高坂妹は雑渡が憎い03
ナマエはその日、いつものように城へ行って雑渡に決闘を申し込もうとした。もう何度も訪れているので門番の人には顔を覚えられている。いつもなら普通に通してもらえるのに、今日は神妙な顔つきで首を振られた。
「雑渡様は大火傷を負われてね、城にはいないんだよ」
「……大火傷?」
「うん。部下を助けに炎の中に飛び込んだんだ。ひどい状態だから、しばらく城には来ないよ」
「……兄上は?」
「高坂さんは雑渡様のところに行ったんじゃないかな」
「雑渡さまはどこにいるんですか?」
「ごめんね。言えないんだ」
「……じゃあ今日は帰るから、雑渡さまが良くなったら教えてください」
「うん。気をつけてね」
(雑渡、部下の人を助けたんだ……。いい人なんだ……)
目上の相手を尊敬できないようではまだまだ子供。父にそう言われて、ナマエは雑渡を雑渡さまと呼ぶようになった。すごく嫌だったけど、これが大人になることなんだと我慢した。
ナマエは雑渡のことが好きじゃない。大好きな兄上をとられたから。だけどこの二年で、雑渡がどれだけ部下たちに慕われているのか嫌でもわかってきた。
(火傷、そんなに酷いのかな……)
ナマエは小石を蹴飛ばした。いつも城に行けば誰か相手をしてくれるから、こんなにすぐ帰るのは初めてだった。……寂しい。兄上にも会えなかったし、雑渡にも修行の成果をみせられなかった。
(そうだ、雑渡が休んでるうちにいっぱい修行したら、雑渡を追い越せるかも!)
ナマエは走って家まで戻り、父の着物の袖を引っ張った。強くなって、雑渡をぎゃふんと言わせてやる。
それからというもの、ナマエはいっそう修行に励んだ。だけど、一カ月経っても二カ月経っても雑渡に会うことはできなかった。三カ月後に兄上には会えたけど「雑渡さまには会わせられない」と静かに言われ、ナマエはだんだん不安になってきた。雑渡は本当に治るのかな。城のみんなが言葉を濁すので、ナマエは父に相談した。
「父上、雑渡さまは無事なのでしょうか」
「私はもう引退した身だから、詳しいことは知らされてない」
「……兄上は知ってるはずなのに、聞いても教えてくれないんです」
「おまえは聞けばなんでも教えてもらえると思っているのか?」
「え……」
「忍びは何のために存在する? ただ戦いの腕を磨くだけなら、侍と違いないのではないか?」
「……」
ナマエはただ兄を取り返すために修行していただけだった。だから忍びの存在価値など問われても、答えられない。父や兄が忍者だから、自分も当然そうなるのだと信じて疑わなかったのだ。
父はいつになく厳しい顔つきをしていた。ナマエは身を震わせながらも、じっと父の目を見ていた。
「昔、私が使っていた教本や兵法書がある。おまえにやるからそれを読んでじっくり考えてみろ」
父はナマエの目の前に、何冊もの古びた本を積み上げた。これを全部読むなんて無理だ。ナマエは助けを求めるように父を見上げたが、父は黙って部屋から出て行ってしまった。
とりあえず一番上にあった本を手に取って、最初の頁を開いてみる。……漢字が読めない。いきなりつまずいて、ナマエもう泣きそうだった。勉強を頑張るにしても、せめて読み方くらいは教えてほしい。だけど「聞けば教えてもらえると思ってるのか」と言われたばかりで、父に教えを請うことなどできなかった。
「母上……」
ナマエは父の目を盗んで台所にいた母の元へ駆け寄った。教本を開いて差し出したが、母は静かに首を振る。
「忍術のことなら父上に聞きなさい」
「漢字が読めないんです」
「わからないことを質問するのは恥ずかしいことではありません」
「でも、さっきは……」
「それはおまえに考えてほしくて言ったことです。いいから聞いてみなさい」
「……はい」
とぼとぼと出て行く娘の後ろ姿を眺めながら、ナマエの母は苦笑いをこぼした。いきなり厳しくしすぎたかもしれないと肩を落とす、不器用な旦那の姿を先ほど見たばかりなのだ。
「父上……」
ナマエが父の部屋の戸を開けると、あぐらを掻いた父に手招きをされる。さっきよりも表情がやわらかくなっていたので少し安心した。教本を開いてわからないところを指差すと、父は一つ一つ読み方を教えてくれた。
「これは狸隠れの術。素早く木に登って枝葉に姿を隠す術のことをいうんだ」
「父上もできますか?」
「もちろん」
「兄上も?」
「そうだな」
「じゃあ私も練習します!」
「あとで手本を見せてやるから、まずは続きを読め」
「はい!」
父にもらった教本には、逃げる術や隠れる術が多く記されていた。今までは戦うことばかり考えていたけど、忍者というものは、どうもそれが本分ではないらしい。敵の城に忍び込んで情報を盗んだり、偽の情報で相手を騙して混乱させたり……。いくつかの術を学んで思ったのは、これを使って雑渡の居場所を特定してこそ忍者になれるのかもしれないということだった。しかし、現実はそんなに甘いはずもなく――。
「くせ者ッ!」
「ぎゃっ!」
「……ん? 高坂の妹か?」
ナマエは久しぶりに行ったタソガレドキ城の門をくぐらず、塀を乗り越えて侵入した。そして木の上に隠れて誰かが雑渡の話をするのを息をひそめてじっと待っていた。だがほんの数分もしないうちに木から引きずり降ろされ、地面に身体を押さえつけられてしまう。ここが敵の城だったら殺されているんだろうなあと、ナマエは子供ながらに思った。
「ごめんなさい。父上に狸隠れの術を習ったから、やってみたかったんです」
「ああ、そうだったの。ごめんね痛くなかった?」
「平気です」
「兄上を呼んでこようか?」
「……いえ、大丈夫です」
ナマエはそそくさと城を出た。
城に侵入するのは難しいのかも。そう考えたナマエは次に城の外に隠れて、城から出て行く忍者の後をつけることにした。もしかしたら雑渡のところに行く人がいるかもしれない。だがそれも、あっという間に撒かれて相手を見失ってしまう。
――まだまだ修行が足りないんだ……。
ナマエは家に戻って、さらに教本を読み込んだ。
「高坂、またいるぞ」
「ああ……」
つたない尾行をする妹の気配を感じながら高坂はため息をついた。これで何度目だ。雑渡が重度の火傷を負って勝負する相手がいなくなったから、忍者の真似事でもして遊んでいるのかと思ったが、あまりにしつこい。しかも日に日に気配を消すのが上手くなってきている。何度撒いても諦めないところに妹の本気を感じた。実害はないから放置していたが、何か言うべきなのかもしれない。
「そんなに小頭のことが気になるもんかねえ」
「……なんですって?」
「あれ、聞いてなかったか? ナマエちゃん、小頭に会いたいらしいぞ」
「そうだったのですか……」
まさか弱っているところを狙おうとしているんじゃないだろうな。嫌な想像が一瞬よぎったが、すぐにあり得ないと首を振る。妹はそんな卑怯な真似はしない。ここ二年でずいぶんと懐いていたから単に心配しているのだろう。だが、まだ会わせられるような状況ではない。
雑渡の看病は、諸泉家の倅がほとんど一人で行っている。抵抗力の弱まった雑渡に病を感染させてはいけないからと、高坂でさえ自由に会うことはできないのだ。それでも雑渡が休む屋敷へ通っているのは、必要な薬品や包帯を届け、周囲に不審な者がいないか警戒するためであった。
「そのうち飽きるでしょうから、今は好きにやらせてやってください」
高坂たちが隠れると、ナマエは悔しそうに項垂れた。実はまだ近くにいるのだが、気づいていないようではまだまだ甘い。
***
雑渡が戦線を離れて約一年。雑渡はようやく周りと会話できる程度にまで回復していた。しかしまだ一人で生活できるほどの力はなく、人の手を借りなければ起き上がることさえ難しいという状態だった。一年経ったとはいえ、身体のあちこちが痛む。薬も効いているのかわからないくらいの気休めにしかならず、包帯がじくじくに濡れた肌に張り付き、新しいものに取りかえるときは激痛だった。しかし雑渡はなるべく声を上げないように耐えていた。「自分の家族のせいで」と気に病む子供が寝る間も惜しんで看病してくれているのだから、みっともない姿を晒すわけにはいかない。小頭と呼ばれるたびに、こんな私をまだ待ってくれている者がいるのかと絶望する。いっそ楽にしてくれと思ったことは何度かあったけれど、ここで死んだらこの子の人生に影を差してしまうだろうからと、ほとんど気合いだけで耐えているようなものだった。
雑渡への面会が許可されると、すぐに何人もの部下たちが見舞いにやってきた。涙ぐむ部下たちの中にはもちろん高坂もいて、しばらく見ないうちに大きくなったものだなあと時の流れを実感する。みなが毎日のように来るからちゃんと仕事をしているのか心配にもなったけど、雑渡はそれを言えずにいた。
「雑渡さま、その……相談があるのですが」
「なに、どうしたの陣左」
「妹に会ってやってもらえませんか?」
「うん? いいよ。連れてきなよ」
やけに神妙な顔つきで一体何を言われるのかと思いきや、「妹に会ってほしい」とは……。改まって言うことではないような気もしたが、一応は部外者であるから許可を取ろうとしたのかもしれない。別に何も問題ないけどな。まさかこの状態で決闘しろなんて言ってくるような子ではないし。
「では、そのうち勝手に来ると思いますので」
「え、一緒に来ないの?」
「この一年、雑渡さまの元へ行こうと私たちを尾行したり情報を聞き出そうとしたり……まあとにかく、自力で来たいでしょうから」
「へえ~。楽しみだな」
「……では、よろしくお願いいたします」
きっとあの子も見ないうちに成長したんだろうな。初めて会ったときの鉄砲玉のようなナマエを思い出しながら、雑渡は目を閉じた。
***
それは雑渡が一人、部屋で横になっているときのことだった。まっすぐ見上げた天井の裏に、何かいる。移動するのにもずいぶん苦労しているようで、よたよた進みながら、ときどき天井板がぎしりと悲鳴を上げる。こんな下手くそ、タソガレドキの忍者隊にいるはずがない。もし外部からの侵入者であればすぐにでも見つけられて縛り上げられることだろう。つまりこのくせ者は、屋敷の見張りにわざと見逃されているということだ。
気配がようやく真上まで来たと思ったら、かぽっと天井裏が開く。まだ姿は見えない。けど、動揺した気配が雑渡まで伝わってきた。おそらく雑渡がどういう状態なのか知らされていなかったのだろう。ここに寝ているのは皮膚が浅黒く変色して全身を包帯に巻いた大男だ。怖くなって逃げ帰ったとしても、仕方がないと言える。ところがそのくせ者は、意を決したように部屋の中に下りてきた。
(うーん、もう少し静かに下りてこられたらよかったかな)
雑渡が呑気に考えていると、くせ者と目が合った。兄とそっくりな目元に涙をたくさん溜めて、雑渡のことをじっと見ている。
「よくここまで来られたね」
「……兄上に、温情をかけられました」
「また難しい言葉使ってる」
自分の実力ではなく、見逃されてここまでたどり着いたのだと気づいているだけで合格だよ。頭を撫でて慰めてやりがかったけど、思うように身体が動かない。ナマエはついにボロボロと涙を流しながら嗚咽を上げた。
「ざっとさま……死なないですよね?」
「うん、死なないよ」
「なおる……?」
「もう少しかかると思うけど、必ず戻ってくるよ」
「もどってこなかったら、兄上は、返してもらいますからね」
「それは大変だ」
「元気になったら倒すから、早くよくなって」
「うん」
「もたもたしてたら私のほうが強くなっちゃいますからね」
「……楽しみにしてるよ」
ナマエはなおもわんわんと泣いた。もはやここに忍び込んでいるという名目さえも忘れている。たどり着くまでが精いっぱいで帰りのことなど何も考えていなかった。雑渡が想像の何倍も重症だったから、どうしていいのかわからなくなった。
ナマエはしばらく泣いていたが、部屋には誰も入ってこない。忍び込んだら帰るところまで一人でやれと、兄に言われているみたいだった。
去り際に天井裏から顔を出し、雑渡の姿を目に焼き付ける。
「……雑渡さま、また来てもいいですか?」
「今度は正面からおいで」
「はい」
「今日は来てくれてありがとう」
「……別に、雑渡さまがもう戦えないなら兄上を返してもらおうと思っただけです」
「そうだったね。じゃあ、またね」
ナマエがどたどたと天井裏から退散するのと入れ違いで高坂が部屋に入ってくる。一連の流れを見ていた高坂が床に頭を擦り付ける勢いで謝ってきた。そして高坂があまりにもうるさいと、遅れて入ってきた諸泉の坊やに怒られている。まあまあ勘弁してあげてよ。雑渡が耐えきれずに笑ってしまうと、二人は喧嘩をやめて目を見開いた。
「ふふ、今日はにぎやかだね」
「雑渡さま、今……笑って……」
諸泉の坊が泣きそうになっているではないか。ああそうか、火傷を負ってからというもの、ずっと笑っていなかったのか……。意図的にそうしているわけではなかった。こんなことでも心配を掛けていたのかと雑渡は反省する。
「おまえたちが楽しそうにしていると私も元気が出るよ」
「「……はいっ!」」
「だから泣かなくていいんだって」