8話
朝一に現れたフィガロは眠たそうな顔をしていた。
ついにこのときが来てしまった。エントランスホールへ続く階段を下りる足取りは、重い。
少しだけ待ってほしい。先を歩くフィガロに声を掛けると、にこりと笑顔を向けられた。
「オズにお別れを言ってきてもいい?」
「いいけど、行く必要はないんじゃないかな」
ほら、とフィガロの視線が言う。ルウの肩の先をフィガロは見ていた。振り向くと、オズと目が合う。
「オズ……よかった、来てくれて嬉しい」
「おまえが部屋に押しかけると言ったのだろう」
オズはルウを追い越して階段を下りて行った。慌ててルウもそれに続く。
「ありがとう、助けてくれて。それから……早く元気になってね」
「……どういう意味だ」
オズはホールの中央で足を止めた。ルウは窓の外を確認して、やはり止まらない吹雪を仰ぐ。諦めにも近い笑いがこぼれた。
「聞いてたかもしれないけど、私は吹雪を止めるために生贄にされたの。でも、吹雪なんて止まなきゃいいって思ってた。村のみんな全員、埋もれて死ねばいいって」
フィガロの乾いた笑い声が聞こえた。オズは何も言わずにじっとルウを見ている。
「今はそんなことないし、どうでもいいって思ってる。でも、フィガロの言った通りオズが落ち込んでこうなってるんだとしたら、早く晴れてほしい」
「私に魔法をかけられたことを忘れたのか」
「……忘れてない。けど、ごめんなさい。どうしても言いたかったの」
「おまえは命知らずだ」
オズはふいにフィガロを見た。
「少しはしたたかに生きることを覚えておけ。……この男のようにとまでは言わない」
「……っ、オズにだけは言われたくないわ!」
オズは言葉を返さず、かすかに笑った。
フィガロの魔法のおかげで中央の国へは瞬きする間に着いた。街の中の人通りの少ない路地だった。オズの城とも南の国とも違う空気に触れた瞬間、涙がぼたぼたと落ちてくる。
「いや、本当に殺されたかと思ったよ……って、泣いてる? 大丈夫?」
フィガロの問いに、うんと頷いて答える。
「……ごめんなさい、大丈夫」
「戻りたいなら戻ろうか?」
「……戻らない」
そう言いながらも泣き止まないルウを前にフィガロは頬をかいた。俺が泣かせたみたい、という言葉にハッとして涙を拭う。人通りが少ないとはいえ、ここは街中だ。ただ、言ったわりにフィガロはあまり気にしていなさそうだった。
「オズのこと好きになったの?」
「……ん」
「あー……そっか。オズがきみを好きにならないかなと思ってたんだけど、逆だったか~」
「……オズ、そういう人には見えないけど」
「うん。でもアーサーのこともあったし、わざわざきみを拾ってきたぐらいだし、何かあるかなって」
「なーんにもなかったわ」
ルウが打ちひしがれているというのに、フィガロは「オズのどこが好きなの」と楽しそうにしている。フィガロに言うつもりはない。オズには一応言ったのだから、じゅうぶんだ。
「…………えっ、オズに言ったの? 返事はあった?」
これまた楽しそうなフィガロに、ルウはうんざりしながらも答えた。わからないと言われた。理解できる気がしないと匙を投げられたのだと。
フィガロは大笑いだった。しかしすぐにピタリと真顔になって「今のは優しくなかったな」とよくわからないひとりごとを言っていた。
アーサーに会ってみないかというフィガロの言葉に、ルウは言葉を失った。仕事を探そうと意気込んでいた気持ちに、妙なストップがかかってしまう。オズ心を動かしたアーサーという男の子に、興味がないと言えば嘘になる。ルウはひとり勝手に嫉妬のような感情をアーサーに向けていた。アーサーをどうこうしようという気持ちはない。だが、会えばきっと自身が落ち込む。「なんで」と、やっとのことで口にした言葉はそれだけだった。
「なんでって、興味あるかなと思って」
「……この辺りに住んでるの?」
「住んでるっていうか、中央の国の王子様だしね」
「……聞いてないわ!」
つまり、アーサーの影が常に見え隠れする街で生きていこうとしていたと。これが一年後だったら耐えられたかもしれない。けれど、今はだめだ。
「あれ、言ってなかった? もしかして怒ってる?」
「……怒ってない」
フィガロも、そしてアーサーも何も悪くない。これはオズの特別になれなかった八つ当たりだ。
「……アーサーに会ったら、悔しくて泣いちゃいそうだから……会わない」
「泣いちゃう? なんで?」
フィガロに遠慮という概念はないのだろうか。それとも「話したらすっきりするよ」という気遣いだろうか。ルウは後者に賭けることにした。
「だってアーサーはオズの大事なひとでしょ。私はオズにとってきっと何でもない存在だし、吹雪も止まないし、アーサーが羨ましいわ」
「ああ、なるほど。確かにきみはアーサーとは正反対かもね」
「……、どんな子?」
興味を隠しきれないルウにフィガロはくすりと笑みを向けた。
「オズ様オズ様って感じ」
「ふうん」
「アーサーが作ったポトフをオズは気に入ってたみたいだよ」
「なんでポトフはよくてグラタンはだめなのよ」
「あれは運が悪かったね。でも、きみはオズとよくやってたほうだと思うよ」
「……うん」
「あと数日でいなくなるってわかってるのに、わざわざ心を砕いたりなんてしないよ。少なくとも俺はね。きみは違ったみたいだけど」
「…………うん」
また泣いてしまいそうだったから、話は終わりにした。フィガロは街を案内すると言った。比較的治安のいい場所や、安く泊まれる宿、それから市場。歩いて回る中でもいくつか仕事を募集しているところは目に入った。
「どう? どこか気になった場所はあった?」
「うん。働かせてもらえないか聞いてみる」
「そう、じゃあ行ってみようか」
え、と立ち止まるルウに続いてフィガロも足を止めた。一緒に行ってくれると、まさかそこまでフィガロがするとは思わなかった。
戻らないのかと聞いてみると、また怪我でもされたらたまらないからと言われた。その話を持ち出されると痛い。ルウとしては無茶はしないと決めたつもりだが、フィガロにしてみたら危ういのだろう。
「一応見届けてからじゃないとね。オズにも報告したいし」
「……興味ないと思う」
「それはオズが決めるよ」
「……うん」
まずはパン屋に行ってみようと思う。だめなら確か、宿屋にも張り紙が出ていた。
街を歩けば視界の隅に嫌でも大きな城が入り込んでくる。今は目を逸らすことしかできないけれど、きっとそのうち気にならなくなる。
働いて、お金が貯まったら北の国へ行ってみるのもいいかもしれない。そのころには吹雪は止んでいるだろうか。