹がいっぱいになると、次は体を動かしたくなった。本当は魔法舎の外に出てみたかったけど、帰り道に自信がなかったのでやめておいた。魔法舎は普通の人間は入ってこれないようになっていると説明された気もするし。そういうわけで、私の行く先は中庭となった。
いい天気だなあ。風はちょっと冷たいけど、日差しはポカポカしているし、噴水には小鳥が訪れている。かわいらしい花もみつけた。今まで晴れだろうが雨だろうが気にしなかったけど、こういう日は外に出てみるのもいいかもしれない。
中庭を歩きながら夕ご飯について考える。カレーが食べたいけど、カレー粉がないと無理だなあ。小麦粉はあるからうどんならいけるだろうか。でも、だし汁は自信ない。限られた材料であれこれ考えるのは楽しかった。かつて賢者様と一緒にやっていたはずなのに、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
中庭といっても小さな公園以上の広さがあるので、ぐるっと一周するだけでいい散歩になった。満足した私は建物の中にもどり、またキッチンへ向かった。あのときネロさんがやっていたみたいに、食材や調味料をチェックしてみる。
まだ夕食までは時間があるけど、試してみたくて仕方がなかった。私ってこんなに活動的だったっけと思うほど、今日の私はやる気に溢れていた。
「あれ」
聞こえるはずのない声が聞こえた。聞き間違いであってほしかった。けど、顔を上げて、ネロさんと目が合って。ネロさんは驚いたような、でもちょっと笑っているような表情で私を見ていた。
「あ……の、みなさん帰ったわけじゃなかったんですね……」
冷静になって考えてみると、早合点すぎた気がする。せめて使用人さんを探して聞けばよかったのだ。ああ、と後悔しながらうつむくと、作りかけの料理が目に入る。隠すようにさりげなく、それを引き寄せてみた。全く隠しきれていないけど。
「メモ、気付かなかった?」
ネロさんに言われて、ポケットの中に入れておいたメモを取り出す。使用人さんに会えたら読んでもらおうと思って持っていたのだ。「なんだ持ってるじゃん」とネロさんは言うけど……。
「……すみません、字が読めないんです」
ネロさんは「え」という顔だった。ネロさんがあまりにも詮索してこない人だったから、文字のことだけでなく異界から来たということも言ってない。前からの魔法使いたちは知っているはずだから、誰かに聞いたかもしれないとは思っていたけど。この様子じゃそれもなさそうだ。ネロさんは明らかに気まずそうな顔をしている。
「あー、そりゃ悪かった」
「いえ、言ってなかったので。なんて書いてあったんですか?」
「泊まりの用事があるから数日いないって」
「みなさんで?」
「そう」
ネロさんたちは賢者の魔法使いのお披露目パレードやらパーティやらで魔法舎を空けていたそうだ。そう言われれば、去年もそんなことをしたと賢者様が言っていた気がする。本当に私の早とちりだ。
「ところでさ、俺は夕飯の準備があるから急いで帰ってきたんだけど……」
ネロさんの言葉で、私は一瞬で現実を思い出した。
「もうすぐ他のやつらも帰ってくるんじゃねえかな」
「~~っ!!」
慌てふためく私を見て、ネロさんは今度こそ本当に笑った。
みなさんが帰ってくるまでの間に片づけをしなければならない。夕ご飯を作るネロさんの邪魔にならないようにしなければ。
「……キッチンを荒らしてしまって申し訳ありません」
「いや、荒れてはないけど……」
これ、とネロさんが指差したのはうどんの麺だ。麺まではなんとかなったけど、スープで悩んでいた。醤油がないのだ。というか、私が食べたいもののほとんどに醤油が使われていることに気付いてしまった。醤油があれば肉じゃがだって刺身だってできるのに。そんなわけで、無計画に茹でたうどん麺が鍋に入れっぱなしになっていた。
「えーと、私の故郷の料理を作ろうとしたんですけど、スープを作る調味料がなくて……」
「食べてみていい?」
「え……いやでも、味ついてないですよ」
そんなの見ればわかる。という顔でネロさんはうどんの麺を一本食べた。……半生だったらどうしよう。味見がまだだったことを今さら思い出した。
ネロさんは真剣な顔で味のしない麺を味わっていた。なんだか採点されているみたいで緊張する。やがてネロさんの喉が動き、私は無意味に息を止めた。
「うん……あんたが作りたい味じゃないだろうけど、ホワイトソースとかミートソースも合うんじゃないかな。パスタよりもちもちしてる麺って感じだ」
「……おお」
私は素直に感心してしまった。ネロさんぐらい料理が上手だと、味見しながら最適な味付けを考えられるのかもしれない。
「それで、こっちは?」
次にネロさんが興味を示したのは、昼に食べた味噌汁の残りだった。これは本格的に味付けしてしまったから麺を食べられるよりよほど恥ずかしい。
「それは、そこにある緑の調味料で作ったスープですね……」
「へえ……あ、美味い」
「ネ、ネロさん……夕食の準備を……」
自分より料理がはるかに上手な人に手料理を食べられる恥ずかしさ、きっとネロさんは経験ないんだろう。とにかく私は味噌汁から注意を逸らしたくて、夕食の話題を振った。
「ああ、もうあんま時間もないな。悪いけど手伝ってくれる?」
「え……まあ、はい」
断れるはずがなかった。ネロさんには数食分の恩がある。……しかし、手伝うといったって何をすれば。私はそこまで料理が得意なほうではない。何なら逆に迷惑を掛けてしまいそうだ。
「じゃあ、あんたは卵割ってくれるか? とりあえず六十」
「ろ、ろくじゅう?」
「……いちいち反応が面白いな。まあ二十人ちょいいるし、そのくらいは使うよ」
「ネロさんは、そんなにたくさんの料理を……」
考えるだけでも気が遠くなりそうだ。途方に暮れていると、ネロさんにまた笑われてしまった。
ひとまず、私は自分にできることを。無心で卵を割って、割って、割り続ける。何個か黄身を潰してしまって落ち込んで、どうせ混ぜるからとネロさんに励まされた。
「何を作るんですか?」
「オムレツ。……きのこのホワイトソースがけ」
「いいですねえ」
「……ふ、」
どうしてネロさんは今、笑いをこらえたのだろう。どうしたのかと聞いても「何でもない」不思議に思いながら、私は卵液をかきまぜた。ネロさんの持つフライパンからはバターのいい香りが漂ってきた。
フライパンの三刀流。という表現があるのかは知らないが、ネロさんがオムレツを焼くさまはまさにそうだった。まさか三つも同時にオムレツを焼くなんて。二十人分もあるんだから、そうでもしないと終わらないし冷めてしまうというのはわかる。でも、それで焦がしもせずに焼き上げるなんて、やっぱりネロさんはすごい。ここまでくれば私に手伝うことはないのだが、ネロさんの手さばきが華麗すぎて見惚れてしまっていた。
「……よし、後は帰ってくる人数見ながら焼くから、もういいよ。手伝ってくれてありがとな」
「いえ……全然お役に立てませんでした」
「そんなことないって。ソース、あんたが作ったそれにもかけてみるか?」
ネロさんがうどんの入った鍋を持ち上げたところで私は気付いてしまった。……いや、でもこんなやり取り前にもしたし……でも。
「……あの、もしかしてこのために?」
私が麺の処理に困っていたから、わざわざホワイトソースを使うオムレツを夕食のメニューにしてくれた? さっき笑ってたのは私が気付かなかったから? こんなの、嬉しくないわけがない。けど、口に出すのは恥ずかしすぎる。
「やっと気付いたな」
「……ありがとうございます」
「はいはい、俺にも味見させてくれよ」
ネロさんは笑った。ちょっと照れくさそうだった。