She wants a change

 栞はクタクタだった。この二日間、少年探偵団の付き添いということで、キャンプに行っていたのだ。工藤邸の隣に住む、阿笠博士と呼ばれる人物だけで面倒を見るのは大変だからということ。そういうことならと、栞は快く了承したのである。沖矢は論文の期限が近いらしく、屋敷に残っていた。
 キャンプ自体は楽しかったのだが、探偵団の若さ溢れるパワーに栞がついて行けるかというと、そういうわけにもいかない。阿笠一人では大変だからという話もどこか聞き流していた。しかし、今になって痛いほど思い知らされたのである。
 栞はコナンと二人で沖矢が迎えに来るのを待っていた。阿笠の車に全員乗り切ることができないからだ。論文を完成させなければならない沖矢にそんなことを頼むのも申し訳ない気がして、電車で行くと主張したが、沖矢は首を横に振った。もともとは沖矢が付き添うことになっていたのを断ったのだから、ということらしい。
「栞さん、疲れてるね」
「うん、あんまり運動とかしないから……。コナン君は元気だね」
コナンが苦笑いをする横で、背伸びをする。ちょうど沖矢の車がやってきて、慌てて姿勢を元に戻した。
「すみません、おまたせしました」
「いえ! 沖矢さんも忙しいのにすみません。論文はどうですか?」
「おかげさまで無事に。……お疲れでしょうし、早く帰りましょうか」
 車の中で、窓に流れる景色を見ていたはずだった。しかし、優しい揺れが眠りをさそう。栞はいつの間にか眠ってしまっていた。
「寝ちゃったみたいだね、栞さん」
「そのようです。今晩にでも例の話をしようと思っていましたが、明日のほうが良さそうですね」

「んー……」
体が揺れているような気がする。せっかく気持ちよく眠っているのに。栞がゆるゆる目を開くと、すぐ近くに沖矢の顔があって、一気に頭が覚醒した。
「ごめんなさい!」
よく考えもせずに、思い切り身を後ろに引いた。もちろんここは車内なので、窓に頭をぶつけてしまう。
「大丈夫ですか?」
「は、はい! 大丈夫です! すみません、本当に……」
「いいえ、僕も役得でしたし。今日は早めに寝たほうがいいかもしれませんね」
「……そうさせて頂きます」
 入浴だけ済ませて、栞はベッドに倒れ込んだ。だが、数時間後。鳴るはずのないアラーム音で彼女は目を覚ますことになる。

 夢でも見ているのか、それとも夢を見ていたのかと思った。栞の眠りを妨げたのは、彼女の携帯のアラーム音。これは職場で終電に乗り過ごさないために設定したものだ。この世界に来てからスマートフォンは起動しなかった。捨てるのも抵抗があり今まで持っていたのだが、どうして今になって電源が入っているのか。
 部屋をぐるりと見渡す。ここは工藤邸で、栞の自宅ではない。このままアラームを消して眠ってしまっていいのだろうか。ざわざわと心の中がうごめく。落ち着かなくて、何気なく部屋のカーテンを開いた。窓からは綺麗な満月が顔を覗かせている。そこで、彼女は一カ月前のことを思い出した。
 あの日、この世界に来てしまった日も満月だった。この屋敷に入るときに、やけに不気味だと確かに感じた記憶がある。もしかして、と彼女は思った。急がなければならないが、とても外に出る格好ではない。栞は最初、ここに来たときの服に着替えて部屋を出た。
「おや、栞さん。こんな時間にお出かけですか?」
沖矢はリビングで本を読んでいたようだ。彼に何と説明すればいいのだろう。このまま黙って出ていくなんてできない。しかし、詳しく話をするだけの時間も残されていないのだ。ちゃんと沖矢と向き合わなかったツケがこんなところで回って来た。いまさら後悔しても遅いのだが、どうしても過去の自分を呪わずにはいられなかった。
「あの、突然ですけど……私、家に帰ろうと思って……」
「……本当に突然ですね」
「すみません、こんなに親切にしてもらったのに……」
「理由を話して頂けませんか?」
「……ごめんなさい、多分、あんまり時間が無くて……自分勝手なことを言っているのはわかってるんですけど……」
キズだらけになった鞄を抱きしめ、ぐっと涙を堪える。すると沖矢は本をテーブルの上に置いて、立ち上がった。
「車を出します。だから少しだけ話をさせてください」

 駅に向かう車の中、気まずい沈黙が流れる。先に口を開いたのは沖矢だった。
「帰ってほしくないと言ったら、困らせてしまいますか?」
「え……?」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。今まで黙っていたことを問い詰められるのだろうとばかり考えていたのだ。
「ごめんなさい……。あの、私……もともとの仕事とか、中途半端なままこの街に来てしまって……。家族にも連絡してなくて、心配を掛けてると思うんです……」
「そうですか」
もっと話さなければならないことはたくさんあったはずなのに、栞は元の世界のことばかりを沖矢に話していた。仕事のこと、仲の良い警察官の友人のこと。沖矢は栞の話を遮ることなく、静かに相槌をうつ。そして、あっという間に駅に到着した。
 車を降りようとすると、沖矢に手を重ねられる。
「本当に帰ることができるんですか?」
「沖矢さん……もしかして……」
彼は気付いていたのだろうか。帰ることができるか、という質問は、事情を知っていないと出てこないはず。
「いつまでも時間があると思って、大事なことを後回しにしたのは間違いでした。詳しいことは屋敷に戻ってお話したいのですが……」
握られた手に、それほど力は込められていない。振り払って駅に走ることもできた。だが、栞はそれをしなかった。
 ちらりと車の時計を見る。屋敷を出てからそれほど時間は経っていない。それに終電まで、もう少し時間が残されていることを栞は知っていた。一度終電で元の世界に帰ろうとしたことがあったからである。
「あの……本当に帰ることができるかは、分からないんです……。でも、多分……今日を逃したら次はないかもしれなくて……」
携帯の充電は残りわずかだった。一カ月後にまた帰るチャンスはやってくるのかもしれないが、それも確かでない。
「沖矢さんには、事情も話さずにっ……甘えてばかりで、悪いことを、したって……」
堪えていた涙がとうとう流れ落ちた。
「すみません。泣かせるつもりはなかったんです」
「そんなの、分かってます……沖矢さんは何も悪くないです。 私が、私が……」
沖矢の大きな手が涙をすくう。
「信じられないかもしれませんが、聞いてください」
「……はい」
「帰ったら、あなたは命を落とすことになるかもしれません。理由も屋敷に戻れば説明できます。だから僕と一緒に来てくれませんか?」
沖矢の表情は、冗談を言っているようにも見えなかった。沖矢の言葉がすんなり胸の中に入ってきたのは、ここ一カ月で不思議な体験をしたからなのか、それとも沖矢への信頼からなるものなのか。
「……どうして私、死んじゃうんですか?」
「僕の話を信じていただけるんですか?」
「沖矢さんは私のことを見つけてくれたし……ご飯も私の好きなものばっかり作って、何でもお見通しなのかなって」
へらりと笑顔を作ると、沖矢も少しだけ笑ってくれた。そのことに、ひどく安堵する。
「栞さんの家の近くの裏道、あなたは普段その道を使わない。ですがあなたは疲れていて、早く家に帰りたくて、あの人通りの少ない道を通ってしまうんです」
栞は息を呑んだ。沖矢の言う裏道というのに心当たりがあるのだ。やはり彼は何かしら知っている。そのことを確認したかったが、そこまでの時間はない。栞は黙って話の続きを聞いた。
「そこであなたは通り魔に襲われてしまいます。気絶して、犯人の家に連れて行かれて……」
沖矢は言葉を濁した。しかし彼の言いたいことは伝わった。
「分かりました。……でも私、帰ろうと思います」
「どうして……。やはり信じていただけませんでしたか……」
「違うんです。……あの、約束します。裏道は絶対に通らないって」
握られた手に、ぎゅっと力が込められる。痛かったが、嫌な気はしない。
「絶対に……約束ですよ。そうでないと、僕はこの手を離しません」
「はい……。だからそんなに心配しないでください……」
沖矢の手が離れる。栞は車を降りて、沖矢に別れを告げた。上手く笑えていただろうか。涙で顔がぐちゃぐちゃになっていたかもしれない。
 名残惜しく思いながらも、ドアを閉める。すると車の窓が開いた。
「さっきの小説」
「……え?」
「僕がリビングで読んでいた小説です。とても面白くて、早く続きが読みたくて仕方がありません。ここで小説を読み終えてから僕は帰ろうと思います。だからもし、あなたの気が変わったら――」
「うそつき。……でも、ありがとう」
 栞は駅に走った。ICカードをかざすと、改札が開く。栞を待っていた電車の中には、何故か人が居ない。彼女はゆっくり瞼を閉じて、電車の揺れに身を任せた。

 聞き慣れた地名のアナウンスに、ハッと目を開く。電車はちょうど、栞の家の最寄り駅に到着したところだった。
 立ち上がろうとすると、体に違和感を得る。何故かあちこちに筋肉痛のような感触があるのだ。それだけではない。服も、鞄も、靴も、何故かボロボロになってしまっている。全く心当たりがなく、気味が悪い。しかし、考えていても仕方がないので、彼女は家に帰ることにした。
 ふと、小さな薄暗い道が目に入る。いつもは避けているが、どうしても体の疲労に耐えられなかった。
 裏道に入る瞬間、頭の中がぐらりと揺れるような感じがした。きっと具合が悪いのだろうと、なおさら早く帰ったほうがいいと彼女は考えた。そして、足を進めてしまったのである。
 裏道のちょうど真ん中あたりで、フードを被った男性らしき人物がいた。少し怖かったが、静かにその横を通り過ぎようとする。しかし突然、後ろから腕を捕まれた。
 栞が振り向くと、男は刃物を振りかざしていた。初めての出来事のはずなのに、何故かフラッシュバックが起きる。そして、彼女はすべてを思い出した。そこで一度、記憶は途切れている。

 目を開くと、見慣れぬ天井が飛び込んできた。体を起こそうとしても、力が入らない。目だけを動かして部屋の中を確認すると、そこには数枚の女性の写真が貼られていた。女性たちは皆、皮膚の色が変色していて、髪が不揃いに切り落とされている。自分の姿を確認することはできないが、きっと同じような状態なのだろう。
 沖矢の言っていたことが現実になってしまった。どうして忘れてしまっていたのだろう。帰ったら、あの世界の物語を読もうと思っていた。コナンのこと、米花街のこと、そして沖矢のこと。この世界を捨てるまでには至らなかったが、栞は工藤邸での生活も嫌いではなかった。彼らのことをもっと知りたかった。きっと沖矢も物語の登場人物で、謎だらけだった彼のことを知るチャンスだと考えていたはずなのに――。それがもう叶わない願いだと栞は気付いていた。悔しくて、涙が止まらない。息をするたびに胸がきしむ。目を開けていることすら辛くて、彼女はもう一度意識を手放した。

当然のように明日があると思っていた