トリップしたけど昔アニメをちょっと見ただけでタソガレドキを知らない話21

 ドクドクと心臓が鳴っている。手を伸ばせば触れられる距離に雑渡がいて、私はその場に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
 今、彼はなんと言った……?
 雑渡に変装した押都という男に浮ついた言葉を並べられたときは、どこか違和感があって冷静でいられた。しかし雑渡が部屋に入ってきただけで動揺してしまうし、さらには信じられないことまで言われて、それでも彼を偽物だとは思わない。
「私と夫婦になってくれる?」
(なんで……私、断るって押都さんにちゃんと言ったのに……)
 どこかで聞いていたのか、それとも押都が報告したのか。私が断るとわかっていながら、どうしてこんなことをするのだろう。――いや、この際それはどうでもいい。私は押都に言ったように、ただお断りをするだけだ。
「……気持ちは嬉しいんですけど、ごめんなさい」
「そっか。突然驚かせてごめんね」
「いえ……」
 胸がズキズキと痛む。せめて私も好きだと伝えてしまいたいけど、それはあんまりな話だ。
「じゃあ今日から薬は自分で塗ったほうがいいよね」
「あ、いえ……今まで通りで……雑渡さんがよければ」
 私はこういうところがダメなんだと思う。断るなら断るでそれなりの態度を示せばいいのに、こんな中途半端なことをするから苦しくなるのだ。雑渡がせっかく距離を置こうとしてくれているのに、それは嫌ってまるで子供の我儘だ。
 これには雑渡も呆れるかと思ったけど、彼はにこりと笑うだけだった。
「そう? じゃあお願い」
 雑渡はいつも通り私に背を向けて浴衣を脱いだ。私もなるべく意識しないようにしながら薬を塗っていく。あまりにもあっさりとしすぎているから、さっきのは夢だったんじゃないかと疑いそうになる。夢だったらよかった。私は最初から決めていた通りに答えただけなのに、どうして後悔しているんだろう。
 指先が震えていた。雑渡は気づいているだろうか。気づいていても振り向かないでほしい。きっと私は今、ひどい顔をしている。
「やっぱり迷惑だったよね」
 背中を向けたままの雑渡が言う。
「そんなことないです。本当に嬉しかったんです」
「そう言ってもらえるだけで嬉しいよ。何せこんな身体だからね」
「あの、雑渡さんに問題があるわけじゃなくて、私の問題なんです……。だから本当にすみません」
「君の問題って?」
「私はもともとここにいないはずの存在で、だから雑渡さんは他に結ばれるべき人がいるんじゃないかって思うんです」
「んー……火傷する前は置いといて、最近は結婚する気なんてなかったけどね」
「……そうですか」
「だから君がもらってくれたらすごく嬉しいんだけど」
「えっと……、」
「私のこと嫌い?」
「……そんなわけ!」
 嘘でも嫌いなどと言えるわけがなかった。この人も、わかっていて聞いてくるからタチが悪い。
 雑渡がゆっくりと振り向く。彼はおだやかな笑みを浮かべていた。
「ごめんね。本当はおまえが私を好いてくれてることは知ってる」
「……っ」
 堪えていた涙がぽろぽろと零れてくる。
「ひどい……」
「うん。私ってずるくてひどい男なんだよ」
 私は首を横に振った。そんなことないと言いたいのに、言葉が出てこない。ひどいのは私も同じだ。雑渡にきちんと向き合おうとしなかった。今もまだ迷っている。どうしてこんなに迷っているのか、これはもはや意地になっているだけなんじゃないかと自分でも思う。意地になるくらいなら忍術学園に残ればよかったのに。
「私は妻より仕事を優先する立場に就いているし、いい夫にはなれないと思う。だけど、それでもおまえと一緒になりたいんだ」
「……でも、」
「逃げてもいいけど覚悟してね。明日には私がおまえに振られたって話がそこらで噂されると思うけど」
「……ちょっと待ってください。まだ、心の整理が」
「どうしてそんなに嫌なの?」
「嫌というか、怖いんです。自分がこの時代にいることにもまだ違和感があって、いつか急に消えたりとか、無事に明日を迎えられるかも不安で……」
「未来に帰りたい?」
「いえ、それはもう最初から諦めているというか……帰ったところで、」
――もう死んでるし。
 言いそうになったけど、寸前のところで飲み込む。こんなことを言われたって雑渡は困るだろう。
「もしかして元の時代で何かあった?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「これは言わないつもりだったんだけど、最初に君をみつけたとき、息もしていなかったし心臓も動いていなかったんだ。だから死んでるんだと思った。でも、君を運ぼうと抱き上げたらね、急に息を吹き返したんだよ」
「……そうだったんですね」
 あの夢はそういうことだったのかと妙に納得した。死ぬはずの私を雑渡が助けに来てくれる。どう考えてもおかしなシチュエーションだけど、私は雑渡に抱えられてビルの間をふわふわ飛ぶ時間がたとえ夢でも好きだった。実際にそうやって移動すると緊張するし恥ずかしいけど、不思議と安心感があったのだ。
「前に話した雑渡さんが助けに来てくれるって夢の話なんですけど……実は私が死ぬ直前の夢なんです」
「そう」
「多分ですが、私は元の時代で死んでます。そのときのことをずっと夢に見ていて……」
 膝の上でぎゅっと握り締めていた手を雑渡はそっと包み込んでくれた。雑渡の大きな手が私の指をやわらかくほぐしていく。
「私はもう死んでいて、本当は帰る場所なんてなくて、ここで誰かと幸せになるなんて考えられないんです……」
「私と一緒になったら幸せなの?」
「そんな聞き方ずるい」
「ごめんね。でも、さっきからずっと好きだって言われているみたい」
 観念した私は、うんと頷いた。
「おまえの口から聞かせて」
「雑渡さんが……好き」
「ありがとう。私も好きだよ」
 わんわんと泣く私を雑渡はぎゅっと抱きしめてくれた。
「もしおまえが急にいなくなったとしても、私はおまえを恨んだりしないし、ずっと心の中で想っているよ」
「……はい」
「でも黙って自分から消えたりしないでね。そのときはどんな手を使ってでも探し出すから」
「はい、約束します」
「今日は子守唄を歌ってあげようか?」
「え……」
 涙がピタリと止む。それはいつかの約束で、決して叶えられることのない話だと思っていた。雑渡からやんわり距離を取りながら、あのとき彼と話したことを思い出す。
 雑渡が子守唄を歌うという条件……それは、
「ふふ、真っ赤だね。今日はやめておく?」
「……子守歌、聞きたいです」
 雑渡はぱっちりと目を見開いた。からかわれているだけだというのはわかっているけど、好きだと認めてしまったのだから、これ以上の恥はない気がした。
「とりあえず薬を塗ってしまいましょうか」
「あ、うん……」
「終わったら布団の準備をしますね」
「え、本当に?」
「雑渡さんが言ったんじゃないですか」
「私、全然歌とか上手じゃないからね?」
「勿体つけるからやりづらくなるんですよ」
「はい……」
 しゅんと背中を丸めた男の頬に手を伸ばすと、彼がぴくりと肩を震わせる。それがどうしようもなく愛おしくなって、今度は私から雑渡を抱きしめた。さっきはぎゅうっとしてくれたくせに、今度は固まっている。自分からするのはいいけれど、されるのには慣れていないみたい。

「雑渡さん、布団からはみ出てません?」
「いや、君の布団って小さいし……」
「もっとこっちに来てください」
「はい……」
 薬を塗り終わって、布団を敷いて、いざ中に入ると、雑渡は布団の隅のほうで真っ直ぐ身体を伸ばしていた。足がはみ出てしまうのは、まあわかる。だけど、胴体の半分以上が布団の横から出ているというのはどうなのか。しかも彼は真っ直ぐ天井を見上げていて、まさか天井に向けて子守唄を歌うとでも?
 私が言うと、雑渡は少しだけ、本当に少しだけだがこちらに寄ってきた。だけどまだ天井を見ている。
「天井裏に誰かいるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「まさか朝まで天井のシミでも数えてるつもりじゃないですよね」
「……ねえ、なんでそんなに堂々としてるの? さっきまで泣いてたよね?」
「もう吹っ切れました。逆に聞きたいんですけど、どうしてそんなによそよそしいんですか? さっきまであんなグイグイ来てたのに」
「いや、だって……ね? まだ祝言も上げてないんだし」
「子守唄を歌ってくれるんですよね?」
「……はい」
 そう言いながらも雑渡は黙ったままだった。少し意地悪をしすぎたかもしれないけれど、さっき雑渡がしたことに比べればかわいいほうだと思うのだ。だけどさすがにこれ以上はかわいそうなので、私はおとなしく目を閉じた。雑渡に抱えられたまま寝たこともあったから、今さらこの距離感に抵抗はない。うつらうつらとしてきたところで、優しく背中をトントンと叩かれる。
 遠ざかる意識の中で、聞き覚えのないメロディーが流れていた。ゆらゆらと静かな海を漂っているような心地よさに包まれる。また今度、タソガレドキに伝わる子守唄を雑渡に教えてもらいたい。
 今日、ここに来てから初めてあの夢を見なかった。雑渡と一緒に令和の街をふわふわ飛んでいく代わりに、私は室町時代の町を、雑渡と二人並んで歩いていた。