4話

 絵画の中に広がっていたのは、ドミネウスの屋敷とそう変わりなく見える場所だった。しかし窓の外は虹色で、不気味さが増している。飾られているメレアーデの肖像画も、何かありそうで怖い。
「キュルル、いる? いるなら返事して」
一人では不安になってしまうため、キュルルを呼んだ。しかし、キュルルは呼びかけに答えてくれない。眠っているだけならいいが、はぐれてしまっていたら。レネの額に汗が浮かぶ。
 戻ってクオードを呼んで来たほうがいいかもしれない。レネは絵画に触れようと手を伸ばす。だがレネが戻るより先に、クオードが絵画の中から現れた。
「クオード!」
たぶん、安心したのだろうと思う。それほど一人は心細かったのだ。レネはクオードに駆け寄って、それから――。
「な、なんだ」
「あ……いや、べつに……」
クオードの戸惑ったような声で我に返り、とっさに掴んでしまった腕を離した。
「ザグルフから貴様が絵画の中に吸い込まれてしまったと聞いたんだ。それで後を追ってきたんだが……」
驚いた、とクオードは呟く。レネもそれに同意し頷いた。だが、クオードが驚いたのは絵画の中に空間が広がっていたことだけではなかったようだ。
「ザグルフが俺以外のやつとマトモに話せるなんてな……」
「……そんなに? 確かに喋り方はちょっと危なっかしかったけど」
「そうか。ザグルフは人見知りというか、極端に他者と話すのが苦手でな。元は軍の密偵だったんだが、あの性格のせいで持て余されていたんだ」
「それで、クオードのところに?」
「ああ。だが、同情したわけではない。俺はアイツの才能を評価している。もちろんディアンジのこともそうだ」
「そうだったんだ」
クオードの横顔が、ふと笑う。さっきの不気味な笑顔と比べるまでもなく、晴れ晴れとしていた。しかし、その頬の一部がうっすらと赤くなっているのにレネの胸がチクリと痛む。
「あの、さっきのこと……覚えてる?」
「……ああ」
クオードは長い時間をかけて肯定した。具体的にいつだとは言わなかったが、ちゃんと伝わっていたらしい。あまり蒸し返さないほうがいい気もするのだが、一言だけ言っておきたかったのだ。
「叩いてごめんね」
「いや、あれは俺が……」
クオードは言いかけて、ため息をついた。ずいぶん大きなため息だ。
「悪かった。……忘れてくれると助かる」
深いため息がもう一度。クオードは魔物を探すと言って歩き出した。慌てて追いかけようとしたが突然、クオードが消え――いや、落ちた。
 クオードが落ちた場所は色の混じったインクが水たまりのようになっていて、恐る恐る触れてみると、その下に空間が続いていることが分かる。怖いけれど、行くしかない。どうせなら、一気に行こう。レネは助走をつけてインクの中に飛び込んだ。結果的に言えば、助走までしたのは間違いだったのだが。
「……おい」
飛び込んですぐ、目を閉じた。恐怖でとても開けていられなかったからだ。そして、感じた衝撃。痛かったけれど、床や壁のような硬さはない。起き上がろうとして、手に力を入れる。思ったよりも柔らかく、温かさがある。まるでこれは――。
 レネの背筋に冷や汗が流れる。恐る恐る目を開き、絶句した。
「……動けるなら早くどいてくれ」
そう、レネはクオードを下敷きに、しかも馬乗りになって倒れ込んでいたのだ。
「ごめん! ごめんなさい!」
クオードから離れようとして、しかし勢いのあまり壁に激突する。
「おい馬鹿、何してる」
「……ごめん」
顔から火が吹き出そうなほど恥ずかしい。なるべく顔を見られないようにと俯いていると、後頭部に何かが触れる。
「切れてはいないようだな」
「へ……ちょっと!」
近い。思い出されるのはあの隠し部屋での出来事だ。けれどもう叩くことなんてできないし、クオードはきっと心配してくれているだけだろうしと、レネは動けなくなる。ただ口をぱくぱくと動かし、クオードが離れるのを待つ。すると彼も何かに気付いたのかピクリと眉を動かし、さっとレネから距離を取った。
「……行こう。ここは妙な仕掛けが多い。気を付けながら進むぞ」
「う、うん」

 迷路のような道を抜けてたどり着いた先には、またもメレアーデの姿をしたものがいた。彼女はただ静かに座って、こちらのことを見ている。
「貴様……またも姉さんを愚弄して!」
クオードが駆け寄り、彼女の首元めがけて剣を振る。しかし剣先は彼女ををすり抜け、当の魔物らしき女はくすりと笑うだけだった。
「ねえ、私とチェスをしない?」
まるで何事もなかったかのように彼女は言う。レネは戸惑いつつも、返事をした。
「チェスに勝ったらここから出してくれる?」
魔物はくすくすと笑って、レネの問いに答えようとしない。
「ねえクオード、私チェスのルール分からないよ」
「いい。俺が知っている」
「……でもさっき、負けてた」
ぐ、とクオードは黙り込んだ。
「あ……えーと、ごめん。他に方法もなさそうだし、頑張ろうよ」
「ふふ。話はまとまったみたいね。でも困ったことに、チェスのコマを三つ失くしてしまったの。二人で探してきてくれないかしら」
クオードが剣を握る手を震わせた。まずいと思ってレネはクオードの腕を引く。
「早く探しに行こう!」
「あ、おい……!」
クオードを引きずるようにして次の扉をくぐる。ドアが閉まる直前まで、魔物はこちらを見て笑みを浮かべていた。
 次の部屋は書斎だった。掴んでいたクオードの腕を離すと、彼はわざとらしくため息をついた。
「貴様、どれだけ馬鹿力なんだ……」
「え、そうかな。そんなに痛かった?」
「……いや。それより」
チェスのコマだ。とクオードは腕を組む。クオードによると、幼いころに同じような状況があったそうだ。そのときはメレアーデと二人でコマを探し回ったらしい。そのときの記憶が役に立つかもしれないと、そういうことなのだろう。
「どこで失くしたか覚えてる?」
「高いところにあったような……ああそれと、コマは暗い場所で光るから明かりを消してみるのもいいかもしれない」
「そうなんだ。よかった~」
「は……? よかった?」
「うん。クオードがいてよかった。私ひとりじゃ絶対見つけられないし」
クオードはなぜかポカンとしている。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。「ん?」とレネが首を傾けると、クオードは顔を逸らしてしまった。
「いいから早く行け。さっさとコマを見つけてこんなところ脱出するぞ!」
「……行くけどさ、クオードも一緒に探してよね」
分かっているとクオードは言うが、その目はまだ床に向けられたままだった。