5話

 オズにお礼を言いに行くかどうか迷っているうちに一日が終わってしまった。やったことと言えば、ベッドの上でゴロゴロと寝返りをうつことだけ。暖炉の火をひたすら眺めている誰かさんのようだ。……一日を無駄にしてしまった。なんとか挽回したいという気持ちがルウをベッドの上から動かした。
 しかし、ほとんど無計画だったルウはオズの部屋の前で立ち尽くすことになった。お礼を言うにしても遅くない? とか、干渉は好まないって言ってたじゃない、とか、あらゆる方面からグサグサとナイフが飛んでくる。
「……オズ、さっきはありがとう。ふかふかしてるし、お日様みたいな香りがしてすごく気持ちがいいの」
 ルウはドア越しに言った。聞こえているかもわからないし、オズがこの扉のむこうにいるという確証もない。ゆっくりと呼吸を三回する間に返事はなかった。しかし、諦めたルウがドアに背を向けようとしたとき、扉が開いたのだ。
「あ……オズ、」
「次に服を洗いたくなったら言うといい」
「いいの?」
「ああ。ほかに不便していることは」
「不便はしてないんだけど……」
 続きを言うかどうか迷った。退屈であると。贅沢な悩みであり、オズに相手をしてほしいというわけでもない。むしろこれからのことを考えれば、今のうちにゆっくりしておいたほうがいい気さえした。
 迷っているうちにルウはうつむいていた。視界の隅でオズの手がわずかに動くのが見える。見上げると、彼が腕を組んでいた。
「どうした」
「ええと、お城の中を見て回ってもいい? することが、なくて……」
「……手を」
「えっ」
 わけもわからないまま手を差し出すと、オズにそっと握られる。一瞬だったが、何かピリッと刺激が走ったような気がした。
「これで開けられる部屋なら入って構わない」
「今のって魔法?」
「そうだ」
手を握って、開いて。しかし何の感触も残っていない。ルウは半信半疑のまま、三階の気になっていた部屋にむかった。

 城の中でおそらく一番大きな扉だった。オズの言い方からして、ここが開くとは限らない。開けばいいな、ぐらいの気持ちだ。
 少し緊張した。そっと扉に触れると、じんと指先から熱が伝わってくる。ほとんど力を掛けないうちに扉が開き、ルウは誘い込まれたように中に入った。
 部屋の中には本がびっしりと並べられていた。書庫のようだ。なぜか甘い、バニラのような香りがする。ルウが何となく手に取ったこげ茶色の表紙の本には、魔法陣のようなものが描かれている。しかし、中を開いても読めなかった。知らない文字で書かれているのだ。ルウはそれを元の位置に戻し、他の本を開いてみた。違う種類の文字で書かれていることはわかるが、それでも読めない。オズなら読めるのだろうか。考えたところでちょうど、背後に気配を感じた。
「ここは書庫だ」
「そうみたいね。でも全然読めないわ。オズはこれ全部読めるの?」
 オズはルウの持っていた本を手に取った。ぱらぱらとページをめくり、本の半分ほどに到達したところでルウと目を合わせる。
「五百年ほど前に使われていた言葉だ」
「何が書かれているの?」
 オズはわずかに目を伏せた。文字を読んでいるのかと思ったけれど、よく見ると瞳は動いていない。どちらかというと考え込んでいるように見えた。
「言いづらい内容だったらべつにいいんだけど……」
「……オズというドラゴンを若い魔法使いが退治する話だ」
 オズが淡々と言うものだから、どんな反応をしていいのかわからなかった。オズはパタンと音を立てて本を閉じた。
「オズが魔法使いなんじゃないの?」
「魔法使いであることもあれば、伝説上の生き物、天災であることもある」
「どうしてそんな本を持ってるのよ」
「私が集めたわけではない。城にあるものの大半が人間が勝手に置いて行ったものだ」
「こんなの置いて行くなんて命知らずね」
 置いて行く人間もそうだが、それを丁寧に本棚に保管しているオズもオズだ。もしかしたら中身を確認しなかったのかもしれないが、今のオズの表情を見るに、内容に怒っているということはなさそうだった。慣れているのかもしれない。オズが女を食べるという話も探せば出てきそうだ。さすがに聞けはしないが。
「……おまえが気に病む必要はない」
「べつに、そんなつもりじゃなかったんだけど」
 オズは一冊の本をルウに差し出した。紙の色合い的にも新しそうなものだ。
「この文字は読めるか?」
 オズに言われて本を開く。よく知っている文字で書かれていた。
「うん、読める」
「部屋に持って行っていい。だが、あまり遅くまで起きておくな」
「え……うん、ありがとう」
 一日のほとんどを何もせず過ごしたせいで忘れかけていたが、もう夜だ。ルウはオズに選んでもらった本を抱き、部屋に戻った。ベッドに横になりながら、本を開いてみる。
 人間の男の子が小さな精霊と出会う話みたいだ。ほのぼのとした話で、読んでいるうちに瞼が重くなってくる。

 はっと目を開くと、朝になっていた。本を読みながら寝てしまっていたようだ。本を潰したりしていなくてよかった。ルウは上半身を起こし、ベッドに座ったまま本を読み進めた。
 文字が大きく、ページ数も少なかったので本はすぐに読み終わった。内容も子供向けだったが、楽しいと思えた。
 ルウはさっそく本を抱えて書庫へ行き、新たな本を探すことにした。
 いかにも古そうなものを避けて本を手に取る。三冊ほど手に取ったところで読めるものを見つけた。しかし本の中にオズという文字を見てしまい、なんとなく本を閉じてしまった。
 オズには悪いような気もするけれど、どんな話なのかは気になる。ルウは入口のドアが閉まっていることを確認してから再び本を開いた。
 この本の中ではオズは魔王として書かれている。魔王はお姫様をさらって、城に閉じ込めた。姫の気を引くためにあれこれプレゼントを与える魔王はオズとは似ても似つかない。だが、魔王の孤独に姫が寄り添い、心を通わせていく流れには胸がどきどきした。どうやらこれは恋愛小説のようだ。オズはいろんな話の題材にされているらしい。不憫な気もする。

 物語も終盤に差し掛かって、いよいよ目も離せないというところ。指を重ねあって目を閉じるふたり。やっとキスするところまで来た! という場面で「おい」と物語の外から声が聞こえてきた。その瞬間、ルウの意識が現実に戻る。振り返るとオズがいて、悲鳴に似た声を上げてしまった。
 残りあとわずかなページを閉じ、背中に隠す。もしかしたら見えていたかもしれない。想像するだけでぞっとする。
「なに、いつからそこに?」
「今来たばかりだ」
「ならいいけど……どうしたのよ」
「パンケーキを焼いた」
「パン……え、焼いた?」
「そうだ。いつもの場所に置いている。まだあたたかいはずだ」
いやいやそういうことじゃないでしょ、と行こうとするオズの腕を引っ張る。オズは煩わしそうな顔でルウを見下ろした。
「パンケーキが何なのかわからないけど、わざわざ焼いてくれたの?」
「……私もアーサーに言われて知った。はちみつやバターをかけるとおいしいと……幸せだと、」
 オズの声はだんだん小さくなっていった。その名を口にしたことを後悔しているみたいだった。オズの口からアーサーという言葉を聞いたのは初めてで、少しオズの内側に触れさせてもらえたような気がしたが、こんなオズの顔を見せられては素直に喜べない。アーサーという子供の存在の重さがのしかかってくる。オズを掴んでいたルウの手は、ずるずると落ちていった。
「……じゃあ冷めないうちに食べてくるわ。ありがとう」
 ……と言ったものの、ルウは動けずにいた。片手で背中に本を隠しているからだ。オズが先に出て行ってくれればいいのだが、なぜか動かない。さっき出て行こうとしていたじゃないか。引き留めたのは自分なのだから、文句も言いづらい。どうしようどうしようと考えて、ルウは駆け出した。両手で本を抱えるように持って、後ろは振り向かない。オズにしてみれば不可解なことこの上なかっただろうが、本を見られるよりはマシだからと自分に言い聞かせる。キッチンに着くころにはすっかり息が上がってしまっていた。

 まるくて、平べったくて、やわらかそう。そして、極めつけのおいしそうな香り。オズが焼いたというパンケーキを前にルウはごくりと喉を鳴らした。食べる前からおいしいとわかる。一口サイズに切って食べてみると、ほんのりと甘い。今までに食べたことのない味だ。表面はカリッとしていて中はふわふわしている。オズがこんなものを作れるなんて驚きだ。後で感想を言いに行かないと、と思っているうちに完食してしまった。