トリップしたけど昔アニメをちょっと見ただけでタソガレドキを知らない話16

 忍術学園の文化祭に参加するため、雑渡らはまだ夜も明けきらない時間に集合していた。集まっているのは雑渡を含めた四人。彼女には部屋まで迎えに行くと伝えていたが、雑渡はここで自分の失態に、はたと気づいた。
「今日早いって伝えるの忘れてた……」
 呆れたような視線が雑渡に向けられる。彼女を文化祭に誘ったのは雑渡だから、出発時刻についても当然雑渡が伝えておくべきである。女中に頼んで起こそうにも、この時間帯に起きている女中を探すほうが難しい。「どうする?」という空気を読んで、高坂が名乗りを上げた。
「私が起こしてきます」
「待って」
 雑渡は高坂を呼び止めた。なぜだか、行かせたくないと思ってしまった。
「伝えてなかったのは私だし、私が行くよ」

 雑渡は気配を殺して彼女が眠る部屋に入った。雑渡人形を枕元に置いてスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。雑渡が彼女の肩に触れると、彼女は軽く身じろぎをした。
 起こすのもったいないなあと、一瞬迷ったのがいけなかった。寝ぼけているのか、彼女が雑渡にぎゅっと抱きついてきたのである。
(え……)
 雑渡は身動きが取れなくなってしまった。いや早く起こせよ、と頭では考えていたのだが、行動が伴わない。早くしないと誰かが様子を見に来る。それでも雑渡はどうすることもできなかった。
 ほのかに漂う甘い香りが頭をクラクラと刺激する。これは彼女自身の体臭だろうか。香を焚いたような臭いとはまた違う。汗を掻きづらい体質になってしまったというのに、汗がじわりと身体に浮かぶ感覚がした。
 雑渡がしばらく固まっていたせいで、部屋にもう一人の気配が近づいてくる。様子を見に来たのは山本だった。しかし、山本は部屋の前ですぐに踵を返す。
「待って陣内」
 小声だったがしっかりと山本の耳には入ったようで、山本は気まずそうな顔をしながら部屋に入ってくる。
「助けてよ」
「……今、起こしてよろしいのですか?」
 山本は雑渡と女の顔を見比べながら言った。自分でどうにかしろと思っているのがひしひしと伝わってくる。だが本当に雑渡は心から困っていた。
「まず一度、離れてはいかがです?」
「そうだね……」
 やんわり彼女の体を引き離そうとすると、うっすら彼女の瞼が開いてまずいと思った。しかしもうどうすることもできず、ぼんやりとした彼女と目が合う。彼女も最初は状況を理解していなかったようだが、すぐにぱっちりと目を見開いて顔を赤くした。
「え、え……すみません!」
 寝込みを襲われたとは微塵も思わなかったらしい。彼女が床に頭を擦り付けそうな勢いだったので、雑渡は努めて冷静に「大丈夫だよ」と言った。内心では雑渡もかなり焦っていたが、そこは長年の鍛錬の差がある。
 山本は彼女が気づかぬうちにそっと部屋を退出していた。山本にまで見られていたとなると彼女はさらに取り乱すだろうから、山本の判断には助かった。
「本当にすみません! あの、間違えてっ……」
「大丈夫だから落ち着いて」
 誰と間違えたんだと問い詰めたくなる気持ちを腹の底で押し殺す。今はそんなことしている場合じゃないし、例え誰と間違えていたとしたって雑渡には関係のないことだ。
「ごめんね。今日、早く出発するって言ってなかったから起こしに来たんだよ」
「あ……文化祭。そうですよね。私も確認してなくてすみません」
「仕度ができたら出ておいで。他の三人は先に行かせておくからゆっくりでいいよ」
「……はい、すみません」

 部屋から出て少し歩いたところで山本が姿を現した。あまりに情けない姿を晒してしまったわけで、何を言われるかと雑渡は身構える。
「では、我々は先に出発して参ります」
「……うん」
 何も言われないと、それはそれで居た堪れなくなるものだ。
「ねえ陣内」
「何でしょうか」
「さっきのは……」
「今に始まった話ではないでしょう」
「えっ?」
「噂に気づいていないとは言わせませんよ」
 いつの間にか彼女のことを好きだということになっていた。騒ぎ立てるとかえって大ごとになりそうだから黙っていたが、すでに話は大きくなってしまっている。
「陣内は噂のこと信じてるの?」
「前々からそうではないかと思っていましたが、つい先ほど確信しました」
「いや違うから……。それに彼女は土井殿みたいな男が好みなようだし」
 山本はため息をついた。
「なぜわざわざ土井殿に会わせようとするのか理解に苦しみます」
「え、ひどい……」
 長話をしていたら高坂や尊奈門まで来てしまうからと、山本が戻っていく。一人残された雑渡は、意味もなく天井を見上げてため息をついた。
 自分がもう少し若くて、忍者隊の組頭という立場にも就いておらず、それで火傷のこともなければ好きになっていたかもしれない。まあそんな前提を立てたところで、今の自分が変わることはできないから無駄なのだが。
 そろそろ彼女も部屋から出てくるだろう。人を待たせてまで仕度を長引かせるような娘ではない。雑渡の思考が伝わったかのように、彼女の部屋の戸が開く。
「すみません、お待たせしました」
「早かったね」
 彼女はいつも通りの格好をしていた。ただ、先ほどのこともあってか頬が赤い。彼女は下を向いてばかりで雑渡と目を合わせようとしなかった。
「じゃあ行こうか」
「はい……」

 タソガレドキから忍術学園までは、それなりの距離がある。鍛錬を積んだものならともかく、女が歩いて一日でたどり着くような場所ではない。雑渡は最初から彼女を抱えていくつもりでいた。しかし、なんとなくやりづらい……。今までだって彼女を抱えて移動したことはあったはずなのに、触れてはいけないような気さえしてくる。まだ時間に余裕があって幸いだった。この妙な空気が払拭されるまで、雑渡は彼女と歩くことにした。
 日が昇り切っていない空はまだうっすらと暗い。冴え冴えとした空気が気持ちよく、足元には朝露に濡れた雑草がのびのびと生えている。といっても毎日変わらない景色だろうに、雑渡は久しぶりに見た感覚になっていた。これはこれでいい息抜きになるかもしれない。昨日は一日休みを取って家の手入れをし、残りの時間はゆっくり過ごしていたつもりだったけれど、自然に目を向けることはなかった。雑渡は彼女の横顔を見ながら、懐に忍ばせた櫛についてどうしたものかと迷っていた。
 実は昨日、家に戻ったついでに買っておいたのだ。物を欲しがらない彼女のために、毎日使えるような品をと思って探したものだ。本当なら起こしてすぐに渡すつもりだった。貢物はいらないと言いながらも、しぶしぶ彼女が受け取る姿を想像して楽しみにしていた。しかし期を逃したうえ、山本にああ言われてますます渡しづらくなってしまったのである。こうなったら直接渡さずに、こっそり雑渡人形にでも持たせておこうか。そんなことを考えていたら、彼女がいつの間にか不安そうな目でじっと見上げてきていた。
「どうしたの?」
「……この調子で間に合うのでしょうか」
「日が暮れちゃうねえ」
「え……先に行っててください」
「それじゃあ君はどうするの」
「引き返します」
「あのねえ、」
 正直、彼女からこの話題に触れてくれたのはありがたかった。引き返すなんて言ってくれたおかげで抱き上げる口実にもなる。いつものように横抱きにすれば彼女もおとなしくなった。ただ、かわいそうなくらいに顔を真っ赤にしているから、雑渡としても何も意識しないわけにはいかなかった。
「さっきはどんな夢見てたの?」
「え?」
 彼女はハッとしたように目を見開いたあと、目を潤ませて下を向いてしまった。暗に「誰と間違えたの」と聞いたわけだが、ちゃんと伝わったようだ。人に言えないほど恥ずかしい夢を見ていたのだろうか。
「大丈夫?」
 心配する振りをして追い打ちをかける。もはや、なんとしても聞き出したいという気持ちになっていた。彼女が夢の中で誰とどんなことをしていようが雑渡には関係ないはずなのに、腹の底でほの暗い感情がうごめいている。
「……いつも、嫌な夢を見ていたんです」
「あー……うん、前はよくうなされてたよね」
「やっぱり気づいてましたか」
「……まあ、」
「でも…………、最近は雑渡さんが助けに来てくれるんです。夢の中の話ですけど」
「え」
 カッと身体の奥が熱くなる。つまりそれって……
(夢の中の私と間違えたってこと?)
 腹の奥に居座っていたもやもやがスッと消えていく。なんだ私か。彼女はとんでもないことを言っているのに気づいているのだろうか。……いや、気づいているからこそ真っ赤になっているのかもしれない。
(参ったな……)
 これはもう認めざるを得ない。噂は間違っていなかった。雑渡としては自制していたつもりが、全くできていなかったということだ。
 しかし、浮かれてもいられなかった。雑渡には立場というものがある。タソガレドキのこと、部下たちのこと……。雑渡はそれを重荷とは微塵も思っていない。だがそれを、他人にまで背負わせる気はなかった。
 彼女に嫌われているとは思っていない。どちらかというと好意的に見られているというのもわかっていた。しかし彼女は戦好きの殿のことを良くは思っていないようだし、組頭の妻という立場になれば、今のように自由に出歩くことも難しくなる。重要人物として敵側に知られてしまうからだ。
(……いや、私は何を想像しているんだろうな)
 雑渡は軽く頭を振って、自分に都合のいい妄想をかき消した。
(君にはもっと良い人がみつかるよ)