7話
病室を訪れたエマを見たホームズは「アイリスかな?」と首を傾げた。
「ふふ、ハズレです」
「じゃあナルホドー弁護士か」
「正解です。あの、銃で撃たれたと聞きましたが大丈夫なんですか?」
「撃たれたというより、撃たれた衝撃でボクが持っていた薬品が爆発したというのが正しいのですが……この通り」
ホームズが急にベッドから起き上がり、心臓が飛び跳ねるかと思った。エマが慌てて駆け寄ると、彼は心配しなくていいと笑う。実はもうすぐ退院なのだそうだ。
「実際のところ、ヒマで仕方なかったのですよ。体はもう動くのに、ベッドに縛り付けられたままというのは」
だから見舞いに来てくれて嬉しいと、そう言われてほっとした。迷惑だったらどうしようなんて考えていた。しかしそれは杞憂で、ホームズはエマに椅子に座るよう勧める。
ホームズは本当に話し相手に飢えていたようで、いつもに増して口数が多かった。病院の食事が味気ないことから、解決した事件のことまで。身振り手振りは普段より控えめだが、話題が尽きることはなかった。
時計の針が一周したあたりでホームズの話は一度止まった。
「申し訳ありません。ボクとしたことが、つい話すのに夢中になってしまって」
「ああ、いいえ。私は……その、楽しいです。ミスター・ホームズ、あなたがご迷惑でなければ」
「とんでもない。今日が木曜でよかった」
「……はい。私もそう思います」
少しの沈黙が流れた。エマは何度か口を開こうとしたが、言葉が喉から出てこない。店の引き出しに置いてきた劇のチケットのことを切り出したいのに、ただ時間が流れるだけだ。ホームズの容態によっては後日にしよう思っていたが、むしろ今がいちばんのタイミングな気がしてならない。
意識すると途端に緊張してしまう。やっぱり今日はやめておこうか。けれど、二人で落ち着いて話せるタイミングなどそうそうない。エマは自分のひざ元をじっと見つめて、どう言いだそうかと何度も考えた。
「この前と同じ表情をしていますね」
「えっ」
「あなた劇に誘ってくれたときのことを思い出しました。……行けなくなってしまって残念です」
「た、退院したら行きましょう! まだチケットは使えますから!」
勢い余って座っていた椅子がガタンと揺れた。……恥ずかしい。小さな声で謝ってエマは椅子に座り直した。
ホームズは笑顔で誘いを受け入れてくれた。退院するのが楽しみだと、そう言って。なんとなく彼に誘導された気がするのだが、どうなのだろう。
「……あの、分かっていたのですか? どうして……」
「答えは簡単です」
ホームズはぴんと人差し指を立てて、けれどいつもの得意気な表情は見せずに顔を少しだけうつむかせた。
「そうだったらいいなと、それだけのコトです」
ホームズはそれきり黙ってしまった。もしかして彼も照れているのだろうか。無防備な彼の頭のてっぺんを見て、エマは思わず手を伸ばしかける。これで二回目だ。
「あの、ホームズさん……。頭を撫でてもいいですか?」
顔を上げたホームズから真っ直ぐな視線を感じる。劇に誘うより何倍も恥ずかしいことを言ってしまった。ホームズが勇気を出してくれたのならそれに応えたいと思っただけなのに、口から出てきたのはずいぶん遠回りした言葉だ。
「ホームズさんを見ていると、何て言うか……私……」
「……ボクは今、あなたを抱きしめたいと思ったよ」
エマはベッドに身を乗り出した。そうして彼のふわふわの頭に手を伸ばす。けれど、彼に捕まえられてしまった。
「……ずるいです」
すっぽり背中まで腕を回されて本当はそれどころではなかったのだが、他に気の利いた言葉を考える余裕がなかった。ホームズが少し力を緩めたので、もう一度手を伸ばす。
「お気に召したかな?」
「……はい。思った通りふわふわでした」
「いつでも触ってくれて構わないよ。キミだけの特権だ」
こく、と頷く。しかしながらここが病院で、彼が一応まだ怪我人だということを思い出した。エマが椅子の上に戻ると、今度はホームズがベッドから身を乗り出そうとした。
「ま、まだ安静にしておいたほうが……」
「なぜ! キミが言い出したコトじゃないか!」
「そうですけど……! やっぱりいけないと思うのです。それにここ、病院ですし……」
立ち上がってベッドから距離を取り、そのまま帰ろうかと思った。しかしこの妙な空気のまま、しかも逃げるようにして去るのは心残りである。
「……退院したらお願いします。……たくさん」
最後はほとんど消え入るような声だったが、ホームズにはちゃんと聞こえていたようだ。
「そこまで言われたら仕方ないな。本当なら今すぐ退院したいところだけど、楽しみは後に残しておくとするよ」
「はい。早く元気になってくださいね」
病院から出たエマは大きく息を吸って、吐いた。ものすごく大胆なことを言ってしまった気がする。“退院したら”というのを想像すると落ち着いていられない。彼が退院するまでずっとこんな気持ちなのだろうか。その前にまたお見舞に行くのもいいかもしれない。そう考えていたが、彼は本当にすぐ退院できる状態だったようで、この二日後にエマの店を訪れた。
「ホームズさん、退院おめでとうございます」
「ありがとう。……ところで、一つ確認したいことがあるんだ」
「何ですか?」
「閉店まであと五分。間違いないかな?」
エマは息を詰まらせそうになりながらも時計を確認した。ホームズの言う通り、店じまいまであとわずかである。しかし、それからの五分はエマにとってとても長いものだった。