優しくしないで03

 完全に引っ越しする流れになってしまった。今はシンと一緒に家で荷造りをしている最中だ。といっても急な話でダンボールなんてものもないから、服を紐で縛っている。まるでゴミ出しの準備をしているみたいだ。
 借金生活の私の家に物がたくさんあるはずもなく、荷造りは一時間も掛からず終わってしまった。……だというのに、何だか疲れた。
(アイス食べたい)
 心を読んでいいと言ってあげたのだから、このくらいの我儘は許されるはず。じーっとシンを見つめて訴えれば、その数秒後にシンはうげ、と顔をしかめた。
「思ったより荷物少ないな。坂本さんに頼んで車貸してもらおうかと思ってたけど歩きでいけるか……?」
 うわ、無視された。あの表情で気づいていないというのは無理がある。私はもう一度頭の中に「アイス」と思い浮かべてみたが、シンは知らん顔だった。
「布団あるの?」
「あー……布団か。やっぱ一回戻って車持ってくるかな」
 気だるそうにシンが立ち上がる。彼はスマホ片手に「ちょっと行ってくるわ」と出て行ってしまった。
 シンが戻ってくるまでの間、私はアパートの解約方法を調べていた。とにかく電話でもいいから早めに管理会社に連絡したほうがいいらしい。何なら今すぐ電話をするというのも思い浮かんだが、坂本商店での生活が合わなかったら……。いや、ここまで来て多少合わなかったくらいで家賃無料を手放すことなんてないだろう。一刻も早くアパートを解約したほうが得するに決まっている。

 勇気を出して電話してみたら、意外となんてことはなかった。特に引き止められることもなく、数日で書類が郵送されるそうだ。
 することのなくなった私はベッドに寄りかかりながらシンの帰りを待っていた。そこでちょうどインターホンが鳴る。
 シンが帰ってきたのだろう。頭ではそう思うのに、体が動かない。
――あいつらだったらどうしよう。
 いま来られたら、返す金がない。シンに渡された三千円以外はすべて他の返済に充ててしまったのだ。三千円しかないと言ったら、あいつらがどんな反応をするか……。
 小刻みに震える指でスマホを取った。外にいるのがシンなら電話で確認すればいい。……そういえばまだ連絡先を聞いていなかった。
 どうしよう、シンが出て行ったときに鍵を掛けるのを忘れていた。モタモタしていたらもう一度ピンポンと鳴る。私はスマホを握り締めることしかできなかった。
 ガチャ、とドアの開く音がする。私は目を閉じた。
「おーい、なんで出ねーんだよ」
 シンの声だった。目を開いた瞬間、シンが駆け寄ってくるのが見えた。
 あまりの勢いに抱きしめられるんじゃないかと思ったけど、シンはぴたりと動きを止めた。行き場を失った手が宙を舞い、私の頭に着地する。ポン、と子供をなだめるような手つきだった。
「一緒行けばよかったな」
「びっくりさせないで」
「今度からは電話する」
「電話……」
「あー……電話もダメか。いや、俺だけ着信音変えるか通話アプリ使えばいいだろ?」
「……じゃ、そうして」
「おー。とりあえずアイス買ってきたから食おーぜ。バニラとチョコどっちにする?」
 シンは小さめのビニール袋からアイスを取り出して二つ私の前に並べた。
「どっち食べたいの?」
「俺? 俺はどっちでもいいけど……まあ、強いて言うならバニラ?」
「バニラにする」
「お前なあ……」
 シンは不服そうな顔をしながらもバニラを私に譲ってくれた。蓋を開けてプラスチックのスプーンでつつくと表面はすでにやわらかい。
「坂本商店ってアイス売ってる?」
「売ってる。っつーかそれがそう」
「タダ?」
「買ってきたって言ったろ」
 ちょうどよく溶けかけたアイスは最高においしいけど、食べ終わるのもすぐだった。容器がカラになったタイミングで「どーいたしまして」と、隣が言ってくる。シンは一足先に食べ終えていたようだ。
「何も言ってないんだけど」
「感謝の気持ちがちゃんと伝わってるか不安だろ?」
「……べつに」
 シンが差し出してきた袋にカラの容器とスプーンを入れる。きゅ、と袋の入り口が絞られた。
 ふと、どこまで読まれているのか気になった。さっきシンが帰ってきたときなんてまさにそうだ。何を読めばあんなにお節介になれるのか、不思議でならない。
「さっき、私なんて言ってた?」
「ん? 普通にありがとーって」
「違う……インターホン押して入ってきたとき、なんか慌ててたから」
「あー……、聞かねえほうがいいと思うけど」
「気になる。教えてよ」
「……まず読むより先に見て怯えてんのがわかるだろ。で、読んでみたら昔の映像っつーのかな。インターホンもそうだけど、ドアがガンガン叩かれてたり、あとは怒鳴り声とか、そういうのが見えた」
「……そうなんだ」
「今までひとりで辛かったよな」
「……」
 ぽろぽろと勝手に流れてくる涙を手で拭う。膝を抱えて顔をそこに押し付けて、声を上げずに泣いた。どうせ隣にはバレているだろうけど、今回は「泣くなよ」とは言われなかった。そのかわりに、くしゃくしゃと乱暴に頭を撫でられる。
「……やめてよ、髪ぐちゃぐちゃなる」
「そりゃ悪かったな」
 絶対思ってない。シンの手は髪を押さえつけるような動きに変わった。でも結構適当にやっていると思う。その証拠に、
「うわ、静電気すげえ」
 とか言うのだ。それなら触るな。私は頭を膝の上に乗せたままゆるゆると振って拒否を示した。
 さすがに反省したのかシンの手は私の頭の上からいなくなった。沈黙が続く。……なんか喋ってよ。
「ねえ」
「ん?」
「……」
「いや喋んの放棄すんな普通に言えよ」
「読んだほうが早いんじゃないの」
「まあ集中してたらそうかもしんねえけど」
「集中してよ」
「けっこう疲れるんだぜ」
「ふーん……」
「で?」
「……いや、仕事。どんなことするのかなって」
「レジ打ちとか、品出しとか……俺は配達もやってるけど」
 話を聞く限り、スーパーみたいな感じなのかな。スーパーのレジならやったことあるから大丈夫かも。って言うと、仕事舐めんなとか言われそうだからやめておく。……いや、これも読まれてるかもしれないんだった。
 そろそろ涙も完全に止まって顔を上げるとシンがこちらを見ていてぎょっとする。まさかずっと見られていたのだろうか。
 そこは勝手に読んで違うとでも言ってくれればいいのに、そういうことにもならない。
「車に荷物載せるか」
「あ……うん」
「お前はそっちな」
 シンは縛った洋服たちを指差した。そうしてベッドの上の布団を折りたたむ。何だかうまく言えないけど、ちょっと恥ずかしかった。
 布団を持ち上げたシンはあ、と何か思い出したような顔をする。
「そういや冷蔵庫とかどーすんの」
「置いてく。元からあったやつだし」
「元からあるとかあんの?」
「前住んでた人のじゃない? ここ貧乏人向けだから置いていってもいいよって感じ。実際私も助かったし」
「へー」
「でも気持ち悪いしベッドは捨てようかなと思ってる」
「それがいいだろうな」

 荷物が少ないせいで二人で二往復もすれば準備は終わってしまった。まだ粗大ごみの手続きや鍵の引き渡しは残っているけど、このアパートともお別れだ。まだあまり実感が沸かない。私はシンの運転する車の助手席で、坂本に渡されたエプロンをぎゅっと握り締めていた。