9話

「……ネロさん?」
静かな食堂のテーブルに伏せるようにしてネロさんが寝ている。声を掛けても、軽く肩を叩いてみても起きる気配がない。もうちょっと強く……でも、疲れているみたいだし、起こさないほうがいいだろうか。できればちゃんとベッドで寝てもらいたいけど、起きたら食材の仕込みを始めてしまいそうだった。
 ふと、リケくんが言っていたことを思い出す。「ネロが食事の楽しみを教えてくれたんです」「ネロにもらったおいしいクッキーを一枚わけてあげます」ネロが、ネロがと話すリケくんは本当に微笑ましくて、聞いているだけで心があたたかくなる。そして、私もちょっと呼んでみたくなってしまった。
「ネロ」
と。
 口にした瞬間、ぶわっと恥ずかしさが襲ってきた。いけないことをしてしまったような気になる。私は走って自分の部屋に戻って、それからブランケットを手に再び食堂へ向かった。しかし――
「あれ、腹でも減ったのか?」
私が戻ったとき、すでにネロさんは起きていた。思った通り食材の仕込みをしている。行き場をなくしたブランケットを私はさっと背中に隠した。けど、普通にネロさんは気付いたみたいだ。「もしかして見た?」と、ちょっと照れくさそうな顔で。
「すみません、声は掛けたんですけど」
「あー……いや、それ持ってきてくれてありがとな」
いえ、と首を振る。私は一度ブランケットをテーブルに置いて、厨房に入った。買っておいたイモとナイフを持って、ネロさんの邪魔にならないように端っこで皮をむく。
「何か作るのか?」
「はい。えっと、どちらかというと練習の意味が強いですけど」
私はお世辞にも料理が得意とはいえない。なので仕事先では接客を担当している。ただ、腰を痛めた奥様はもともと接客と開店前の仕込みもやっていたそうなので、私も手伝えないかなと思ったのだ。もちろん店主さんにもこだわりがあるだろうし、無理にしゃしゃり出たりはしないつもりだ。野菜の皮むきぐらいなら問題ないかなと思って、しかし今のスキルで「手伝います」とは言いづらい。なので私はイモを買った。火炎ジャガイモという物騒な名前を聞いたときはびっくりしたけど、味は甘めのジャガイモだった。
「ふうん。つくづく思うけど、真面目だよなあ」
「……まあ、故郷の味を再現するのにも繋がるかなと」
「どういうこと?」
「ネロさんみたいに料理が上手ければ、どうしたらどんな味になるってある程度想像できるかなって」
「ああ、多少はあるかもな……」
ネロさんは作業の手をとめた。何か言いたそうな顔で見られて、私の手もとまってしまう。しばらく沈黙が続いた後、ネロさんは私から目を逸らして「あのさ」と小さな声で言った。
「……さっきみたいに呼ばねえの?」
「さっき?」
さっきみたいに呼ぶ。呼ぶって……ネロさんを? ここまで考えて、少し前にとんでもないことをしたのを思い出した。
「あ、え……起きて?」
「……や、最初は夢かと思ったんだけど、あんたも声掛けたって言うし」
「ごめんなさいっ!」
どうしよう。聞かれてしまった。わあああっと叫びたくなって、とりあえず私はナイフを置いた。……危ないので。
 人の呼び方を変えるときってどんな感じだったっけ。友達を呼び捨てにしたタイミングは? 私は目の前の現実から逃避してかつての知り合いの顔を思い浮かべた。だが、思い出せない。自然に呼び方は変わっていったような気がする。その自然に、というのが今わからなくて困ってるんだけど。
「……ちなみに、夢の中の私はなんと?」
「……ネロ?」
「ああー……すみません、つい、リケくんたちが呼んでいるのを聞いて」
「いいよ、ネロで」
ネロさんはそう言って作業を再開させた。この、さりげない感じがちょっと悔しい。
 ネロ、と心の中で言ってみる。もう一回言ってみて、次は
「ネロ」
声に出してみた。
「なに?」
「……練習です」
「練習って」
はは、とネロが笑う。私もナイフを持ってイモに集中することにした。

 ピーラーが恋しい。ひたすらそう思った。なんとか一個の皮むきを終えたけど、時間はかかるし、ちょっとボコボコしているところもあるしで散々だ。半分に切ってから皮をむくというのもありだろうか。そしたらリンゴみたいな感じでいけるかもしれない。
「賢者さんと買い物行ったって?」
「はい。おかげさまで」
「いや、俺は何もしてねえけど。その服、似合ってるよ」
「あ……りがとうございます」
不意打ちだ。ネロさん……ネロは肉に切れ目を入れながら言っているけど、いたって普通にテキパキと、いつも通りに手が動いている。でも私はだめだ。そんなことされたら手元が狂ってしまう。
「ネロ、いま私は刃物を扱っているので」
「ん?」
「手を切りたくないので、集中させてください」
「あー……悪かった、頑張れよ」

 丸のまま、半分に切ってからを交互に試しながら私はなんとか五つのジャガイモの皮をむき終えた。ふう、と一息ついてナイフを置く。「終わった?」という声が思っていたより近くに聞こえて、私は耳を疑うより早く目を疑った。私の後ろにネロが立っていたのだ。
「な!」
仕込みはどうしたんですか、と言おうとしてすでに終わっていることに気付く。ネロが作業していたあたりは綺麗に片付いていた。
「……ちょっと、恥ずかしいので」
私は皮の山を手で覆った。他の人ならまだしも、料理上手のネロに見られるのは抵抗がある。
「恥ずかしい?」
「皮が、分厚いので」
ネロは否定はしなかったけど「最初より上達してるって」と嬉しいような悲しいようなフォローをしてくれた。

 私はネロの視線をかいくぐりながらイモを鍋で茹でた。その間に肉と玉ねぎを炒める。作りたいのはコロッケだ。いびつな形になってしまったイモも、潰してしまったら全部同じだ。
 ネロはコロッケを知らないようで、興味深そうに私を観察していた。料理人として知らないメニューに興味を持つのはわかるけど、私は気が気じゃない。皮むきに関しても、見ていたならちょっとしたアドバイスとかくれるのかなと思ったりしたけど、ネロは私に一切の口出しをしなかった。でも、だからと言って何も思わないわけじゃないよなあと考えてしまうのだ。
 具材を混ぜ合わせたタネをまるく形成する。一人だったらタネをちょっとつまみ食いしただろうけど……いや、味見は大事だ。これは味見、と心の中で言い訳しながら私はタネを一口食べた。思っていたより懐かしい味がして、ひとり感動してしまう。

「できた!」
きつね色に揚がったコロッケをお皿に並べる。どこからどう見てもコロッケだ。そして私は、見ないようにしていたネロのことを思い出した。興味はあるだろうし食べてもらったほうがいいんだろうけど、最初のコロッケが私のコロッケでいいのかという。
「……味見して失敗してなかったらですけど、食べてもらえますか?」
「成功してるよ。さっき味見してたときの顔でわかる」
「……じゃあ、」
コロッケを切るとき、サクッと気持ちのいい音がした。そのまま一口食べて、
「おいしい……」
自画自賛みたいになってしまったけど、ネロが「よかったな」と言ってくれたので私は素直に頷いた。

「ほんとだ、うまいな」
実際、ネロが食べるまでは不安だった。人に料理を食べてもらうの、こんなに緊張するんだって初めて知った。ネロはいつもみんなに料理を作ってくれるけど、緊張したこともあったのだろうか。
「お口に合ってよかった。コロッケっていう料理なんですけど、こちらにはないんですか?」
「聞いたことないけど、似たようなのでイモのかわりにホワイトソースを入れたのならあるな。クロケットって名前」
クリームコロッケみたいな感じだろうか。そういえばかぼちゃコロッケもあるなあと思い出す。意外と作れるものもあると知れてよかった。
「それ、賢者さんにも食べさせてやったら?」
「あ! そうですね!」
まず一つできました、と賢者様に言いたい。コロッケが日本食なのかは知らないけど、きっと喜んでくれるだろうと思った。私はネロさんの提案に感謝しながら、急いで賢者様の部屋へむかう。