2話
トレイさんが淹れてくれた紅茶から、いい香りが漂ってくる。私が人間だということ、みんな驚いていたけど案外普通に受け入れてくれた。ただ、トレイさんの魔法はそう長く続かないらしい。だからせめて美味しいものをと、紅茶と作りたてのタルトが用意されたのだ。
「熱っ」
「……え、そんなに熱くないですよね?」
デュースくんはそう言って紅茶をごくりと飲んだ。確かに湯気も立っていないし、手でカップを触った感じも熱くない。
「ああ、悪い。俺のせいだ」
トレイさんは私のティーカップを下げて、代わりに氷の入ったグラスを用意してくれた。中身は同じ紅茶のようだ。
「猫になるって魔法、何に上書きするか思いつかなくて、とりあえず猫舌になるって効果にしたんだった」
まさか本当に効くとは思ってなくてな、とトレイさんは眉を下げた。
「火傷しなかったか?」
「あ、いえ……大丈夫です。紅茶もタルトも美味しいです」
本当のことを言うと、緊張でまともに味はわからなかった。フォークを持つのも久しぶりで手が震えたのだ。ちゃんと人間らしく振舞えているか心配になるなんて、おかしな話だと思う。
「……そろそろ時間だな」
「……え」
ポンと音がしたかと思えば、あっと言う間にみんなの顔が遠くなっていく。声を出してみたら「ニャアン」と最近では聞きなれた音が鳴った。
「さて、ここからが本題」
ケイトさんが言うと、一年生たちが首をかしげた。
「どういう意味なんだゾ?」
「この子、本当に人間だったわけでしょ? しかも呼び出したのはここの卒業生。さすがに森に帰れなんて言えないよね?」
「そうだな。学園長に相談してみるか?」
学園長さんや先生たちなら魔法についても何かわかるかもしれないと、トレイさんは考えているようだ。
「猫ちゃん、それでいい?」
「ニャー」
「はいって言ってます」
「ユウちゃん、通訳ありがと!」
「……ケイト、猫ちゃんはないんじゃないか?」
「あ、そっか。ねえキミ、名前は何て言うの?」
「……ニャア」
「あれ?」
ユウくんに通訳してもらうまでもなく、私の戸惑いは伝わったようだ。私はここに来る前の記憶がない。名前も、自分がどんな顔をしていたのかもだ。さっき鏡を見ておけばよかったと今さらながら思う。
記憶がないことはユウくんに伝えてもらった。これも魔法の影響かもしれない。みんなはそう考えたようだ。
「でも、名前がないってのは不便だよなー」
エースくんの言葉にケイトさんがうんうんと頷く。
「なら僕たちで名前を考えたらいいんじゃないですか?」
「例えば?」
「……綺羅羅、とか?」
「出たデュースのワル語録」
「ニャー!」
「嫌って言ってるよ」
デュースくんはがっくりと肩を落とした。キララって響きは可愛いけど、デュースくんが言うと謎の凄みを感じてしまう。
「はいはいじゃあ次はオレー! アナスタシアなんてどう?」
「ニャー……」
「あれ、気に入らない?」
いい名前だと思うけど、しっくりこない。私にはもったいないというか、それに長くて呼びにくそうだ。
「じゃ、トレイくん! 次よろしく!」
「……そうだな、モカなんてどうだ?」
モカ。その響きは私の中にストンと入っていった。本当にそんな名前だった気さえする。不思議だ。
「気に入ったのか?」
トレイさんが目を細める。思い切り頷こうとして、前に倒れてしまった。やっぱり猫の体は不便だ。
「じゃ、モカちゃんに決定! 記念にマジカメアップ~!」
パシャ、とケイトさんが写真を撮る。「あの」とユウくんが控えめに声を上げた。
「学園長のところに行かなくていいんですか?」
「……あ」
何人かの声が重なった。すっかり忘れてしまっていたらしい。それからみんなでバタバタと食器を片付け、寮を出た。
「……これは何とも、信じがたい」
トレイさんに上書き魔法を使ってもらって、学園長さんの前で私は再び人間になった。今までのことを説明すると、学園長さんは大きなため息をついた。
「何ということでしょう。我がナイトレイブンカレッジの生徒が、まさか、こんな事態を……」
「あの、大丈夫ですか?」
学園長さんに声を掛けると、彼はコホンと咳ばらいをした。
「ああ、すみません。君には本当に申し訳ないことをしました。ですが、現状では誰が君に魔法を掛けているのか、どうやって元の場所に戻してあげられるか、わからないのです」
「……そうですか」
何となく予想はしていた。普通に考えたら私を召喚したオクタヴィネルという寮の男の子が怪しいが、彼にそこまでの魔力はなかったそうだ。まして二年も魔法が継続しているなんて、通常では考えられないと。
「ですが君を呼び出してしまった責任はこちらにあります。可能な限り調べてみましょう。私、優しいので」
「……ありがとうございます」
とりあえず一歩、前進だ。私ひとりではどうしようもなかったけれど、学校のみんなが協力してくれるなら何とかなるかもしれない。現に今日も、魔法の力で猫の姿になったとわかったのだ。
「モカのことですが、もう一つ提案があります?」
「何でしょう? クローバーくん」
「彼女が学園内に住む許可をいただけませんか? 今までは森で寝泊りしていたようですが、人間と判明した以上……」
「そうですね……クローバーくんの言い分はもっともですが……」
どこに、というのが問題らしい。私としては雨風をしのげる屋根があるだけで有難いんだけど……。そう言ってみたら、もっと欲を持って! とケイトさんに言われてしまった。
しばらくみんなで考えて、ハーツラビュル寮がいいんじゃないかとデュースくんが提案してくれた。
「ちょうどトレイ先輩もいますし、俺たちも事情を知っていますし」
「そうなんですけど、むしろそこが問題と言いますか……」
学園長さんとしては、私が校内でむやみに人間になることを心配しているらしい。ナイトレイブンカレッジは男子校だ。はっきりとは言われなかったが、何となく言いたいことはわかる。
「じゃあ僕のところはどうかな」
猫のままでも意思疎通できるし、とユウくんが言う。
「……確かに、ユウくんの寮に住んでもらうのが現実的かもしれませんね」
「なーんかお前のとこ、妙なのがそろってるよな~」
「ふな!? なんか今、バカにされたような気がするんだゾ!」
ニシシと笑うエースくんにグリムちゃんが炎を吐く。ユウくんが慌てて止めに入って……これがいつもの光景のようだ。
「ニャア」
「……うん、これからよろしくね、モカ」
「ニャー……」
オンボロ寮。話には聞いていたけど、いざ目の当たりにすると言葉を失ってしまう。埃だらけだし、クモの巣があちこちに張られている。それに、今にも雨漏りしそうな屋根だ。もちろん屋根がないよりは何倍もマシなんだけど……。
「ごめんね、まだ談話室ぐらいしか掃除が終わってなくて」
そう言ってユウくんが案内してくれた部屋は、玄関とは違って綺麗に整えられていた。他の部屋の掃除が終わるまではここで寝てほしいということだ。私も掃除できればよかったのだが、そのためにトレイさんに魔法をかけてもらうというのも気が引ける。
「ニャアン」
「ああ、気にしないで。どのみち全部掃除するつもりだったから。それともう一つ言っておかなきゃいけないことがあるんだけど」
その瞬間、私の背中にひやりとした空気が触れた。
「ここ、ゴーストが出るんだよね」
「ニャアアアア!」
思わずユウくんの足にしがみついてしまう。けど、よくよく考えたらとんでもなく恥ずかしい。猫の姿で本当によかった。
「悪い霊じゃないから……たぶん」
ユウくんの乾いた笑いがオンボロ寮に響いた。