2話
目を開けると真っ青な空が広がっていた。起き上がろうと体に力を入れると、ズキズキと全身に痛みが走る。首だけ動かしてみると、体の半分ぐらいが雪に埋もれているのがわかった。もう半分は服がところどころ破れ、血が滲んでしまっている。
どうしてこんなことになったのか思い出せない。なぜここにいるのか、自分が誰なのか。
できるだけゆっくり起き上がってみると、胸を覆っていた雪がどさりと落ちた。目覚めなければ死んでいたかもしれないというのに、あまり恐怖は感じない。それよりもお腹が空いた。
周囲に食べられそうなものはなかった。真っ白な雪と、裸の木。もう少し暖かい場所にいかなければ。何となく頭に浮かんだ言葉を口にすると、どこからともなく箒が現れた。穂先がばさばさになっていて、柄の部分には血がついている。もしかしたら記憶を失う前、この箒が一緒だったのかもしれない。
箒に乗って飛んでいると、次第に腹部の痛みが増してきた。冷たさで感覚がマヒしていたのか、地面の雪が解けていくのに比例して体が悲鳴を上げる。やっとの思いで街にたどり着いたのと同時に、体が地面に触れた。
もう動けない。転がった箒に手を伸ばそうとしたけど、体がいうことをきかない。遠巻きに視線を感じる。唯一近づいてきた声は、知らない名前を呼んでいた。
「オディリアさん! 大丈夫ですか!」
男の子だった。暖かい手に触れられた場所がじんと痛む。男の子が何か呟くと、少しだけ痛みが引いた。
「待っててください、兄様を呼んできます」
男の子が走って行った先をぼんやりと眺めながら考える。オディリアというのが私なのかもしれない。でも、名前を聞いても彼を見ても何も感じなかった。これからどうすればいいのだろう。真剣に悩んでいたつもりだったのに、途中でお腹がぐうと鳴る。一気に何もかもどうでもよくなってしまった。目を瞑ると、さっきの男の子の声が遠くに聞こえる。そこで記憶が途切れてしまった。
目を開けると空……ではなく、天井にぶら下がった照明が目に入る。起き上がろうとして怪我のことを思い出したが、痛みは襲ってこなかった。
「よかった、目が覚めて。どう? 痛みはない?」
「……はい」
白衣を着た男の人は気安く微笑んだ。さっきの男の子が医者のところまで運んでくれたのだろうか。でも、何というか、部屋の雰囲気からしてそうではないような気もする。ベッドがあって、机と棚があって、本当にそれだけ。医者じゃないなら、この人は何だろう。悩むより、聞いてみた方が早い。
「あの、ここはどこですか?」
「ここは魔法舎の空き部屋。びっくりしたよ、ミチルとルチルが血相変えて飛んでくるんだから」
「……助けてくれたんですか?」
「……オディリア?」
男の人の表情が曇った。そしてまた、あの名前だ。知り合いなのかもしれない。もしそうなら、何となく申し訳ないと思ってしまう。
「……私、その……記憶がないみたいで」
「じゃあ俺のこともわからない?」
「ごめんなさい。何も思い出せないんです」
男の人は長い沈黙のあと「そっか」と頷いた。
「頭に目立った傷はなかったはずなんだけど……もう一度診てもいい?」
「お願いします」
頭を差し出すと、その形を確かめるようにして男の人の手に包まれた。たまに力を入れて押されるけど、痛くはない。ただ少し、居心地が悪かった。
「無防備だね」
「……はい」
さっきまで寝ていたんだから、それ以上の無防備も何もないような気がする。冗談なのか本気なのかわからない。頭の傷を確認していた手は、いつの間にか彼のひざ元に戻っていた。
「あなたは私のことを知っているんですか?」
「うん。まあ、ご近所さんって感じかな。南の国で俺は医者をやっていて、きみは野菜とか花を育ててる。お裾分けとか、けっこう貰ってたよ」
「南の国」
「そう。今いるのは中央の国。国のこともわからない?」
「はい。でも、方角のことはわかります」
「へえ。っていうか、意外と冷静だよね」
「……そんなことないです。ただ、すごく体が疲れているみたいで」
頭も回らない。お腹が空いたというのは言いづらいが、恥ずかしさより空腹が勝ってしまった。男の人は目を丸めて、それから笑って言った。
「食欲があるのはいいことだよ。何か食べたいものはある?」
「可能なら、温かいものを」
「わかった。何か作ってもらってくるよ」
「あ……」
一緒に行こうと思って立ち上がろうとしたが、急に頭がくらくらしてベッドに尻もちをついてしまった。待っていていいと言われたが、それだとここに閉じ込められているような気持ちになる。さすがにそんなことは言えないけど、この人をどこまで信用していいのか、まだ判断がつかないのだ。
てっきり止められるかと思ったら「俺についてきて」と言われる。部屋を出たところで彼は一度足を止めた。
「俺はフィガロ。きみにはフィガロ先生って呼ばれてた」
「……同じように呼んでもいいですか?」
「いいよ」
フィガロ先生。頭の中で呼んでみたけどやっぱり何も思い出せなかった。早い段階で知り合いに会えたのは運が良かったのかもしれないけど、思ったよりも息苦しくて、怖い。
案内された食堂には誰もいなかった。置きっぱなしの鍋にはスープが入っていたらしく、フィガロ先生が温めているところだ。
「そういえばきみ、南の国に来る前は東の国に住んでいたみたいだよ」
「そうなんですか」
「このスープは東の国で料理屋をしていた魔法使いが作ったものなんだ」
スープをよそった皿が静かに目の前に置かれる。香りだけでおいしいとわかった。
一口飲むと、温かくて指先までがじんと熱くなる。でも、懐かしさや記憶につながるようなことはなくて、本当にただおいしいだけだった。
「……すみません」
「え、どうしたの?」
「何も思い出せませんでした」
「いやいや、違うって。そんなすぐに記憶が戻るなんて思ってないよ」
「……はい」
くたくたになったトマトを噛む横で、「俺も食べようかな」とフィガロ先生はもう一つの皿にスープをよそった。返事をしたほうがいいのかと悩んでいる間に、先生はスプーンを口に運ぶ。
「そんなに見つめられると照れるな」
言われてはじめて、失礼なほど視線を送っていたことに気付く。私が謝るより先に、フィガロ先生はにこりと笑って言った。
「好きなだけどうぞ」
「っ、フィガロ先生!」
「ごめんごめん、怒らないで。スープが冷めちゃうよ」
「……いえ、私のほうこそすみませんでした」
とりあえず落ち着こう。スープを一口飲んで、やっぱりおいしい。ただ、今の今で勝手に気まずい思いをしてしまった私は、スープを食べ終わるまで一言も喋れなかったし、フィガロ先生の顔を見ることもできなかった。
「さあ、これからどうする?」
食べ終わったあとの食器をまたたく間に綺麗にしてみせたフィガロ先生は、うつむく私の顔を覗き込んだ。家のある南の国に戻るか、それとも意識を失ってしまった北へ向かうか。東の国というのもあるかもしれない。でも、記憶の手がかりを探すことを一番に優先すべきなのかも本当はわからなかった。記憶が戻らない前提でこれから生活できるようにするのが現実的かもしれない。答えを出せずにいると、フィガロ先生は助け船を出してくれた。
「あと三人。きみのことを知っている南の魔法使いがここにいる」
「私をみつけてくれた男の子ですか?」
「たぶんミチルかな。その兄がルチル。きみのことをすごく心配していたから、顔をみせてあげると喜ぶと思うよ」
「会ってみたいです。助けてくれたお礼を言いたい。それと……」
フィガロ先生を見上げると、彼は「ん」と首をかしげた。
「フィガロ先生にもお礼を言いそびれていました。助けてもらって、それから親切にしてくれてありがとうございます」
「気にしなくていいよ。南の国は助け合いの国なんだ」
「すてきですね」
「そう言うわりに顔がこわばってるけど」
「え」
さっと両手で口元を覆う。そんなにひどい顔をしていただろうか。……していたかもしれない。だって本当は、今すぐにでもここから逃げ出したいのだ。
思い出せないのがつらい。覚えていないと言ったときの反応を想像したくない。誰も私を知らない場所でひっそりと息をひそめていたい。でも、記憶の手がかりがほしくないわけじゃない。まるで全部、見抜かれているみたいだ。
「じゃあ行こうか」
「……あ」
フィガロ先生は特に気にした様子もなく歩き始めてしまった。さっきのは聞き間違いだっただろうか。都合よく考えてしまいそうになるのは、フィガロ先生が最初からずっと優しそうな笑みを浮かべていたからだ。
ミチルくんは私を見るなり、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってきてくれた。ちくちくと胸が痛みながらも私はすぐに記憶がないことを話した。遅くなればなるほどがっかりさせてしまうと思ったからだ。
「あの、ボクにできることがあったら何でも言ってください」
「え、あ……ありがとう」
思っていたよりも大丈夫だった。というのはおかしいかもしれない。でも、ミチルくんの反応は心強かった。悲しそうな顔はさせてしまったけど、すぐに力になると言ってくれて嬉しかった。それからすぐにルチルさんも来てくれて、彼にも似たようなことを言われた。優しい兄弟だ。
レノックスさんの部屋を訪れる前に、私はフィガロ先生に連れられて元の空き部屋に戻った。ミチルくんの部屋で、椅子から立ち上がろうとして立ちくらみを起こしてしまったのだ。ベッドに横になった私に「無理しちゃだめだよ」とフィガロ先生は念を押す。
「あの、フィガロ先生」
「なーに?」
「これからどうするか迷ってたんですけど、私……南の国へ行ってみようと思います」
「うん。いいと思う。でもその前にゆっくり休むこと」
ポッシデオ。頭の深いところに響くような音と、体から力が抜けていく感覚が、なぜか懐かしいと思った。