5話

 お茶会に誘われた木曜日。221Bの扉を開けてまず目に入ったのは、立ちすくむナルホドーだった。
「ああっ、エマさん! いいところに!」
「どうしたんですか?」
ナルホドーは無言でエマから目を背けた。というより、原因はその目線の先にあったようだ。ソファの上で、ホームズが項垂れている。全く動く気配がないので気付かなかった。背中を丸めたホームズはいつもより何倍も小さく見える。きっと何か大変なことが起きているに違いないとエマは息を呑んだ。
 エマは二人の元に近づき、部屋の中をきょろきょろと見回した。ここには二人しかいないのだろうか。
「あ、寿沙都さんとアイリスちゃんならもう帰ってくると思います。すごく美味しいと評判のお菓子があるとかで」
「そうでしたか。……あの、それも確かに気になっていましたが」
エマはもう一度ホームズを見た。彼は先ほどから全く動いていない。
「朝からこんな感じなんです。なのにアイリスちゃんたちは出掛けちゃうし、ぼくはもうどうしたらいいのか……」
ナルホドーはがっくり肩を落とした。何度も声を掛けて、ホームズが大事なものを無くしてしまったというところまでは聞き出せたらしい。ただ、何を無くしたかまでは話してくれなかったそうだ。
「ミスター・ホームズ、探し物なら私も手伝いますよ」
ホームズの隣に座って、覗き込むようにして話しかける。ホームズは顔を少しだけ上げてくれた。しかし、その表情はものすごく暗い。いつもの陽気な彼とはまるで別人だ。
「ミス・エマ……ボクは今、あなたにだけは会いたくなかった。いや、合わせる顔がないと言うべきか」
「どうしてですか?」
ホームズはじっくり時間を掛けて体を起こした。その視線はぼんやりと、しかしまっすぐ正面に向けられている。隣に座ったエマとは目を合わせてくれない。会いたくなかったというのは本当のようで、胸の奥がチクリと痛む。
 ホームズは静かに話し始めた。
「ボクは昨日の夜、このソファで本を読んでいました」
確かにソファの前のテーブルには小説が一つ置かれている。深緑色の表紙にゴールドの文字でタイトルが刻まれた、これまた倫敦で人気の物語だ。きっとこの本のことを言っているのだろう。
「しかしボクは、読んでいる途中でうっかり寝てしまった。そのまま朝を迎えてしまったのです」
「そんなのよくあることです! 落ち込む必要なんてありませんよ」
早合点したエマに、ナルホドーがおずおずと声を掛けた。
「……ええと、無くしものをしたという話では」
エマはハッと息を呑んだ。彼の言う通り、ホームズの話には続きがあるのだろう。
「すみません。話の腰を折ってしまいました……」
「……ミス・エマ、その本を開いてみて下さい」
ホームズに従い、エマは小説を手に取った。そして開こうとすると、ページの間に何か挟まっていることに気付く。
 本に挟まっていたのは小さなメモ用紙だった。このページでよかったのだろうか。確認の意味も兼ねてホームズの顔を見ると、彼は小さく頷いた。
「確かに昨日、ボクはこのページを読んでいた。しかし、ボクはこんな紙切れを使う必要なんてなかった!」
ナルホドーは首を傾げる。しかし、エマには一つだけ心当たりがあった。
「ミス・エマ……あなたなら分かりますね?」
「……もしかして、無くしたというのはあの猫のリボンのことでしょうか?」
ホームズに畳みかけられるようにして言ったエマの推理は正しかったようだ。ホームズはエマに弱々しい声で謝り、またうつむいてしまった。
 やっと分かったホームズの落ち込んでいる理由だが、エマは彼がここまで気落ちしていることに驚いていた。そんなに気に入ってくれていたのか、それとも……。
 無防備に晒されたホームズのふわふわとした頭を撫でたい衝動に駆られる。そんなに落ち込まないでほしいと慰めたかった。さすがに失礼かと思いとどまり、そのままじっとホームズのつむじを見つめる。すると、ナルホドーが言いづらそうに口を開いた。
「……あの、ぼくには何が何やらさっぱりなのですが」
「ああ、すみません。勝手に納得していました。リボンというのは栞のことです。二人でお祭りに行ったときに買ったものなのです」
「そう。あれからボクは必ずその栞を使っていた。それなのに、今朝起きたらリボンが紙切れになっていたなんて!」
ホームズ自身、メモ用紙を本に挟んだ記憶はないそうだ。リボンを無くしたから紙で代用したのではなく、そんなメモ用紙などそもそも記憶にないと。
「せっかくエマが選んでくれたものなのに」
ぽつりとホームズが言った言葉は誰かに向けられたものではなかった。しかし、それを聞いたエマの顔に、じわじわと熱が集まってくる。行き場もなく視線を泳がせていると、ナルホドーと目が合ってしまった。恥ずかしくなって両手で頬を覆い下を向く。図らずともエマとホームズは、二人同じような体制で並んでいた。
「……あの、一つ気になったことがあるんですけど」
ナルホドーはこれまた申し訳なさそうに口を開いた。
「あ、はい。何でしょうか」
答えないホームズの代わりにエマが返事をする。顔の熱はまだ引いていないが、ナルホドーがそれについて言及する様子はない。
「ホームズさんは昨夜、読みかけのページにリボンを挟んだ。そして今朝、本を開いたら紙が挟まっていた」
そういうことですよね、と確認するようにナルホドーは言う。
「でも、ホームズさんは読書の途中でうっかりそのまま寝てしまったと言った。どちらが正しいのでしょう?」
ホームズは勢いよく頭を上げた。彼は何か分かったようだが、エマはまだよく理解できていない。
「うっかり寝てしまった人間が、本に栞を挟むかという話です。ここにはアキラカなムジュンが――」
「ミスター・ナルホドー! キミはやはりボクの見込んだ男だ!」
ホームズがソファから立ち上がる。そしてそのとき、入口の扉が開いた。――アイリスとスサトだ。
「ただいまー! ごめんね、エマちゃん。待たせちゃって」
「エマさま、申し訳ありません。お店に行列が出来ていて、思いのほか時間がかかってしまいました」
アイリスとスサトは紙袋をテーブルに置いて、その中身を取り出そうとしている。そこでアイリスが「あれ」と髪を揺らした。
「ホームズくん、もう元気になったの?」
アイリスはホームズのもとに近づき、腕を組んだ。
「もう、昨日なんて本を開きっぱなしのまま寝ちゃってるし、ほんと世話が焼ける」
「……開きっぱなし?」
それが誰の声だったのか分からない。三人のうちの誰かだということだけは確かだ。
「本が傷んじゃうから閉じておいたの。ちゃんとどこまで読んだか分かるように、紙を挟んでおいたからね」
アイリスはそれだけ言って、スサトのもとへ戻った。残された三人は互いに顔を見合わせ、そして最終的にはホームズに二人の視線が集中する。
「ホームズさん、本を読んでいる途中は栞をどこに置いているんですか?」
ナルホドーに呆れ顔で指摘されたホームズは、ゆっくりと右手を胸ポケットに運んだ。
「……あった」
ナルホドーは疲れ切ったのか、その場に座り込んでしまった。いっぽうホームズは大声で笑い出し、ようやくエマとも目を合わせた。
「いや、すまなかったね諸君! ボクの勘違いだったようだ!」
「……エマさん、怒っていいと思いますよ」
ナルホドーはこう言うが、エマはそんな気になれなかった。ホームズがリボンを大事に思ってくれていると分かっただけで、嬉しかったのだ。