6話
なんとか初日の勤務を終えたものの、へとへとになった私は自室の椅子でぐったりとしていた。何をするわけでもなくただ時間が過ぎていく。働くってこんなに大変だっただろうか。
明日はもうちょっとテキパキ動けるようになりたいなあと頭の中で今日の反省会をしてみる。お昼時の一番忙しい時間になると頭が真っ白になって、優先順位がすっ飛んでしまったのだ。慣れればどうにかなると店主さん笑っていたけど、今日はそこまで忙しい日ではなかったというのを後から聞いて、かなりへこんだ。
一通りの失敗を思い返したところで部屋のドアがノックされる。開けてみるとネロさんが立っていた。ネロさんが持つトレーにはケーキが乗っていて、まさかと私は期待してしまう。でも、自分からそれについて言及する勇気はなく、ネロさんの言葉を待つことにした。
「ちょっと今いい?」
「はい、どうしましたか?」
「いや、もう仕事決まったって聞いて……お祝い、的な?」
ふふ、と私が笑うとネロさんは不思議そうな顔をした。
「すみません、実はドアを開けた瞬間からケーキのことが気になっていて……ありがとうございます」
「ああ、そういうこと」
「ネロさんはお菓子も作るんですね」
「お子様たちにせがまれるし、わりと」
私はネロさんからトレーを受け取って机の上に置いた。そのとき、ケーキのお皿の下にメモが挟まっていることに気付く。
「……おつかれさま、あんまむりすんなよ?」
「あー……もう普通に読めるようになってんのか」
ネロさんは照れくさそうに手で目元を覆った。恥ずかし、と消え入りそうな声が聞こえてくる。
ちょっと可愛いなと思ってしまった。それと嬉しかった。ネロさんのメモは丁寧な字で書かれている。私が読みやすいように書いてくれているのだ。前に「泊まりの用事で数日空ける」という内容のメモをもらったときは、さらっとペンを走らせたような字だったのに。嬉しすぎて私はメモをもう一度読んだ。さすがに声には出さなかったけど。
「あんま見るなって」
ネロさんが私の手からメモを抜き取る。「あっ」と手を伸ばしたけど、ネロさんの身長が高くて届かない。
「……いや、そんな顔されてもさ」
「それ欲しいです」
「もう読んだだろ?」
「でも欲しいです。嬉しかったので」
「……あんたなあ」
ネロさんはメモ紙を丁寧に二回折って返してくれた。「俺がいるときに開くなよ」と念を押されてしまった。
てっきりそれで終わりと思いきや、ネロさんは帰らなかった。何か言いたいことがあるような感じに見えたので「中に入りますか?」と聞いてみる。自分から提案して驚くのも何だが、ネロさんが頷いたとき、私は本当にびっくりした。
紅茶を二人分淹れ、ケーキは半分にしようかと聞いてみたけど丁重に断られてしまった。「食べながらでいいよ」と言われたので、お言葉に甘えて私はフォークでふわふわのクリームをすくう。
「おいしい……。疲れたときの甘いものは最高です」
「やっぱ疲れてんだ?」
「はい。でも、仕事がどうというより、リケ君の言葉を借りるなら……堕落した生活を一年も続けていたから、ですかね?」
ルチルさんの授業を受けたときに、ミチル君を含めた三人に私の事情を話しておいたのだ。そしたらリケ君に言われてしまったのだけど、まあ言い返せない。実際、一年ぶりの労働は体が堪えた。すぐに息が上がるし、ちょっとした物を運ぶだけでも腕がしびれそうだった。明日は……下手したら明後日は筋肉痛になってるんじゃないかと思う。
「言われたんだ、堕落って」
「でも、心を入れ替えたので許しますって」
「はは、そりゃよかったな」
ネロさんが笑っている間に私はもう一口、ケーキを進めた。ベリーっぽい果物の酸味がちょうどいい感じですごく食べやすい。
「あの、さ」
ネロさんは言いづらそうな顔をしていた。何かよくない話題なのかと身構えたが、ネロさんの口から出てきたのは私が異界から来たことについてだった。
他の人から偶然聞いてしまったそうだ。べつに構わないのにネロさんが深刻そうな顔をするから、私もどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「……あの、ネロさんが考えていることとは違うかもしれないですけど、ネロさんが詮索したなんて思ってませんよ」
例えるなら他人の秘密を偶然知ってしまった気まずさだろうか。ただ私としては秘密にしていたということもなく、かと言って自分からそうだと積極的に言ってもいなかったというだけなのだ。前から魔法舎にいる人たちは全員知っていることだし、明らかに異質な存在であると自覚はしているし。でも、こんなにネロさんを悩ませてしまうなら言っておけばよかった。
「ごめんなさい、言っても困るかなと思ってただけなんです」
「……いや、あんたが謝る必要はないだろ」
「ネロさんが謝る必要もないですよ。どちらかというと感謝してます」
「……まあ、あんたがそう言ってくれるなら」
ネロさんはここで初めて紅茶に手をつけた。私も少し冷たくなってしまった紅茶を飲む。同じタイミングでカップをソーサーに置いたのがおかしくて、笑ってしまった。
「でさ、えーと……未央、でいいんだっけ」
「えっ」
――今、名前を呼ばれた?
聞き間違いじゃないかと思った。だってこの世界で私の名前を呼ぶ人なんてほとんどいない。さすがに仕事先では名乗ったけど、お客様には「姉ちゃん」としか呼ばれなかった。私があまりにも唖然としているから、ネロさんを不安にさせてしまったようだ。
「間違ってた?」
「いや、違わないです……けど、知ってたんだなあと」
「ファウストに聞いた。そんなことも自分で聞けないのかって言われたけど」
ネロさんの頬は少し赤くなっていた。そんなに照れるような事でもないと思うけど、ネロさんにしてみれば違うらしい。「もう歳だから」と言ったネロさんがもう何百年と生きているのだと教えてもらって、私は紅茶をひっくり返しそうになってしまった。
改めて、お互いのことを全然知らないのだと思い知らされる。ネロさんが本物の料理屋さんだというのも初めて知って、しかし納得だった。私もお店に行ってみたかったけど、今はもうやってないらしい。
「……あの、紅茶のおかわり、淹れてもいいですか?」
もう少し話したい。言いたい言葉の代わりに、私はティーポットを持つ。ネロさんがカップを渡してくれて安心した。まだ喋っていいよと言われているみたいだったから。
一度に全部聞くわけじゃないけど、今日は特別な日のような気がした。何の話をしようかなと考えながら紅茶を淹れる。考えるのに夢中だった私はネロさんの焦ったような声で現実に引き戻された。
「こぼれてるって!」
「あっ……」
「おいおい、しょうがねえな」
ネロさんはテーブルを拭いてくれた。そのついでか、私のカップにも紅茶を注いでくれる。お喋りはもう少し続きそうだ。いつの間にか仕事の疲れのことはすっかり忘れてしまっていた。