7話

 夢を見ていた気がする。初めて南の国に来て、住む場所を探して、それからフィガロ先生に会った。南の国を作ったフィガロ先生の噂は聞いていたから、最初はちょっと恐縮した。でも全然そんなことはなくて、優しくて、私が「フィガロさま」って言うと「こーら」って怒られてしまうのだ。
 いつ先生のことを好きになったのかは覚えていない。言うつもりもなかった。でも、先生が遠くに行ってしまうと思ったら、止められなかった。先生の反応は悪い意味で想像通りで、やっぱり伝えなければよかったと後悔した。

 目が覚めると、全部思い出していた。記憶を失っていたときのことも覚えている。さっきまでの私も、フィガロ先生のことを好きになりかけていた。私は私に嫉妬していた。あの黒い煙みたいなのはきっと私自身の心だ。先生は私を通して、記憶を失う前の私を見ているのだと思っていた。でも、全部見当違いだ。元の私だって、フィガロ先生の特別にはなれなかったのだから。
 むくりと体を起こすと、隣にフィガロ先生が目を瞑ったまま座っていた。……手が繋がっている。フィガロ先生は本当にひどいことをする人だ。泣きたくなるのを堪えて、私は呪文を小声で唱えた。このまま、全部忘れた振りをするのもいいかもしれない。
 それでも繋がれた手を離すのは惜しかった。ずっと繋いでいたかった。でも、離れなければ。手を引くと、ただ繋がっていただけのはずのそれが、明確な意思を持って絡みついてきた。
「オディリア」
「えっ」
フィガロ先生のこんな表情、初めてだった。笑っているけど悲しそうだ。それと、名前を呼ばれてしまった。
「あの……」
覚えてない振りをするか決めきれなかった。一生そうやって南の国で生きていく自信はないし、何より先生にはもうバレている気がする。私に纏わりついていた北の魔法使いの気配だって、もう消えているのかもしれない。
「オディリア、よかった」
ぎゅう、と抱きしめられる。まだ夢を見ているのかもしれない。先生の体重を支え切れなかった私は、ベッドに倒れてしまった。
「……先生はひどい人ですね」
私はフィガロ先生の背中に腕を回した。たぶん、私と先生とじゃ意味が違う。でも、先にやったのはフィガロ先生だから、このくらいは許してほしい。
「そんなに俺、酷かった?」
「どうしてあんなに優しくしたんですか」
思い出したとき、私がみじめな気持ちになるのわかるでしょう。放っておいてくれたらよかったのに。
「うーん……言ったら俺、オディリアに嫌われちゃいそうな気がするんだよね」
「嫌いになったらいけませんか?」
「……」
「なりませんよ。約束します」
は、と息を呑むのが聞こえた。
「……馬鹿な子だ」
「……はやく、教えてください」
「わかったよ。えーと……まあ、早く思い出してほしかったっていうのもあるんだけど」
フィガロ先生は言葉を切った。背中と頭に回された手に力が入る。
「思い出さないなら思い出さないで、また俺のこと好きになればいいって思った」
「な……」
「どう、嫌いになった?」
約束を破って、どういう風に魔法が使えなくなるのかは知らない。使えるかどうかわからなかったけど、私は呪文を唱えた。
「……え」
フィガロ先生の体が浮いて、反対側の壁まで吹っ飛んだ。壁に背中を激突させた先生は「いてて」と腰をさすっている。
「年寄りになんてことするんだ」
「いつまでも覆いかぶさっているからです」
「まだ俺のこと好きでいてくれるんだ」
「……そんな約束はしてないからわかりません」
「ああ、そうか。嫌いじゃないんだっけ」
「……好きです」
「……そっか、嬉しいよ」
フィガロ先生はやっぱり私の欲しい答えをくれない。また涙が込み上げてきた。さっきの呪文が切れかけているのだろう。唱えようとしたら、フィガロ先生に先を越されて私の口は動かなくなってしまった。
「ん、んむ!」
「その魔法、あまり使わないほうがいいよ。使いすぎると心が壊れてしまう」
フィガロ先生がパチンと指を鳴らす。縫い付けられていた私の口が勢いよく酸素を吸って、悲鳴のような声が漏れた。
「……だって」
「泣きたければ泣けばいいんだよ。オディリアのそういうところ、俺はかわいいと思ってる」
ぐす、と鼻をすすると頭を撫でられた。
「……かわいいですか」
「あはは、そういうヤケになってるところもいいね」
くやしい。嫌だと振り払えない。フィガロ先生の手は、私のこと好きなんじゃないかと錯覚しそうになるほど優しくて、残酷だった。

「ねえ、どうして北の国なんか行ったの?」
ようやく涙が止まりそうになったとき、頭上から問いかけられた。そう言えば、そんなこともした。何でもいいからフィガロ先生のことが知りたくて、生まれ故郷に行ってみようと思ったのだ。

 北の国の風は冷たかった。身震いしながら箒で飛んでいると、同じく箒に乗った魔法使いに声を掛けられた。
「フィガロの知り合いか?」
男は言った。いい感情を向けられていないのはすぐにわかった。「だったら何?」今までに出したことのないぐらい低い声が出た。
 男はそのあとフィガロ先生のことを貶すようなことを言った。それに私が反論したのが気にくわなかったのだろう。彼は強かった。先生が掛けてくれた祝福の魔法のおかげで命を失わずに済んだようなものだ。

「……いや、待って。北の国でそれは命知らずだよ」
「だって先生のことを悪く言うから」
「きみがそんなに血気盛んなの、知らなかった」
「……すみません」
「どうして謝るの」
「フィガロ先生のことを詮索しようとしたから。ごめんなさい」
「それはいいけど……俺が北の国の出身って知ってたの?」
「知ったのは最近です。南の国を作る前はどこにいらっしゃったのかなと思って、中央の国の書物を調べました」
と言っても、出回っている書籍に大したことは書いていなかった。見つけたのは古物を扱っているちょっと怪しげな店で、ボロボロの本に記述されていたのは、かつて世界征服を試みた恐ろしい魔法使いと、その片棒を担いだ魔法使いのことだった。
「……え、そこまで知ってて?」
「本当のことなんですか?」
「あー……いや、うん」
バツが悪いのか、フィガロ先生は髪をかき上げた。
「後悔してるんですか?」
「いや、後悔とはちょっと違うかな」
「でも、今は真逆のことをしてますよね」
「……まあ、色々あって」
「色々」の内容は言いたくないのだろう。それでも今日はたくさん喋ってくれたほうだ。先生は普段から誤魔化すことが多いから。先生が話したくないのなら、これ以上聞くのは止めておこうと思う。
「ねえ、そこまで知っててどうして怖がったりしないの?」
「私は……ここに来てから感じたことを大事にしたいです。フィガロ先生は優しい人だと思います」
「……そう」
「それに、嫌いになったら魔法が使えなくなっちゃうので」
フィガロ先生の手を上から握って、私はその隙間にシュガーを作った。
「……これ以上ないぐらいの証明をありがとう、オディリア」