人魚は魔女に恋をする

 アズールが家に来ることに浮かれていてすっかり忘れていた。ジーナの家には調理器具……特にお菓子作りに使うようなものがほとんどないのだ。ヘラもなければ泡だて器もない。オーブンすらないのはさすがにマズイんじゃないかと思ってアズールに連絡してみる。約束が白紙になるのは嫌だが、当日にがっかりされるよりはマシだ。しかしアズールからの返信は「気にしなくていいですよ」というものだった。
「ケーキなら何でもいいんですよね?」
「何でもいいです」
自分でもちょっと必死すぎるんじゃないかと思ったけれど、構っていられなかった。メッセージのやり取りはそこで途切れ、ジーナは当日を待つこととなる。

 クリスマス・イヴ。約束の時間ぴったりに玄関のブザーが鳴った。片手にひっさげられた袋はおそらくケーキの材料なのだろう。アズールを中に招き入れようとして、ジーナは自分がひどく緊張していることに気付いた。どくどくと胸が鳴っている。アズールが家に入るのは初めてじゃない。あのときは別の意味で緊張していた。また会いたいなんて思っていなかった。アズールの瞳がジーナを捕らえる。
「入りますよ」
「あ、うん……どうぞ」
アズールは上着を脱ぐとすぐに袋の中からケーキの材料を取り出した。
「何か手伝うことある?」
「いいですよ、あなたは座っていてください」
「えー……」
ジーナの声を無視してアズールは作業に取り掛かった。器具もなくどうするのかと疑問だったが、アズールは魔法で器用に材料を混ぜ合わせていた。ジーナの家にあったもので役に立ったのは、鍋とボウルぐらいである。
 遠くから見ているだけじゃ物足りない。ソファから立ち上がってアズールの真横に行くと、彼は煩わしそうに言った。
「何です?」
「見学」
「もうほとんど終わりましたよ」
アズールの手元の白のケーキはほぼ出来上がっているように見えた。まさかこんなに早いなんて。
「レアチーズケーキ?」
「はい。さすがにオーブンなしでケーキを焼くのは骨が折れます」
「おいしそう」
「まだダメですよ。冷蔵庫で二時間ぐらい冷やします。開けていいですか?」
「うん」
物が少ないおかげでケーキはすんなりと冷蔵庫に収まった。ジーナは先にソファに戻ってアズールを呼ぶ。
 もともと一人用のソファだ。寝転がってくつろぐ程度の広さはあるが、二人で座るとおそらく狭い。ソファの前で立ち尽くすアズールの腕を引く。
「……ジーナさん、」
「違った?」
クリスマスに家に来てくれるのだから、期待してもいいのだと思った。回りくどいとか、そういうことも言われたから全部わかったうえで来たのだと思った。けど、自信がない。好きだとは言っていないし、言われてもない。好きと口にするのは怖くて、もうすこし確信が欲しいのだ。
「……違いません」
アズールの体重がソファに乗る。狭すぎて膝がぶつかった。次に触れたのは手だ。指を重ねてみて、拒否はされなかった。
「……アズールくん、あの……」
「僕は臆病なんです」
ジーナが言いかけた言葉はアズールに遮られた。悲しそうな顔をしている。「臆病?」ジーナが聞き返すとアズールは顔を逸らした。
「昔の僕を知っているでしょう」
「うん。まあ……」
「まだいるんですよ、僕の中に。追い出しても追い出しても出て行ってくれない。変わったと思いたいのに」
ジーナは身を乗り出して逸らされたアズールの顔を追った。目を合わせようとしても、アズールはこちらを見てくれない。
「ねえ」
ジーナは息を止めて三秒数えた。
「すき、です」
言った瞬間、アズールと目が合う。丸く開かれた瞳に、今度はジーナが目を逸らしてしまった。重なっていたアズールの指がぴくりと動く。
「臆病なアズールくんも、全部すきになりたい」
「……どうして、あなたは」
絞り出したような声だった。
 狭いソファの上で向かい合ったまま時が流れる。繋がったままの手からチリチリと熱を感じて火傷してしまいそうだった。
「……僕もジーナさんのことが好きです」
「ほんと?」
全身がぞわぞわ、むずむずと震える。もう一度アズールと目を合わせると、彼は頬を赤らめて微笑んでいた。その目に吸い込まれそうだと思って、本当に顔が近づいてきているのだと気付く。
「あ、あの」
ジーナはアズールの胸板に手を添えた。押し返しはしない。アズールの手がジーナの背中に回る。
 ぎゅ、と目を瞑った。息も止めた。頬にやわらかな感触が落ちてきて、ジーナは目を開く。
「……っ」
思ったよりもアズールの顔が近くにあってジーナは息を呑んだ。初めて見る表情だ。熱っぽい視線は嫌じゃなかった。
 ジーナの両手がアズールの眼鏡をそっと抜き取る。至近距離で見られるのが恥ずかしくてそうしたけれど、続きをねだるような行為だったとジーナは頬を染めた。
 次は唇だった。触れたのはほんの一瞬で、上体を起こしたアズールはジーナの手から眼鏡を奪う。
「……ねえ、ケーキもういいかな?」
「何言ってるんです。まだ三十分も経ってませんよ」
「うそ……」
アズールの手がふたたび伸びてきて、がっちりと抱きしめられる。ジーナもおずおずとアズールの背に手を回した。
「いい香りがする」
「コロンをつけているので」
「……うん」
ジーナは腕の力を強めた。
「もっと」
アズールが息を呑んだのがわかった。ぎゅうと圧迫感が強まる。
「いたい」
「注文が多いですね、あなたは」

 アズールに包まれている時間は幸せで、永遠のようにも感じられた。時計を確認することもできず、ただトクトクと心臓の音が聞こえている。ジーナが身じろぎすると、アズールは腕の力を弱めた。すこし名残惜しく感じる。
 アズールの腕から抜け出したジーナはスマホを手に取った。あと一時間半、何をしたらいいのか。答えが見つからなくて検索したのである。
「ニヤニヤして何です?」
「調べもの」
「今ですか」
「うん」
ジーナはスマホをアズールに差し出した。画面を見たアズールは「う」と眉を寄せる。
「おうちデート、何する……って」
アズールは大きなため息をついた。
「だってまだ時間あるし、どうしていいかわからないし……」
「で、なんて書いてあったんです?」
「映画とか、昼寝とか、あと料理も」
「どれがいいんですか?」
「んー……」
実はどれもしっくりこなかった。いずれは全部やりたいけれど、今日は違う。ジーナはアズールの肩に額をぐりぐりと押し付けた。
「もっと喋りたい」
「……そうですね」
アズールに肩を抱かれる。喋りたいと言ったわりに、声が喉から出てこない。話したいことはたくさんあった。だが、そのうちの一つがとても重くて、口に出すのが怖い。言わなくてもいいかもしれないと思った。言わなくたって好きだと言えたし、言ってもらえた。黙っておいたほうが上手く付き合っていけるかもしれない。けど、今日を逃したら次はきっとない。

「……都合がいいと思わなかった?」
ジーナはアズールの顔を見ないまま言った。
 アズールはしばらく何も言わなかった。心臓を掴まれたみたいに息が苦しい。「どういう意味ですか」と顔を覗き込まれて、目の奥がツンとした。
「だって……その、アズールくんはすごくかっこよくなったでしょ」
「かっこいいと思ってくれていたんですか」
「え……あ、うん。まあ……」
アズールの反応が思っていたのと違って、ジーナは戸惑った。頭のいいアズールだから今ので全部わかると思っていたけれど、はたして本当に伝わっているのだろうか。
「努力の成果を認めてもらえるのは嬉しいですよ」
「うん」
「再会した日にずっと好きだったなんて言われたら、まあ……都合がいいやつと思ったかもしれませんけど」
「……うん」
「あなた、泣いていたじゃないですか」
「……ん、」
「ほら、また泣いてる」
アズールの指がジーナの目頭をすくう。
「全部好きになりたいって言いましたよね?」
「……言いました」
「じゅうぶんなんですよ、それで」
目元にあった手が頬に下りてくる。ジーナは自然と目を閉じていた。

「わ、おいしい」
アズールの作ったケーキは、お店で買ったケーキに負けないほどだった。おいしいおいしいと言えば、アズールに頬をつつかれる。「うるさい」と言われたけれど、まんざらでもなさそうだ。
 まだまだ食べられそうだったけど、ケーキは一切れにしておいた。残りは冷蔵庫に入れて、アズールの隣に戻る。
「今度、海に行きたい」
一緒に泳いで、疲れたら並んでぷかぷか浮いていたい。ジーナは陸に上がった後も何度か一人でそうしていた。落ち着くのだ。陸に憧れていたくせに、どうしても体は海を求めてしまう。そして、次は隣にアズールがいてほしいと思った。
「そうですね」
「それから、えっと」
他にもやりたいことはたくさんあった。……はずなのに、別の言葉が口から出てきてしまう。
「まだ、帰らないで」

***

 帰らないで、と言ったジーナは真っ赤になってうつむいていた。アズールはうなだれた頭を優しく撫でる。
「帰るなんて一言も言ってないでしょう」
「……うん」
「可愛い人ですね」
「……え」
「何かおかしなことを言いましたか?」
「……いいえ」
わかりやすく照れた彼女は小さくなってアズールから顔を背けた。告白する勇気はあるくせに、変なところで恥じらいを見せる。そういうところも可愛らしいと思うのは、惚れた弱みなのかもしれない。
 まだ昔のことを気にしていたのかと呆れた。もうその話には蓋をしたはずだったのに、きっと事あるごとに彼女は思い出すのだろう。アズールもそれは同じだ。臆病だと釘を刺したのは、自分が傷つかないための保険だった。ジーナは平気でそれを乗り越えてくる。
 昔の自分は嫌いだ。できることなら消し去ってしまいたい。だが、彼女がそれも含めて好きになってくれるのなら、思い出の中に留めてやっておいてもいいと思った。「全部すきになりたい」彼女らしい素直な言葉だ。
「ジーナさん、」
アズールは真っ赤な耳に話しかけた。
「ありがとう」