傷になりたい03

 土曜日になった。一度は空腹で目覚めたけれど、二度寝することにした。連絡先もわからないのだからどうしようもない。目を閉じてうとうとしていたらインターフォンが鳴った。
 誰だこんな朝っぱらから。イライラしながらもベッドから起き上がれば、ふとあの男の顔が頭に浮かんだ。
 まさかそんなわけない。考えすぎだ。おそるおそる玄関に近づき、ドアにぴたりと手を添え覗き穴を確認する。しょぼいマンションだからカメラ付きインターフォンなんてものはないのだ。
(……いるし)
 にこーっと笑う男と覗き穴ごしに目が合った気がした。いいやそんなはずはない。とりあえず私はタンクトップの上から上着を羽織った。待ちきれなかったのかもう一回ピンポーンと鳴る。
 そもそもどうやってオートロックを突破したんだという話である。……じゃないその前に住所。怪しいのは財布を拾われたときだ。それか後をつけられていたのか……。考えていたら三度目を鳴らされた。
 ドアを思い切り顔にぶつけてやりたかったが、そういえばドアは引くことでしか開けられなかった。「おはよ~」朝から元気だ。反対に私はどっと疲れた気がする。
「……どうも」
「もう朝ごはん食べた?」
「まだ」
「僕も僕も。コンビニでパン買ってきたから一緒食べよ~」
 男はドアチェーンをつついて開けてとアピールする。すんなり要求に従ってしまったのは、パンの誘惑に負けたからだ。

「物少ないねー」
「引っ越してきたばかりなので」
「へ~」
 男は遠慮もなしに床に座った。そしてテーブルの上にパンを並べていく。
「どれがいい?」
 私は無言でパンを二つ自分のほうへ引き寄せた。普通なら遠慮するところだろうけど、この人相手にそんなことをするのが馬鹿らしかった。ついでに飲み物も先に選んでやった。そんな私のことを男は相変わらず笑顔で眺めていた。
「なんで家の場所知ってるんですか」
「あ、そこスルーしてくれないんだ」
「……関わったらいけない人に関わってしまった気分です」
「ひどいな~」
「で、なんで知ってるんですか」
「気づかなかった? お隣さんだよ?」
「……うそ」
「僕、嘘嫌いなんだよね~」
 そんなことあってたまるか。私がここに入居を決めたとき、隣の部屋は空き部屋だった。本当は隣の角部屋のほうがよかったけど、家賃が二千円高かったから今の部屋にしたのだ。
「身分証見せてください」
「え~疑われてるの?」
「はい」
「まあセーフハウスの一つってだけだから身分証は別の住所で……あ、でも鍵ならあるよ」
 そう言って男がポケットから取り出したのは、見覚えのありすぎる鍵だった。完全に私のと一緒……。それなら一体いつから借りているのかという話になる。偶然にしてはできすぎている気がした。
「いつ契約したんですか?」
「三カ月くらい前かな~」
「……」
 本気で関わらないほうがいい気がしてきた。もはや身の危険すら感じる。入居して三カ月で引っ越しって、違約金とかかかるんだろうか。勢いで一人暮らしを始めてしまったようなものだから、その辺のことをきちんと確認していなかった。
「……どうしてここのマンションに?」
「ごめん、それは僕の仕事に関係するから言えない」
 いくらでも誤魔化しようはあるだろうに。そういう風に言われると、なんだ誠実なところもあるじゃないかと信じてしまいそうになる。ええい騙されるんじゃない、これはコイツの作戦なのだ。
 考えるには糖分が足りない気がした。というのは言い訳で、空腹が限界に近かったからパンにかじりついた。大好きなチョココロネ……どうせ知ってて買ってきたんだろう。甘いものを食べたから今度は塩気がほしくなった。
「今日どこか行くんですか」
「意外と適応力高いよね」
「考えるの面倒くさくなっただけです」
「どこか行きたいとこある? 僕はこのままおうちデートでもいいよ~」
「おうちデートは嫌ですね」
 二つ目はカレーパンだ。甘いのを先に食べたせいかいつもより辛く感じる。食べる順番逆にすればよかった。
「とりあえず食べたら外行こっか」
「……はい」
 とまあ、こんな感じで長い休日が始まったのである。

 最初に入ったのは公園だった。一体どこに連れまわされるのかと身構えていたから拍子抜けだった。
 それなりに広いこの公園では「七つの花めぐり」というフェアが開催されていて、歩いているだけでも癒される。こうやってじっくり自然を楽しむことなんてしばらくなかったから、案外いいかもしれない。……いや、リラックスしてどうする。気を抜いてはダメだ。
「きれいだね~」
「そうですね。こういうところ好きなんですか?」
「まあ、そこそこ?」
 花はこんなにきれいなのに、早い時間だからか人は少ない。いい場所のベンチだってガラガラだ。
 触れないくらいの距離で二人並んで座る。こうしていると本当にデートしているみたいだった。
 まだそこまで歩いたわけじゃないのにこの男は、疲れていないか喉は乾いていないかと気遣いを見せてくる。はっきり言って不気味だ。
「……デートが終わったら何を企んでるのか教えてもらえるんですか」
「企むって?」
「だっておかしいですよこんなの」
「僕が話すって言ったのはきみの弟のことだけだよ」
「……そーですか!」
 すごくムカつくけど私に帰るという選択肢はなかった。今日を我慢すれば多少なりとも情報が得られるのだ。
「僕もさあ……、」
 しばらく間が空いて、続きはないのかと彼のほうを見る。彼はじっと空を見上げていた。
「きみにどこまで話すか悩んでるんだよね」
「全部」
 大きなため息をつかれてしまった。
「僕はこれでも一般人は巻き込まない主義なんだよ。まあできる限りで、だけど」
「どういう意味ですか? 話したら私の身に危険が及ぶようなことなんですか?」
「どっちかっていうとそうだな~……世の中には知らないほうがいいこともある。みたいな」
 殺し屋というのはもっとぶっ飛んだ思考を持っているのかと思っていたけれど、案外普通のことを言う。一般人との線引きをきちんとしておきたいタイプなのかもしれない。ただそれはそれとして、
「思わせぶりなことを言われると余計気になります」
「だよね~」
 ごめんごめんと言いながらも全く悪びれていない様子だった。彼は立ち上がって私に手を差し出してくる。
「手でも繋ぐ?」
 私は男の手を取らずに立ち上がった。彼が手を引っ込めようとして、そこを強引に握る。彼は目を真ん丸にしていたけど、すぐにまたニコッと笑った。
「素直じゃないな~」
「あとで今日のはデートっぽくなかったと言われても嫌なので」
「あ、それいいね」
「……やっぱり恥ずかしいからやめます」
 するりと抜き取ろうとした手が途中で動かなくなる。睨んでも彼は知らん顔だ。なんでこんな馬鹿なことしたんだろう。この人だって本当に手を繋ぎたかったわけじゃないだろうに、本当に意味がわからない。
「行こ、あっちで花めぐりフェア限定のケーキが食べられるんだって」
「はい……」
 と言いつつも、私は足を動かさなかった。どうしたのと大きな目が私を覗き込んでくる。なんかおかしい。こんなの私が知りたいことじゃないはずなのに。
「……名前、教えてくれないんですか」
「南雲」
「なぐも?」
「あ、今の顔きみの弟にそっくり」
「……は?」
「やっぱり姉弟だね~」
「ちょっと待ってください」
「なに?」
 なに? じゃないだろう!
「弟のこと知ってるんですか? なんで今まで黙ってたんですか?」
「話すのはデートしてくれたらって約束でしょ? 本当は終わってからにしようかと思ってたけど、きみがデート中ぼーっとしないように小出しにしてこっかなーって」
「全部話す気になったってことですか?」
「さあ? とにかく僕の話、聞き逃さないようにね~」
 からかうような笑みを浮かべた彼だったが、すぐに口元から笑みが消える。
「でも、帰りたくなったらいつでも帰りな」
「……帰るわけないでしょう!」
 勢いで言ってしまったけど、実のところ不安もあった。これはきっと忠告だ。殺し屋の彼が知らないほうがいいこともあると言うのだから、本当に知らないほうがいいことなのだろう。だけど今さら引けない。つないだ手から震えが伝わらないようぎゅっと握り締めたら、呆れが混じったような視線を向けられた。何もかもお見通しって顔して本当に腹が立つ。