7話

 ついこの前、魔法舎の専属として働くことが決まったカナリアさんに私はさっそく泣きついた。私は今、全身びしょびしょで魔法舎の入口に立っている。
 私の惨状を見たカナリアさんはすぐにタオルを持ってきてくれた。ありがたく使わせてもらったが、服がぴたりと肌について気持ち悪い。それと寒い。
 なぜこんなことになったのかというと、まあ……事故だ。仕事終わりに中庭を通って部屋に戻ろうとしていたところ、足を滑らせて噴水に落ちてしまった。このまま建物の中に入ったらまずいかなあと悩んでいたら、魔法舎の入口を掃除するカナリアさんを見つけたというわけだ。
 タオルのおかげである程度の水気はとれたが、実はまだ問題が残っている。もともと着ていた服と、国に支給された服。私にはこの二着しかなく、片方は洗濯したばかりでまだ乾いていない。これが私がカナリアさんに泣きついたもう一つの理由だ。カナリアさんは私の失態を笑うこともなく、真摯に対応してくれる。
「まあ、それは大変ですね! こちらに来てください」
どうするつもりなんだろう。不思議に思いながらカナリアさんについて行くと、一階の食堂近くの部屋に案内された。部屋にはテーブルや棚があるけれど、他の部屋よりは簡素な印象を受ける。
 カナリアさんはいつもここで着替えや休憩をとっているそうだ。スタッフルームみたいな感じだろうか。
 カナリアさんは奥の棚から黒い布を取り出した。
「こちらをどうぞ」
よくわからないまま布を持って手で広げてみる。あ、と嫌な予感がして、実際に着てみて何とも言えない気持ちになる。カナリアさんに渡されたのは、彼女が来ているのと同じメイド服だったのだ。
 カナリアさんが恥ずかしい格好をしているなんて言うつもりはない。これは立派な制服だ。悪いのは、日本にコスプレとかメイド喫茶とか、そういう言葉があることだ。そのせいでどうしても受ける言葉の印象が「そういうもの」に引きずられてしまう。カナリアさんがせっかく服を貸してくれているというのに、勝手に恥ずかしい思いをする私が悪い。
 スカートの裾は長いし、白いエプロンを付けなければただの黒いワンピース。何度も自分に言い聞かせたが、鏡で自分の姿を確認できる気がしなかった。
「よくお似合いですよ」
カナリアさんは両手を合わせてにこりと笑った。私はお礼の言葉を言うしかなくて、仕事に戻るカナリアさんの後ろ姿をぼんやりと眺める。この格好のまま部屋に戻るしかなさそうだ。濡れた服が乾くまでは部屋でじっとしていよう。できれば誰にも会いませんように。

「……あ」
私のささやかな願いは一瞬でだめになった。休憩室から出た途端にネロさんに鉢合わせしてしまう。食堂の近くだから、誰かに会いそうだとは思っていたけれど。
「どうしたんだ? その格好。魔法舎でも働くことになったのか?」
それも一瞬いいなと思ってしまった。料理屋さんでの仕事はお昼時だけだし、手の空いている時間も多い。この広い魔法舎の掃除を今はカナリアさんがほぼ一人でやってくれているから、少しは役に立てそうだ。……いや、今はそれどころじゃなかった。ネロさんの反応も普通だし、全く恥ずかしがる必要はないとわかっているものの、人に見られるにはどうしても抵抗がある。
「……って髪濡れてない?」
ネロさんが確かめるように私の髪に触れる。びっくりして変な悲鳴を上げてしまった。ネロさんが気まずそうな顔で謝ってきて、これ以上ないくらい申し訳ない気持ちになる。
 このまま立ち去るのもどうかと思い、私は事の顛末を説明した。濡れて寒かったはずなのに、恥ずかしさで頬が熱くなってくる。
「今度からは気を付けな。まあ……それはそれとして、服は買ったほうがいいんじゃねえの? 二着だとさすがに無理があるだろ」
「……はい。ごもっともです」
「賢者さんあたり誘って街に行ってみたらどうだ?」
「え、賢者様と……ですか?」
賢者という響きにドキッとする。私はまだ賢者様のことを避けていた。私の中の羨望や嫉妬がマシになったとはいえ、なくなってはいない。上手く話せる自信がなかった。それに今さら話しかけたって、都合のいいやつだと思われてしまいそうだ。
「俺もよくわかんねえけど、女同士のほうがそういうのって盛り上がるんじゃないの?」
「……女?」
私が首をかしげると、ネロさんが焦ったような顔をする。
「え……いや、あんた女だよな?」
「はい。私は女ですけど……賢者様は男性ですよ?」
「はあ? 賢者さんが男?」
信じられない。というよりは「何言ってんだこいつ」の顔だった。ますますわけがわからなくなる。ネロさんも私も同じような感じで混乱していたけれど、ふと思い出したようにネロさんが言った。
「あー……確か前の賢者さんは男って言ってたか。俺は会ったことねえけど」
「えっ」
「代わったの、聞いてなかったんだな」
そんな、まさか。でも、思い返せば私がこの世界に来たときも、年に一度の戦いのすぐ後のようだった。もしかしたら一年ごとに賢者は交代するのかもしれない。
「えっと……じゃあ、その、前の賢者様はどこに?」
「元の世界に帰ったって言われてる。誰も確かめたわけじゃないけどな」
「……帰っちゃったんですか」
目の前が真っ暗になった。もし賢者だったなら、一年で交代できて、元の世界にも帰れる。……じゃあ、私は? 少しの差とは言え、私のほうがこの世界に来たのは早かったのに。
 元の世界に戻れてよかったねとは思えなかった。ここで生きていくつもりで仕事をはじめたのに、決意が揺らぎそうになる。
「おい、大丈夫か?」
ふらついた私の体をネロさんが支えてくれる。しかし足に力を入れることができなくて、そのままずるずると床に座り込んでしまった。
「ごめんなさい、大丈夫です。ちょっと眩暈が」
「眩暈って顔じゃねえだろ」
うつむいた私の顔をネロさんが覗き込む。ネロさんと目が合って、ぽろりと涙を落してしまった。
「……あんた、」
ネロさんが困ったような顔をしたから、もっと涙が出てきた。ネロさんにしてみたら、ただ服を買いにいったらどうかと提案しただけだろうに。きっと迷惑な話だ。
 涙が止まらない。もうどうして泣いているのかわからない。自分がどうしたいのかもわからない。

 ネロさんは黙って私のそばで膝をついていた。いい加減、立ち上がらなければ。手のひらで涙を拭ったそのとき、中庭のほうから話し声が聞こえてきた。……誰だろう。こんなところ見られたら、ネロさんに迷惑を掛けてしまう。
「ごめん」
ネロさんがそう言ったかと思うと、さっと膝の下に腕を差し込まれて抱き上げられてしまった。ネロさんは私を抱えたまま、休憩室のドアを開ける。しばらくすると、ドアの向こう側で話し声が通り過ぎて行った。
 ネロさんは椅子の上に私を下ろしてくれた。びっくりして、いつの間にか涙が止まっていたことに気付く。
「……えっと、力持ちですね」
「なんだ、もう冗談言えるようになったのか?」
「おかげさまで」
「……本当に?」
「……」
何か言ったらまた涙が出てきそうだった。ぎゅ、とスカートを握る私の向かいにネロさんが座る。
「≪アドノディス・オムニス≫」
ぶわっとあたたかい風が吹いた。……髪の毛が乾いている。ネロさんの魔法を見るのは初めてだった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 勘違いかもしれないけど、ネロさんは私が話すのを待ってくれているように見えた。でも決して話せとは言わないし、私が話したくないならそれで終わりにしてくれる。
 口に出したら、何か変わるだろうか。できることなら変わってほしかった。人を羨んでばかりなのは、もうやめたい。
「……前の賢者様が元の世界に帰ったの、いいなあって思って」
ネロさんは静かに「だよなあ」と頷く。
「悪い、無神経だった」
「私が聞いたのでネロさんは悪くないです。それで、素直に祝福できないのが、なんて言うか……」
「うん」
「なんで私、こんなにひどいことばっかり考えてるのかなって」
「うん」
ぽつりぽつりと話す私にネロさんはずっと相槌を打ってくれた。私の言葉を肯定もしないし、否定もしない。ただ聞いてくれているだけの存在がとてもありがたかった。
「……ネロさんは優しいですね」
「や、俺も相当だよ。あんたみたいに人に言ったりしないだけで」
「そうなんですか?」
「……あらためて聞かれると、否定しときたい気もするけど」
「ふふ」
結局、ネロさんに話したところで羨ましいという気持ちは消えなかった。救われたのは、ネロさんが何でもないように接してくれることだ。ネロさんは私の感情を、そんなに気にすることでもないと言ってくれた。自分にも似たようなところがあると。ネロさんが気を遣って言ってくれているだけかもしれないけど、嬉しかった。
「今度、新しい賢者様にご挨拶してみようと思います」
これはネロさんと話して、私なりに気持ちの整理をつけて決めたことだった。ネロさんもきっと応援してくれると思ったんだけど、
「マジで?」
正気を疑われてしまった。
「え、やめたほうがいいでしょうか」
「いや、だってあんな話したばっかりで……あんたってやっぱたくましいよ」
「そんなことないと思いますけど」
「俺なら絶対しない。けど、そういうところがあんたのいいところなんだな」
しみじみと言うネロさんに、私はまた泣きたくなってしまった。ありがとうとだけ伝えて、私は部屋に戻る。服はまだ乾いてなかったから、しばらくこのままだ。