Bravado is of no use
「コ……」
栞は慌てて言葉を飲み込んだ。“コナン”と口に出してしまうところだったのである。玄関から戻ってきた沖矢に続いて現れた人物――インターホンを鳴らしたのは江戸川コナンだった。
ばっちりと目が合い、沈黙が続いた。嫌な汗が流れる。そんな中で栞が絞り出した言葉は、本当に当たり障りのないものだった。
「こ、こんにちは……」
「……こんにちは、僕は江戸川コナン。お姉さんは?」
先ほどまでは鋭い目つきをしていたコナンはにっこりと笑って、子供らしく言った。
沖矢のアパートが放火された際に、二人は知り合ったらしい。沖矢にこの屋敷に住むように提案したのも、コナンだという話だ。栞はすぐに帰ろうと思っていたのだが、コナンからの質問攻めでなかなか家を出られずにいた。
「大変だったんだね、栞さん」
これまでのいきさつは、ほとんど沖矢が説明してくれた。しかし、それだけではコナンは納得しなかったらしい。でもさあ、と言われる。
「そんな時間に公園のトイレなんて危ないよ。せめてコンビニのトイレとかにすればよかったのに……」
「そ、そうだね……。場所が、ちょっと……わからなくて……」
深く考えずにそう言った。しかし、栞はこの発言をすぐに後悔することになる。相手はコナンだ。見た目は子供でも、中身は高校生。しかも彼は名の通った探偵なのだ。
「栞さんって、この辺の人じゃないんだ?」
「うん……」
「でも、電車もない時間だったんでしょ? そんなとこで何してたの?」
「それは……色々あって……」
明らかに不審に思われている。話せば話すだけ何かボロを出してしまいそうだった。
「えっと、ごめんなさい! 私、そろそろ失礼します」
乱暴に鞄を掴んで、玄関へ向かう。綺麗に揃えられていた靴を履いている途中で、栞はあることに気付いた。
「あ……あの、沖矢さん」
後ろを振り向くと、沖矢と目が合った。
「靴……拭いてくれたんですね。それに玄関も……。すみません、私がしないといけなかったのに」
足を滑らせた原因は、トイレで亡くなっていた人物の血だった。つまり靴にも血がべったりとついていたはずなのだ。昨日はそんなことを気にする余裕はなかったのだが、きっと玄関やインターホンも汚してしまったことだろう。だが、そんな形跡はどこにも見当たらない。沖矢に掃除をさせてしまったということだ。
「いいえ」
沖矢はゆるやかに首を振った。そして何故か彼も靴を履こうとしている。
「車を出します。栞さんはこの辺りの道に詳しくないようですから」
つくづく迂闊に喋ることもできないと実感した。ここで下手に断ると、不自然だろうか。そうは思っても、送ってもらう家などないのだから、どうにかして誤魔化しておきたい。
「……それはありがたいんですけど、コナン君も沖矢さんに何か用事があったんじゃ……?」
コナンは先ほどから栞に質問ばかりするだけで、この家に来た理由はわからなかった。彼は工藤新一で、この屋敷の住人でもあるのだから、訪ねてくること自体に不思議はないのだが、沖矢がそれを知っているのかは確認のしようがない。
「ううん! 僕はちょっと寄っただけで、用事ってほどでもないから。僕も一緒に栞さんの見送りに行ってもいい?」
「うん……。じゃあ沖矢さん、お願いします……」
三人で家を出て、沖矢の車に乗り込む。栞が助手席に、コナンは後部座席に座った。沖矢は家まで送るつもりのようだったが、丁重に断る。駅まででいいと何度も言うと、ようやく彼は納得したのだ。
「沖矢さんは何をされてる方なんですか?」
これ以上何か聞かれる前にと考えた作戦。それは会話の主導権を握って、相手に質問させる隙を与えないという単純なもの。それと少し、親切にしてくれた沖矢のことを知りたいと思う気持ちもあった。
沖矢は大学院に通っているそうだ。レポートの作成は家でもできるということで、割と時間に都合がつくらしい。昨日も遅くまで起きていたのはその関係だったということ。邪魔をしてしまって申し訳ない気持ちになる。
他にはシャーロックホームズが好きで、コナンとは気が合うそうだ。わざわざ米花公園に出向いたのは単に興味があったからなのかと、一応の納得をする。たしかコナンも事件現場には大人を無視して走って行ってしまうところがあったから、そういうものなのだろうと。
そんな話をしているうちに、駅に着いた。作戦は成功である。多分――栞の考えが及ぶ限りでは変なことは言っていないはず。沖矢に頭を下げて、コナンに手を振って車を降りる。そのまま振り返らずに、改札口へ向かった。
「え……」
改札は開かない。それもそのはず。栞は切符を持っていない。持っているとすれば、元の場所で使っていたICカード。スマートフォンのケースにいれていたそれをかざしたところで、この世界の改札が反応しないのはよく考えればわかることだ。しかし、それなら昨日はどうやって改札を通ったのか。あまりに自然な動作だっためそこまで記憶に残っていないのだが、確かにこのカードで通ったような気はする。
立ち止まっていると、後ろから咳払いが聞こえた。
「あ、すみません!」
慌ててその場から離れる。何となく周りに見られている気がして、顔を俯けた。
切符を買って電車に乗ってみてもよかったが、それでは普通に電車の目的地に着いてしまうだけのような気がした。それに路線が多く、どれに乗ればいいのかもわからない。かすかな希望が一つ、打ち砕かれたかのようだ。
栞は時刻表を確認して、駅を出た。このままここに居ても仕方がない。ただ、夜にもう一度ここに戻ってくるつもりではあった。昨日は終電に乗ってここに来てしまったのだから、この駅から出る一番最後の電車なら何かあるのはないかと考えたのである。それまでは、もしも帰れなかったときのことを真剣に考える必要があった。
工藤邸と反対方向に進む。どちらかというと、店が多い。求人の貼り紙があるところを何軒か回ってみたが、そのすべてで不審な顔をされた。身分証もない、電話もない、なんとか話が進んだとしても、振込用の口座もないとなると流石におかしいと思うようだ。
多分、ここはもともと住んでいた場所とそんなに変わらない。とても便利で、住みやすい世界。ただしそれは、その世界の住人にだけ与えられた権利なのだろう。
本当にどうしようもなくなったら、財布の中の身分証を使おうとは思っていた。運が良ければそれで銀行口座を作り、職に就くことができる。もしも身分証が偽物だとバレて警察に捕まることになったとしても、食べるものと寝る場所が提供される。それが有り難い話だと思うのはおかしいことだろうか――。
しばらく歩くと、街から外れたところに出た。人通りも少なく、店も見当たらない。ここで仕事を探すのは難しそうだ。駅方面に戻ろうかと思ったが、一つ目に留まったものがある。古びた倉庫のような建物。敷地の入り口にはチェーンがかけてあって、今は使われていないのだろうとわかる。栞は誰にも見られていないのを確認して、鎖を跨いだ。
鍵がかかっていなかったらしく、扉はすんなりと開いた。中はただ広いだけで何もない。勝手ながら今日はここで寝泊りさせてもらおう。しかし、その前にやらなければならないことがある。終電で元の世界に帰ることができるかを試すのだ。もしダメだったら、今日はここで寝て、明日からは身分証を使って本格的に仕事を探す。そう決意した。
強がりなど、何の役にも立たないのに