3話
しんと静まり返った店の中。その日は妙に来客が少なく、エマは買ったばかりの小説をカウンターで読んでいた。エマの手が本のページをめくる。そのかすかな音だけが時の流れを示していた。
物語もちょうど折り返し。そんなときにドアの開く音がした。エマはもちろん読みかけの本を閉じるしかない。とっさにカウンターの上に置いてあった仕入れの伝票を読みかけのページに挟み込んで、本を隅に寄せた。
エマは扉を開けた人物を見て、思わず固まった。何か後ろめたいことがあるわけではない。ただ、読んでいた小説の登場人物が目の前に現れたことに驚いたのだ。彼もそのことに気付いたようで、エマの手元をみて「おや」と顎を撫でた。
「シャーロック・ホームズの冒険、ですか」
「はい、アイリスちゃんが書いていると聞きまして。それにスサトさんにも強く勧められました」
「なるほど」
「……だって、今日はなぜかお客様が全然いらっしゃらないのです」
責められているわけでもないのに、エマは言い訳じみたことを口にしていた。この小説を読んでいるところを見られたのが気恥ずかしかったのと、ホームズの視線に耐えられなくなったのだ。
「客が来ない。まあ、当然です」
「え、どうしてですか」
「今日は祭りの日ですからね。この辺りの店はほとんど閉まっていますよ」
「お祭り……ああ、そうでした!」
これでもかと言うほど街中で祭りのビラは見かけていたのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。目玉がダンスパレードで、他にも出店やステージショーのある、それなりに大きな祭りだ。客が訪れないのも当然である。
しかし、ここでいちばんの疑問は、どうしてホームズがここに来たのかということだ。
「実は昨日まで大きな仕事を抱えていましてね。それでボクは先ほどまでぐっすりだったというワケです」
「それはお疲れ様でした」
「そして目を覚まし、家には誰も居ない。置手紙には“お祭りに行ってきます”と」
アイリスとナルホドーとスサトは三人で祭りに行ってしまった。つまり、そういうことらしい。ホームズはひとり、トーストを一枚かじって家を出てきたそうだ。
「このときのボクの気持ち、分かりますか!」
「……ええと、林檎でも剥きましょうか?」
「ああ、いえ、そういうことではないのです」
ホームズはカウンターに近づき、エマが置いていた読みかけの小説を手に取った。
「今日はお誘いに来たのです。物語の続きはまた今度にして頂けると嬉しいですね」
ホームズは本を顔の横まで持ち上げて言った。彼は礼儀正しく紳士的のように見えて、こんな風に強引なときもある。そのたびに動揺してしまうのが、彼に振り回されているような気がして少しだけ悔しい。
「お誘いってお祭りのこと、ですか?」
その通りだとホームズは頷く。エマは時計をちらりと見て考えた。来客も期待できないのだから、このまま店を閉めてしまってもいいだろうか。祭り自体にも興味があったし、ホームズに誘ってもらえたことも嬉しい。エマは改めてホームズに顔を向け直した。
「私でよければぜひ」
ホームズは当然だと言わんばかりに頷いた。
エマは大急ぎで店を閉めて、次は着替えだと奥の部屋へ走った。そんなエマをホームズはくすりと笑う。
「そんなに慌てなくとも祭りは逃げません。ボクのことを気にしているのなら、どうぞお構いなく」
「はい……。ありがとうございます」
自室の部屋の戸を閉めたエマは大きく深呼吸をした。ホームズは急がなくてもいいと言ってくれたが、そういうわけにもいかない。結局、いつも着ている上着を羽織って、財布の中身を確認しただけで身支度は終わってしまった。
店内に戻り、ホームズに声を掛ける。そして二人で店を出てようやく分かった。通りには人が全く見当たらない。よくこんな状態で店を開けていたものだ。もしホームズが訪ねてこなかったら、エマは小説を読み終わっていたことだろう。それはそれで悪くないのだが、ホームズの誘いの前には霞んでしまう。
ホームズの隣を歩くのは少し不思議な感じがした。こうして彼とどこかへ出掛けるのは初めてのことで、どう振る舞えばいいのか迷いがある。友人と言うには距離が遠く、だけど店主とお客様という関係では物足りない。
ちらちらとホームズの横顔を見ていると、急にその口が開いた。
「小説はどうでしたか」
「面白いです。……あ、まだ途中なので犯人の名前は言わないで下さいね!」
「ええ、それはもちろん」
「ミスター・ホームズは仕事をされているとき、ああいう感じなのですか?」
小説の中のホームズは、いつもエマが見ている彼とは違う印象だった。エマは探偵としての彼のことを全く知らない。そのせいか、物語の主人公と目の前の彼がどうにも一致しないのだ。
殺人現場で推理をする名探偵シャーロック・ホームズはとても格好よかった。証拠品と推理で犯人を導き出し、華麗に事件を解決してしまう。倫敦中で大人気のヒーローと言っても過言ではない。
そして、エマの目の前に居るホームズ。決して彼が格好わるいとか、探偵に見えないとか、そういうことが言いたいのではない。ただ、ホームズがいつもエマの店の中で見せる表情は……特に彼がアイリスに向ける顔は、あの物語の中では描かれていないように感じたのだ。
「多少はアイリスの脚色もありますよ。まあ、ボクに関してはそう変わらないと思いますが」
「そうなんですね。私の知らないミスター・ホームズのことがたくさん書かれていて、続きも楽しみです」
「それもいいですが……せっかく目の前に本物がいるのですから!」
ホームズは大げさな動作で両手を差し出して、エマを急かした。
「そうですね。ごめんなさい」
祭りの広場は多くの人で賑わっていた。ホームズにその気があるのか分からないが、先に行った三人を探すのは難しそうだ。
出店にはつい手を伸ばしたくなるような可愛らしい小物や、動物の形をした艶やかな飴などがあり、ただ歩いているだけでも楽しかった。せっかくだから何か買いたいのだが、どれも心惹かれるところがあり、なかなか決められない。
ホームズはどんなものに興味があるのだろう。彼の表情からは分からない。何を買おうかと迷っているようにも見えるし、探し物をしているようにも見える。
「たくさんお店があって目移りしてしまいますね」
「ええ本当に。つい財布の紐が緩んでしまいそうだ」
しばらく歩いてホームズは足を止めた。彼の目線の先には細やかな刺繍の施されたリボンがいくつも並べられている。ホームズはそれを一つとり、店主にお金を払って、なぜかエマに差し出した。
「これは寂しいボクに付き合ってくれたお礼です」
「え、え! 私に、ですか。……これって」
ホームズに手渡されたリボンは、花の刺繍がとても可愛らしいものだった。エマはホームズとリボンを交互に見て、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
「ブックマークです。せっかく本を読んでいるのに、途中のページに挟むのが注文票では味気ないですからね」
あ、とエマは口元に手を当てた。ホームズは気付いていたのだ。エマが小説の途中に仕入れの伝票を差し込んでいたことを。もともとよく周りを見る人なのか……それとも彼の職業柄なのかもしれない。
「ミスター・ホームズは本当に探偵なのですね……」
「……まあ、ボクとしてはもっと別のところで実感して頂きたかったですが」
やれやれと肩をすくめたホームズは、店の前から移動しようとした。エマは慌ててそれを止める。
「あ、あの……私もお礼に一つ選んでもいいでしょうか?」
「お礼のお礼とは格好がつきませんね。……ですが、断るには惜しい提案だ」
エマはこの言葉を了承と受け止めた。数多く並べられたリボンの刺繍に一通り目をやって、ぴんと来たものを手に取る。エマとしてはこれしかないと選んだものだったが、ホームズには伝わらなかったようだ。
「猫ですか。理由を聞いても?」
「ええと、探偵さんのイメージが……殺人現場と猫探し、だったもので」
「それに加えるなら人探しもですね。あまり気乗りする依頼ではありませんが」
つまり、猫はよくなかったということだろうか。エマが不安に思っているのを感じ取ったらしいホームズは、リボンを手に取りふと笑った。
「大切に使わせていただきます。ありがとう」
「……はい! 私のほうこそ、ありがとうございます」
エマは花の刺繍を指先でなぞった。本当はどうしてこれを選んだのかホームズに聞いてみたかったが、明らかにタイミングを逃してしまっている。エマはぐっと言葉を飲み込んで、歩き出したホームズの後を追った。