8話

 お泊り会をしよう。
 アイリスの発案に首を振る理由はなかった。エマはこの日のためにパジャマを新調して、つい先ほどまでアイリスとスサトの三人でお菓子とお茶を囲んでお喋りをしていたところだ。しかし楽しい時間はあっという間。まだまだ話したいことはたくさんあったのに。
 真っ暗になった窓の外を眺めては、溜め息をつく。興奮してしまっているのか眠れない。水を飲んで落ち着こうと、エマは音を立てないようゆっくり階段を下りた。
 一階ではホームズがソファで新聞を読んでいた。彼はエマに気付くと新聞を膝に置いて背伸びをした。
「眠れないのかい?」
「はい。お水をいただこうと思って」
エマがそう言うと、ホームズは立ち上がって水を注いでくれた。頼んだつもりではなかっので、少しびっくりする。しかし人の家で勝手にあれこれ触るのもどうかと思い、そのままホームズに甘えることにした。
「ありがとうございます」
「構わないよ。……それより、眠れないのならボクに付き合ってくれないかい?」
ホームズはもと居た場所に戻って、ぽんぽんとソファを叩いた。
「少し話そう。眠くなるまででいいから」
エマは頷いて、そろりと彼の隣に座った。ホームズと話していて眠くなることなんてないような気がしたが、それは黙っておく。

「いつもこの時間は起きているんですか?」
「まあ大体そうかな。つい夜更かししてしまうんだ」
「私もです。最近はアイリスちゃんの小説を読んでいて。でも、あと少しで読み終わっちゃいそうなんですよね」
と言っても続きは今も連載中。次はストランド・マガジンを追うことになりそうだ。
 世間で大人気のシャーロック・ホームズシリーズ。もちろんエマも読んでいてその面白さを実感する。だがそれとは別にホームズのことが書かれているから、というのもエマの中では重要なことだった。
「エマのことが書かれている小説があったらボクも夢中で読むんだけどね」
ホームズの指がエマの手にするりと絡む。思わず声を上げてしまいそうになったが、空いている手で口を押さえて何とか呑み込んだ。
「だってそうだろう? キミはボクの知らないところでボクのことを知っていくというのに」
「……でも、本を読んだだけでは全然わかりません」
「まあ、それもそうか」
手はつないだまま、ホームズへ寄りかかる。彼が少し体に力を入れたのが伝わって安心した。緊張しているのは自分だけではなかったのだ。
「ごめんなさい。小説の話は嫌でしたか?」
物語を読んで彼のことを知ろうなんて、失礼だったかもしれない。逆の立場だったらというのはあり得ないけれど、想像しただけで身震いしてしまいそうだ。
 つないでいた手が離れ、今度は肩を抱かれたかと思えばもう片方の手で髪を撫でられる。その手は頬へと降り、唇で止まった。
「嫌じゃないさ。ただ、ボクもエマのことをもっと知りたいと思っただけだよ」
「……何が知りたいですか? 私、ホームズさんに聞かれたら何でも答えます」
ホームズの顔がゆっくりと近づいてくる。目を閉じて、それは一瞬だった。
「まだ眠くならないかい?」
「なるわけ、ないじゃないですか……」
エマの頬を撫でるホームズの手は先ほどよりもずいぶん冷たく感じた。それが自分の頬の熱さのせいだと気付いて、更に熱が顔に集中する。
「さあ、何から聞こうかな」
「……あ、あの」
ホームズの顔は相変わらず、近い。距離を取ろうと身をのけ反らせてみても、ソファの背もたれが邪魔をする。むしろ逃げ場を失ってしまったというか、追いつめられてしまった。決してこの状況が嫌なわけではない。が、恥ずかしさ半分。どうしたらいいのか分からないというのが半分。エマはホームズとソファの間からするりと抜け出した。この後どうするかなんて考えていない。
 ホームズはソファから体を起こして髪をかき上げた。
「ごめん。怖がらせてしまったかな」
薄暗くて表情はあまり見えないが、声が明らかに落ち込んでいる。怖かったわけじゃない。それなのに彼にそう思わせてしまったことが情けなくて、胸の奥がチクリと痛む。エマはホームズの手を両手で包んて、首を振った。
「違うんです……。ごめんなさい。こんなとき、どうしたらいいのか分からなくて」
よかった、とホームズは笑う。
「それはボクも同じだよ」
「……そうだったんですか?」
「まあ、こう見えて必死でね。ちょっと自分でも信じられないぐらいに」
ふふ、と笑うとホームズも笑ってくれた。それから緊張が解けて、何てことのない話をして過ごした。忙しいときの手抜き料理、一緒に行った祭りのこと、それから家族の話。どんなに時間があっても足りない。けれど、そう急ぐ必要がないことも二人は分かっている。
「それじゃあ今日はこの辺にしておこうか。明日、起きられなくなるといけないからね」
「はい。ありがとうございました。……おやすみなさい」
「おやすみ。いい夢を」
ほぼ一年ぶりだった「おやすみ」という言葉。じわじわと心の奥に沁みてくる。毎日こうだったらいいのに。そう思った。

 意外なことに朝はすっきりと目が覚めた。わりと遅くまでホームズと話していたのだが、その後の寝つきが良かったおかげだろう。
 身支度をして階段を下りると、ホームズが昨日と同じくソファに座っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「……ん、どうかしたのかい?」
階段の前に立ったまま動こうとしないエマを不思議に思ったのか、ホームズは首を傾げた。
「誰かにおはようとかおやすみって言うの、すごく久しぶりだったんです。それで……」
目の奥がつんとして、言葉に詰まる。もしかしたらずっと寂しかったのかもしれない。それをこんなところで自覚するとは思ってもみなかった。
「なんだ、そんなことか!」
「……え」
ホームズから返ってきた声は思っていたよりも明るい。彼はその続きを、更に明るい調子で話す。
「エマもここに住んだらいいじゃないか!」
「え、でも、お店が……」
混乱してそう返すのがやっとだった。他にもっと考えなければならないことがたくさんあるはずなのに、ホームズの勢いがそれを邪魔する。
「店を辞めてほしいなんて言わないよ。朝起きて、おはようと言って、一緒にご飯を食べて、それからエマは店へ行く。ボクは探偵の仕事をするし、アイリスたちもそれぞれやることがある。そして夜はここへ帰ってきて……その繰り返しだ。何も問題ないだろう?」
「え……と、問題ないんでしょうか?」
「何もないさ! エマが嫌じゃなければ、だけどね」
「嫌ではないんですけど……」
「なら考えておいてくれたまえ! いつでも歓迎するよ」
「……はい。でも、ホームズさんだけじゃなくて、他のみなさんにも」
「ああ、話しておくよ。誰も反対しないだろうがね」
という調子で、この日はホームズに押し込まれてしまった。しかし、いざ一人の家に戻るとぽっかりと心に穴が開いたような気持ちになる。今まで意地を通して平気な振りをしていたのが、ホームズによって崩されてしまったのだ。
 エマがホームズに返事を伝えるまで、あと数日――。