前世の記憶を思い出したら殺せなくなって、南雲に目を付けられる話05
あったかくて、ふかふかしていて、なんだかいい香りまでする。うっすら目を開けると見慣れない天井が見えて、三秒考えた。私の家、こんなだっけ。……なわけない!
勢いよく起き上がると、やはりそこは見覚えのない部屋だった。
私が被っていた布団の上には脱ぎ捨てられた大きめの柄シャツとズボンが置かれている。私が布団から出るのと同時にベッドから雑誌がぱさりと落ちて、鉛筆が挟まっていたページが開いた。
(……これ、数独?)
この部屋の主がやっていたのだろうか。雑誌にはたくさんの数字が書き込まれていた。
さて、どうしよう。見渡す限り監視カメラのようなものはない。出口になりそうなのは、ドアと窓がそれぞれ一つずつ。もしこれが誘拐だったとして、今の私の実力で誘拐犯に勝てる見込みは薄い。チャンスがあるなら窓だろうけど、これも半分以下の確率だろう。ここはおとなしく様子を見るほうがいいだろうか。私は雑誌に挟まっていた鉛筆を拾い、袖の中に隠した。目つぶしくらいにはなるかもしれないと思ったのだ。
「あれ、起きてる~?」
ドアの向こうから緊張感のない声が聞こえてきた。この声、なんか聞いたことあるような。あれ? そういえば私、さっきまで夢を見ていた気がする……。
私が身構えるより先にドアが開いた。
「あ、やっぱ起きてるじゃん。もー、なんで返事してくれないの~?」
(……は?)
南雲だ。でもなんで?
「朝はパン派? それともご飯派?」
「……朝は、食べない」
「ああ、そうだったね。でもお腹空いてるでしょ?」
開かれたドアからふわりとバターの香りが漂ってきて、お腹がぐうと鳴った。なんか、前にもこんなことがあったような気がする。
「フレンチトースト焼いたんだ~」
「いや、ちょっと待ってください」
南雲はにこりとしたまま首を傾げた。いや説明してよ。待ってって言ったのは私だけどさ!
「……状況説明をお願いします」
「逆に聞きたいんだけど、どこまで覚えてる?」
「……」
どこまで……。夢を見ていたのは覚えている。でも、どんな夢だっただろう。そもそも本当に夢だったのかさえも怪しい。
「あ、雨」
「そうだね、昨日は雨が降ってた」
(そうだ、昨日は給料日で、最後の返済をして、あの家を出るはずで……)
一つずつ思い出していった。小雨の中、封筒が濡れないようにしながら走ったこと。父親に封筒を渡したこと。そして、
(利息……)
夢だと思いたかったけど、やっぱり夢じゃなかったんだ。利息800万円。そして利息を払い終えるころにはまた追加で800万の利息がついて、きっとそれはあいつらが死ぬまで続く。
「……ショックなことがあって、家を飛び出しました」
「うん」
「それで、雨が強くなってきて……」
私はどこへ行ったんだろう。ただ遠くへ行きたかった。それだけしか思い出せない。
「……あとは思い出せません」
「そっか。僕はね、君がびしょ濡れで気絶してたから家まで連れて来たんだ~」
「え……、どうして?」
「そりゃまあ、知り合いだし」
「よく私だってわかりましたね」
「わかるよ」
南雲が真剣な目をして言うからドキッとしてしまった。わかるよって……まあ、私も南雲が倒れていたらわかるとは思うけど。全然変わってないし。だけど私はあのときとは全然違う。身体はガリガリになって、肌も髪もボロボロ。昔の知り合いにこんな姿を見られたくなかった。辞めなきゃよかったのにって言われたら、立ち直れないから。
「帰らないと」
「なんで? どこに帰るの?」
「ご飯作らなきゃいけないんです」
「君は食べないのに?」
「……そういう決まりだから」
「帰らないで」
部屋を出ようとした私の腕を南雲が掴む。その反動で袖に隠していた鉛筆が落ちてしまった。見えてないわけがないのに、南雲は何も言わない。
「冷めないうちに食べようよ」
「……うん」
決して強い力で掴まれていたわけではない。でも、私は南雲の手を振りほどくことができなかった。本当は帰らないといけなかった。バイトの時間もあるし、ゆっくりしていたら大変なことになる。だけど、何もかもめちゃくちゃになってしまえばいいと、心のどこかで思ってしまったのだ。
「いっぱい食べてね~」
こんがりキツネ色に焼けたフレンチトースト、ぷりぷりのウインナー、みずみずしくツヤのあるいちご……。「ブドウもあるよ?」と言われて、さすがに首を振った。
「牛乳飲める?」
「はい」
「どうぞ~」
「……ありがとうございます、いただきます」
こんなことってあるのかな、と思いながらフレンチトーストを口に運ぶ。甘くて、バターの香りがして、ふわふわでおいしい。こんなにおいしいものを食べるのは初めてだ。なんだか涙が出そう。南雲はにこにこと私が食べる様子を見ていた。
「……私、死んだのかな」
「いやなんでそうなるの?」
「天国かなって」
「僕が天国にいるわけないじゃん」
「……じゃあ、夢?」
「かもね」
そう言って南雲はいちごを食べる。……なんか絵になるな。もともと彼が整った顔立ちをしていることは知っていたけど、初めてそれを実感した気がした。
「どうしたの? お腹いっぱい?」
「あ、いえ……全部食べます」
「うんうん、ゆっくりでいいからね~」
こんなにおいしいものを残すわけない。全部一人占めしたい。頭ではそう思っているのに、身体のほうが追いつかない。胃が悲鳴を上げている。
明らかにペースが遅くなっているのに、南雲は何も言わずに待ってくれていた。むしろこっちがいたたまれなくなって「後で食べていいですか」と聞いたぐらいだ。どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。何か企んでいるのかもしれないけど、今の私に期待できるようなことなんて何もない気がした。
「もう少し寝る? それか散歩でも行く?」
「バイト行かなきゃいけなくて」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
「……えっと、どういう意味ですか?」
「しばらく休むって電話しといたから。店長さんも君のこと心配だったみたいでさー、気にせずゆっくり休んでいいって」
(……は?)
頭が真っ白になった。私にはお金が必要なのに。一日も無駄にできないのに。
「なに勝手なことしてるんですか!」
しゃがれた声が出た。もう叫ぶことさえできなくなっていたみたいだ。喉がピリピリして痛い。だけどそれより、南雲が憐れむような目を私に向けてきたことのほうが悲しかった。
「ごめんね」
「……あ、いや」
すんなり謝られてしまった。ただそのおかげで私も少し冷静になれた気がする。そもそもどうして南雲が私のバイト先を知っていたのか。他にも確認しなければならないことが山ほどあるじゃないか。
「……なんでバイト先知ってるんですか」
「ずっと見てたから」
「え……ずっと?」
「うん。僕がJCCを卒業してからずっとね。まあ学生のときも実習のついでに様子を見には来てたけど」
「……何のために」
「まだ言いたくないかな」
南雲は立ち上がって自分の食器を片付け始めた。もう質問するなってことだろうか。だけど私は空気を読んで黙るタイプじゃない。
「ずっと見てたってことは、私が……」
言葉の続きが出てこない。今さら隠したって無駄な気もするけど、自分が借金の返済に追われていることを話すのには抵抗があった。もしかしたらそこまでは知られていないかもしれないと、ちっぽけなプライドが邪魔をするのだ。
唇が震える。勘付かれたくなくて南雲から目を逸らした。早く帰りたい。でも帰りたくない。自分でもどうしたいのかわからない。何をしたら正解なのか、誰でもいいから教えてほしかった。
「君が両親にどんな扱いを受けてたかは知ってるよ」
「……それで、かわいそうだから助けたと?」
「そうなる……かな」
「そんなことしたって、」
意味ない、と言い切れたらどんなによかっただろう。一時しのぎの助けなんて後が辛くなるだけだ。……うそ、本当は嬉しかった。一瞬だけど夢が見れた。でも、帰らないと。
「……まあ、知ってるなら話は早いです。そろそろ帰りますね。ありがとうございました」
「帰っちゃだめだよあんなとこ」
「逃げても無駄なんです」
「……あ、そっか。これを最初に言わなきゃいけなかったんだ」
食器を置いて近づいてきた南雲が私の両手を取る。親指ですりすりと指の関節を撫でられてくすぐったい。私は困惑するしかなかった。
「君のお父さんとは話をつけてきたから、今日からここで一緒に暮らそ」
「……へ?」
ちょっと待ってほしい。頭が追い付かない。一緒に暮らす? いやいやそうじゃなくて、話をつけたって何? 本当になんで最初に言ってくれないわけ?
やっぱりこれは夢なのかもしれない。頬でもつねって確かめたいのに、南雲が手を離してくれないせいでそれもできなかった。