Where there's smoke, there's fire
突然現れた血まみれの女性。血は紛れもなく本物。そして米花公園のトイレには彼女の言った通り、人が倒れていた。ただの不運な女性なのかもしれないが、そう簡単に結論付けできない理由が沖矢にはある。沖矢は栞に嘘をついた。まず、あの刃物を持った男はまだ捕まっていない。彼女とあの男がグルなのではないかと疑ったのだ。もしそうなら、あの男が捕まったという話に彼女は動揺するはず。しかし見えたのは、安堵の表情。演技かどうかは判断できなかった。彼女の身のこなし、雰囲気ともに気になる点はない。組織の関係者かと勘繰ったのだが、そうではないのだろうか。しかし、疑問に残る点もある。彼女は何故この屋敷を訪ねてきたのか。米花公園から決して遠いわけではないが、近くもないこの屋敷。沖矢昴のことを探りに来たのか、それとも工藤新一か、江戸川コナン、灰原哀。材料は少なくない。沖矢はパソコンのモニタを眺めながら煙草を灰皿に押しつけた。
一方彼女はベッドの中で丸くなって、すすり声をあげている。彼女が部屋を探る様子は見受けられない。脱衣所も沖矢の指示した場所しか触らなかったようだ。これ以上は明日、録画を見返すだけでいいだろう。何も好んでこんな映像を見ているわけではないのだ。沖矢はモニタの電源を落として、床についた。
機械的な音で、目を開く。起きてすぐにとった行動は、モニタの確認。彼女はまだ寝ているようだった。一服してから、スマートフォンを手に取る。栞のことをコナンに報告するためだ。
「学校が終わったらすぐに行くから、それまで栞さんを引きとめておいて」
これが、コナンからの返事。随分と簡単に言ってくれるものだ。コナンが工藤邸に到着するのは、午後三時ごろだろう。それまで栞をどうやって足止めしておくか。沖矢は朝食の準備をしながら、頭を巡らせた。しかし、そのほとんどの策を実行しなくて済みそうだった。彼女はなかなか目を覚まさなかったのである。
カメラの録画を確認して分かったのは、栞が沖矢の目覚める少し前に眠りについたということ。だからといって、彼女が部屋で何かしていたというわけではない。沖矢が寝る前と同じく、ベッドの中で小さくなって、苦しそうに寝返りをして、涙を流していた。彼女のことを疑うのは見当違いだと思わせる材料が増えてゆく。だが一方で、彼女の不審な点も浮かび上がってきた。
洗濯した栞の服だが、薄いシミは残ってしまった。事情を知らない人間が見て、それが血だと思うことはないだろう。しかしそんな恰好で外を歩かせるのも忍びない。コナンの用が済んだら、彼女を家に送り届けようと考えていた。もちろん、彼女があっさり家を明かせばこれ以上の詮索を止めようと思っていたのもある。
沖矢はパソコンに栞の住所を打ち込んだ。どうしてそのようなことができるのか。それはあのとき、彼女が男に襲われていたときのことだ。沖矢は素早く彼女の財布から身分証を抜き取っていたのである。そこに記されていた住所は、沖矢の知識の中には存在しなかった。だが、そこまで気に留めてもいなかった。全ての地名を知っているわけではないからだ。しかし、調べてそのような地名が存在しないと判明したなら話は別である。あの保険証は偽装だったのか。だがそれなら尚更おかしい。身分を偽る必要があるなら、わざわざ架空の地名を記載する必要がない。誰かに調べられたらすぐにバレてしまう。まさに今がその状態だ。
栞を白か黒かと判断するには、まだ足りない。そして、眠っている彼女から何かを引き出すこともできない。沖矢は彼女が目を覚ますのを待つことにした。
バタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。時計の針は頂きに差し掛かろうとしているところだ。沖矢は栞に貸した部屋のほうへ向かった。
「あ! 沖矢さん!」
階段を挟んで、彼女と目が合う。
「おはようございます。……もう昼ですが」
「ごめんなさい!」
速足で階段を下りる彼女。昨日は折り曲がっていた寝間着の裾が、片方だけ元に戻っている。
「そんなに急ぐと危ないですよ」
「は、はい……あっ」
もう少しで階段を下りきるというところで、栞は垂れ下がった裾に足を滑らせた。ある程度予想はついていたので、沖矢はそれを難なく受け止める。必要以上の力を入れて彼女を引き寄せると、彼女は耳まで真っ赤にして固まった。しかしそれも数秒のこと。彼女は沖矢の腕の中で、ジタバタともがき始めた。
「あ、あの! 沖矢さん……!」
栞の脈は異常なほど早かった。演技ではない、ということでいいだろう。沖矢は彼女の体を解放した。
「すみません、ほんとに……」
彼女は二歩ほど沖矢から離れて、頭を下げた。
「いえ、怪我をしなくてよかった」
「そのこともですけど……こんな遅くまで寝てしまって……」
「気にしないで下さい。昨日は遅かったですし、お疲れのようでしたからね」
結果的に好都合だった、というのはもちろん口に出さない。コナンの到着まで、あと三時間ほど。それまで彼女を足止めしなければならないのだが、あまり手荒な手段はとりたくない。彼女が一般人だった場合が面倒だからだ。
「せっかくですので、お昼を食べていって下さい」
「え、でも……」
「一人暮らしだと、どうも張り合いがなくて。食べていただけると嬉しいのですが……」
彼女は少し迷うような素振りを見せたあと、控えめに頷いた。
「何か食べたいものはありますか? と言っても、そんなに難しいものは作れませんけど」
温めるだけで食べられる状態のシチューが冷蔵庫の中に入っているが、それでは時間稼ぎにならない。かと言って、昼間から凝ったものを作り始めるのも不自然。なるべく会話を増やし、自然に時間を経過させる。
「いえそんな! 私、寝起きでそんなにお腹空いてないですし――」
ぐう、とタイミングよく音が鳴る。彼女は両手を腹部に当てて、更に顔を赤らめた。
「遠慮は結構ですよ。どうせ僕の分も一緒に作りますので」
「はい……すみません……」
彼女は手伝いをさせてほしいと言ってきたが、適当な理由を付けて断った。
「じゃあ、私……着替えてきますね」」
「それなんですが、あの服はシミになってしまいましたし、このままでも構いませんよ」
「そんな……悪いですし、えっと……この格好で外を出歩くのは……」
「車を出しますので。それなら大丈夫でしょう?」
沖矢がそう言うと彼女は一瞬だけ目を伏せて、寂しそうな顔をした。けれどすぐに笑顔を作って首を振る。
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫なので……」
彼女は背を向けて、まるで逃げるかのように部屋へ戻ってしまった。
「沖矢さんって、料理お上手なんですね。すごく美味しいです」
「お口に合ったようで何より。以前は全くでしたが、最近は気分転換も兼ねてやっているんです」
料理をするようになった一番の理由は別のところにある。冷蔵庫に入れてあるシチューも、そのために作ったもの。料理が気分転換になるという言葉は決して嘘ではないのだが、まさかこんなところ役に立つとは思っていなかった。
「それで、昨日の話の続きですが……」
二人が食事を終えるタイミングで沖矢は切り出す。以前住んでいたアパートが火事で燃えてしまいここに住ませてもらっていると、それだけを簡潔に説明した。コナンのことを伏せておいたのは、沖矢が彼女をまだ疑っていたからだ。
「……大変だったんですね」
「ええ。ですがそのおかげで知り合いも増えましたし、ここでの生活も楽しんでいますので」
今ではすっかり板に付いた笑みを彼女に向ける。すると彼女は少しだけ安心したように顔を綻ばせた。
それから他愛のない会話を続けていたが、そろそろ限界だろう。しかし時刻はまだ十三時を過ぎたところ。次の策に移ろうと、沖矢は立ち上がった。しかしそのとき、ポケットの中の携帯が鳴る。コナンからの電話だった。沖矢は栞をその場に残し、部屋を出た。
「どうしました?」
「あと十分ぐらいでそっちに行けそうなんだけど、大丈夫?」
「ええ、思ったより早いですね」
「うん……まあ……。それよりどうなの? 栞さんっていう人」
「怪しいと言えば怪しいですね」
「うーん……とりあえず、僕がそっちに行くまで栞さんを足止めしててね」
そこで通話は終わった。しかし、沖矢は部屋に戻らなかった。あと十分程度ならこのまま電話する振りをしていればいいと考えたからである。彼女も沖矢に黙って家を出て行くなんてことはしないはずだ。
そろそろコナンの到着かというところで、部屋に戻る。沖矢の予想通り、彼女はソファの上で大人しくしていた。
「すみません。電話が長引いてしまって……」
「いえ……それより私――」
いいタイミングだった。彼女の言葉を遮るようにインターホンが鳴る。
火のないところに煙は立たない